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Channel: くぐる鳥居は鬼ばかり
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広瀬神社 (金比羅大権現 / つがる市木造館岡)

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元禄10年(1697)津軽4代藩主信政が勧請した津軽四社。祈雨祈晴・五穀豊穣・領内安全の祈願所。藩中四社・郡内四社などとも呼ばれています。その四社とは広瀬大明神・龍田大明神加茂大明神貴船大明神のこと。吉川惟足から吉川神道の奥義を授けられ、神道に精通している信政公。憶測になりますが、津軽四社の位置関係はどことなく奈良の廣瀬大社(東)と龍田大社(西)、京都の賀茂神社(南)と貴船神社(北)を模したように感じます。
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ようやく津軽四社すべてに辿り着くことができました。他の3社は立派に残っているのですが、広瀬宮だけは見つけることができなかったのです。屏風山中の平滝村は現在の平滝村に全村移転し、広瀬宮の鎮座地であった長浜村は廃村となっているため、もはや存在していないとも考えましたが、神社等は移転したとしても、かつての社地には小祠などが残されている場合が多かったり、ましてや津軽四社と呼ばれるほどのかなり有名な神社なので、何かしらの名残りはあるだろうと思いつつ捜索し続けました。
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様々な文献を参照した上で、以下のヒントに絞り込み、平滝沼の西岸の松林を捜索していたら広瀬神社の鳥居を発見。
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一.天和2年(1682)信政公は新田開発を奨めるため、現在の屏風山に松の植栽を命じている。
一.元禄7年(1694)の「御国中道程之図」によると、弘前からの新田街道の終点は後に廃村になった長浜村であり、弘前から祈祷等で往復する際に役だったと考えられる地図になっている。
一.広瀬宮(広瀬明神・長浜広瀬宮)は長浜村に鎮座。
一.元禄10年(1697)に信政公の発願により建立。翌11年9月18日御棟札仰せ付け。
一.明治6年に館岡村八幡宮に合祀。
一.安永4年(1776)造立。
一.寛政8年(1796)台風にて破損。
一.文化6年(1809)長浜宮再建。
一.天保10年(1839)広瀬大明神焼失し、木作村八幡宮社司菅井織衛に見分任命。
一.安政2年(1855)神社所書上帳には逆木明神あり。
一.文久2-3年(1862-1863)広瀬宮遷宮。
一.現存する近郊の神社…(雷電宮・羽黒神社・館岡八幡宮・大湯町稲荷神社・菰槌鹿嶋神社・山の神(菰槌)・鬼神社・立山稲荷神社・丸山八幡宮・四所神社)
一.奈良の廣瀬大社と龍田大社の位置関係を模した可能性。
一.長浜村について…屏風山砂丘中央部に位置。館岡村の西方で、屏風山の通称浜中にありましたが詳細な場所は不明。南方1里程に出来島村。貞享4年(1687)検知水帳によりますと、小字に寺沢・近江沢・丸山があります。社地は明神社地がみえます。半農半漁の村で、元禄10年(1697)に隣村の平滝村の開墾者に対し材木・飯米・大網・船を給与し、長浜・平滝沼での漁業を勧めています。享保19年(1734)の大火で村は全焼。のち長沼萢地に新たに10軒を取り立てます。元禄12年(1699)に長浜村域に雑木7500本が防風・防砂のために植えられ、元文元年(1736)には長浜村跡(火災跡)に雑木8000本が植えられています。宝暦4年(1754)の検地帳では浦目付番所、立山2ヵ所が見えます。文政7年(1824)写の陸奥国津軽郡之図に村名が見えますが、天保郷帳や明治初年の国誌には村名は見えず、幕末までには廃村したと考えられます。明治2年の諸組村寄帳によりますと木造新田に属して村名が見えますが廃印。
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額束に「広瀬神社」と書かれています。
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鳥居の周囲にはかつて赤い鳥居だったと思われる木が散乱していました。現在の鳥居が代わりに新築されたものなのか、かつてはもっと鳥居があったのかは不明です。
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鳥居のすぐ先は不自然に開けていますが、特に痕跡等を見つけることはできませんでした。
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松林の中の細い参道を進みます。
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植林されたものでしょうね。
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参道の途中にあるキノコの説明は空白さんにまかせるとして…
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ついでに虫の説明も空白さんにおまかせして…
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海側へと歩いて行きます。
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遠くに小祠が見えますね。
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広瀬神社。
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小祠の前には広いスペースがあり、かつては拝殿等があったことを伺わせます…が、特に礎石等の痕跡は見つけることができませんでした。
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祠内。
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正面に「広セ大明神」とあります。
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広須大明神と書かれているものもありました。
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御幣立の向こうには「若宇賀能賣命」と見えます。かつての広瀬宮の御祭神と一致します。一般的に広瀬神社に祀られている神です。大忌神とも呼び、豊宇気毘売神や宇迦之御魂神水神と同神ともされ、水神や五穀豊穣の神として信仰されます。「貴船(野内)加茂(五本松)は日の宮、雨の宮也、風の宮は広瀬(出来島)龍田(田野沢)にて西の浜也。是即ち四柱明神。同御治代(信政公代)に御勧請ありて、折に付ての御神事絶えずと云。」と記録にあり、前述したとおり、元禄10年(1697)藩の祈雨祈晴・五穀豊穣・領内安全を祈願する四祈祷所として勧請されたわけですが、その位置関係は京都における北の貴船神社・南の賀茂神社、西の龍田大社・東の廣瀬大社の位置関係に類似しているところがとても面白いです。類似というよりも祈願理由からしても完全に模倣です。有名な社でありながら、当廣瀬神社だけがこのように廃れてしまったのは、火災はもちろん、廃村となった直接的原因である激しい西風と飛砂でしょうね。奈良県の廣瀬大社の砂かけ祭がとても有名であることは…こちらにとっては皮肉なことです(笑)
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御幣立奥の「若宇賀能賣命」の札の下には御神体らしき石も見えていました。
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さて、広瀬神社を少し離れて平滝沼の畔を歩いていたら鳥居をもう一つ見つけました。
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広瀬神社からも程近い場所です。
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鳥居の額束には「金比羅大権現」とあります。広瀬神社との関連は不明ですが、鳥居の種類・形状・大きさ、額束の文字がとても類似しております。
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由緒等は不明です。金比羅大権現もまた水神であり、この付近における漁業・海上交通安全等に関わりがあると推測されます。
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社殿内。
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宮形は空っぽです。
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金比羅大権現、琴平大権現などの木札があります。
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御幣立などには古くは昭和51年旧6月25日、新しいところでは平成5年3月24日などの紀年銘がありました。
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平滝沼…『この平滝沼は、津軽半島でも最大規模の天然の湖沼であり、春から秋にかけてはヨットやウィンドサーフィン、魚釣りで賑わい、冬には氷のはった湖面からワカサギ釣りを楽しむことができる。また、沼の周囲にも、高村光雲作といわれる観音像や復元された2棟の縄文竪穴式住居、またキャンプやハイキングの家族連れ等多くの人に利用される野外活動施設「屏風山の家」があり、観光地として、レクリエーションの場としてたくさんの人々がここ平滝沼を訪れる。』…上の二社については一切触れられていません(笑)
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