御祭神は大山祇命、保食神。慶長9年4月2日建立。
文化9年申7月、新山別当の書上げた報告書によりますと「新山権現堂 慶長九年四月 七戸直勝公御建立」となっており、再興については「御再興 延宝二年春 重信公御代 当時御普請左之通 一.御本社 一.御鳥居 右は御上御普請御届候 一.拝殿 一.廊下 右は古来より手寄御普請御届候」とあります。同書によりますと、この神社の前身は左衛門五郎という者が、夢想により八尺四面の堂を建立して大山祇神を祀っていたところ、やがて死去し、倅がその後をついで信仰していたものを、慶長9年(1604)南部修験道行司三戸郡戸来多門院から三代にわたり三光院という者が来て別当職を受け継ぐにいたったようで、その後については「南部三十四代の太守利雄公の御代より、国家安全五穀成就の御祈祷相勤め、此時より社領高拾石、社殿御上普請として霞所氏神御町通、甲地本支村四拾余ヶ村御許ありて、南部四十一代太守利恭公御代に至る迄別当十一代、大徳院代まで南部家御代々御祈祷相勤め、其他毎年八月十五日、八戸八幡並に八幡馬場に於て御鎮地、十和田御代参相勤め、明治元年御改革後大徳院養子作田可織神職相勤め、其後無格社にて廃社となると、明治十三年七月願済復社」という経過を辿って現在に至っています。これにより社領拾石を与えられた時代が分かりますが、これより先年月日不明の多門院文書に「新山社領七石 作田村勝光院当主 大法院」というのがあり、最初から拾石を与えられたものではないことを知ることができます。大法院は寛政元年(1789)の同文書に見えており、四代ということになっています。社領については天保7年(1836)の文書に五拾石とあり、別当観竜院の時のことです。
月次祈祷日については、文化10年(1813)の多門院文書に「北郡七戸作田村新山大権現 別当観龍院 毎年九月九日相勤申候 御祈祷日左之通 毎年正月元日-三日迄 同十三日 五月五日 右三度御祈祷相勤申候」とあります。現在は9日を祭の日とし、正月・4月(春の御縁日)・9月(秋の御縁日)の3回と1月16日(権現様の門打)。
新山神社(境内案内板より)…『御祭神は大山祇命、新山大権現、龍頭観音、保食神。新山神社は(作田新山権現堂)、慶長9年(1604年)4月2日、七戸直勝公により建立されたものと伝えられる。当神社は、左衛門五郎なる者が、夢の中のお告げにより八尺四面の堂を建立し、大山祇神を祀り信仰したことにはじまる。慶長9年に、南部修験道行司が、別当職を受け継ぎ南部家代々の御祈祷・御代参を勤められ、南部氏を始め地域一円の鎮守の神として崇敬信仰される。また、当神社は古来、皇室と由縁ある神社と伝えられる。往古応永の昔より、長慶天皇の御霊・皇后皇女の御霊を祀る天皇社と合祀され、八尺堂に社祠があったものを、貞享年間に、現在の社地に移遷されたものである。特に、皇后皇女の御霊を「シンジャサマ」と奉称斎祀されたのが、新山神社の呼称起因と言われる。守護神の龍頭観音は、寺下から八尺堂に遷し祀っていた附帯観音の一体を祀ったものと言われる。現在、地域の人々は新山権現を龍頭観音と呼んで信仰している。』
社殿は3間×4間、入母屋形式、トタン葺。昭和40年木端屋根を葺きかえたもの。
地域の人々はこの神社を竜頭観音と呼んで信仰しています。寺下から八尺堂に移し祀っていた附帯観音を和田と作田で、それぞれ上体と下体を祀ったといいます。明和年代の『東奥三十三番観音礼処順御詠歌』には、作田を1番とし、「逆縁をもらさで救う新山の浦はしょうじんみだの三尊」をあげているといいます。同集では和田を2番、見町を3番にしています。
蟇股・木鼻。
社殿内。
狛犬一対(安政3年9月9日。「願船木屋松五郎・同勇吉・仁三郎。運贈船福吉丸 與八」「願主浜中幾治郎・同善右衛門・同友吉」)。
手水石。
こちらは道中で見つけた鳥居と小祠。
御蒼前神でした。