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源頼朝の墓 ・ 法華堂跡 (神奈川県鎌倉市)

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法華堂跡碑…『堂はもと頼朝の持佛を祀れる所にして頼朝の薨後其の廟所となる建保五年五月和田義盛叛して火を幕府に放てる時将軍實朝の難を避けたるは此の處なり寶治元年六月五日三浦泰村此に籠りて北條の軍を邀へ刀折れ矢盡きて一族郎等五百餘人と偕に自盡し満庭朱殷に染めし處とす 大正13年3月建鎌倉町青年團』
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歌碑…『君出でて民もしづまり九重の塵もをさまる世とはなりにけり』
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源頼朝公顕彰碑(平成12年7月12日・源頼朝会)…『歌碑は我が国中世史の権威であり、源頼朝研究の第一人者でもあった大森金五郎氏によるものである。戦乱の中世を鎮定して民百姓の生命財産を保障すると共に時の朝政を恣しいままにしていた公家衆の特権を剥奪して我が国最初の武家政権を鎌倉の地に創設した不世出の英雄源頼朝公を讃えたものである。顕彰碑裏面には源頼朝公の偉業を讃える八百余名の顕彰者名が刻銘されている。』
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『頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久公石塔道』
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源頼朝の墓…『源頼朝は、治承4年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2年(1185)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。正治元年(1199)に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとされます。』
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白旗神社を左手に正面石段(53段・頼朝が亡くなった年齢)を上ります。
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鳥居(昭和39年)。
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源頼朝の墓。
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ちょっと想像していた墓とは違った(笑)
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樹々に囲まれてひっそりと佇みます。
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奉寄進碑…『玉垣一圍・石燈籠兩基・水盥盤一箇 安永八年己亥ニ月 薩摩中将源重豪』
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水盥盤。
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国指定史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)…『この平場は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。治承4年(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は、同年に鎌倉に入りました。元暦2年(1185)に平家を、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。以降、江戸時代が終わるまで、約700年にわたり、武家による政権が続くことになります。建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちからもあつい信仰を集めました。鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造りの墓塔が建てられました。現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。平成24年3月鎌倉市教育委員会』
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希義公の土と石…『父義朝が平清盛の前に屈した「平治の乱(1159年)」のおり、平家方に捕縛された兄頼朝は当時13才、同じ父母の下に生まれた希義は当時3才と言われていますが、其の後一度として兄弟の再会なく今日に至っています。公家政治から武家政治へ移行の戦乱の狭間、兄弟の悲哀を想い、今日互いの墓所の土と石を交換し835年の時を経て兄弟を再会させたものです。平成6年(1994年)9月25日源頼朝公報恩会・源希義公顕彰会』
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源希義公墓所地図。
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2012年2月11日正午頃、墓の相輪(塔頂部65cm)が破壊されるという事件が起こっています。犯人は鶴岡八幡宮の境内で刃渡り約19センチの包丁を隠しもっていたことから、銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕になったそう。信じられない事件ですね。現在は見事に修復されています。
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破壊された源頼朝の墓。
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墓の横にあるこちらの石塔(安永8年建立)「頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道」、「承薩州侯之命東都龍湖親和八十歳謹書」「安永八年己亥二月薩摩中将源重豪建之」とあります。
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そしてその後方には山道が続いていました。石塔に「島津豊後守忠久石塔道」とあるので島津忠久の墓へと続く道でしょう。行きませんでしたが、大江広元・島津忠久・毛利季光の墓所があるそうです。
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この道から行かなくても、頼朝の墓の石段を一旦降りて東側へ少しだけ進んだ場所(北條義時法華堂跡)にきちんとした参道があります(案内板あり)。
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頼朝の墓から少しだけ離れた場所にある西御門碑…『西御門は法華堂西方の地を謂う。大蔵幕府西門の前面に當れるを以て此名あり。報恩寺、保壽院、高松寺、來迎寺等此地に在り。今高松、來迎の二寺を存す。大正15年3月建。鎌倉町青年團』
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