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日本中央の碑発見地 (東北町)

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何も知らずにこの看板に出くわすと「はっ!?」ってなりますね。
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県道8号線、千曳駅の南東。ここから階段を下って行くようです。
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案内板がありました。
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日本中央の碑発見地発見地…『本蹟は、11世紀から12世紀にかけて和泉式部、懐円、西行、寂蓮、慈円、阿仏尼、源頼朝など多くの人々に好まれた歌枕のひとつ、「つぼのいしぶみ」ではないかと話題を呼んだ、「日本中央の碑」の発見地です。12世紀末、藤原顕昭の「袖中抄」(注1)によって、初めて解説が加えられた「つぼのいしぶみ」は、その後多くの人々の関心を呼び、これを探し求める者が後を断ちませんでした(注2)。明治14年、明治天皇奥羽巡幸の折の探索・発掘でも見つからなかった碑でしたが、昭和24年6月21日、馬頭観音の石を求める千曳の川村種吉氏により姿を現しました。17世紀中頃、仙台藩2代伊達忠宗より4代網村の時代にかけて、古典の研究から歌枕を領内に結びつけていく動きが高まります。その過程で、少なくとも寛文年間以前に多賀城跡の一角で発見された古碑に注目が集まりました。殊に水戸光圀は「大日本史」編纂の為に碑の調査を行うなど、大きな関心を示し、水戸藩では以降も碑の研究が進みます。その後、17世紀後半に松尾芭蕉がこれを訪ね、「奥のほそ道」を刊行してからは広く、「多賀城碑=つぼのいしぶみ」として一般化します。しかし、18世紀中頃には南部藩でも同様の動きが高まり、先の「袖中抄」を手がかりに、南部藩内に本物の「つぼのいしぶみ」が存在すると言われるようになります。江戸中期以降、古川古松軒が「東遊雑記」で、さらには水戸の地理学者長久保赤水が「東奥紀行」で南部坪村に日本中央と題した石碑があると記してから後は、むしろ南部藩壷碑に注目が集まりました。』
※読み方:「日本中央」=ひのもとのまなか…平安京建設に並ぶ二大国策のひとつ「征夷」の歩みが北へ進む中、「日の本」と呼ばれていた蝦夷の国もまた、北へと押し上げられた。都母(つも)=つぼの国は当時その中心に位置していた。
※(注1)「袖中抄」=しょうちゅうしょう…「いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。日本の東のはてと云へり。田村の将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に、日本の中央のよし書付けたれば、石文と云ふと云へり。信家の侍従の申ししは、石の面ながさ4、5丈計なるに文えりつきたり。其所をばつぼと云ふなり。それをつもとは云ふなり」
※(注2)碑発見に至る経緯。
1778、平沢元、北海道へ向かう途中野辺地に宿泊、「つぼのいしぶみ」を探索。
1788、菅江真澄、石文村で「つぼのいしぶみ」について尋ねるも不明。「遊覧記-いわてのやま」(7月5日の条)。
1876、7月、木戸孝允、「壷の碑」を求め千曳神社の発掘を先導するが見つからず。
1934、東京の江口少将が発起人となり「日本中央の碑」を求め捜査するも未発見(11月22日付け東奥日報)。
1949、6月21日、千曳の川村種吉、本蹟で「日本中央の碑」を発見。
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そして案内板の場所から更に階段を下ります。
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結構急です。
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階段の下には特に何もありません。
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日本中央の碑発見地という標柱があり…
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小川が流れているだけでございます。発見地ですものね。人によっては霊気を感じるそうですが。
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関連記事:『千曳神社(七戸町)
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