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鹿島神社 (西目屋村大秋)

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大秋村は岩木川の支流大秋川上流左岸の河谷平野にあり、東は岩木川を隔て山越えに田代村、北は白沢村、南は鷹巣山を挟んで村市村に接します。天文年間の津軽郡中名字に「大秋くいやけ」とあります。天明飢饉による被害は甚大で、駒越組大秋村絵図(桑田清氏蔵)によりますと、天明元年の総家数68軒中34軒が死絶、寛政8年には家数18。明治初年の家数は30。集落のほぼ中央、北側の山裾に鹿島神社は鎮座しています。
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貞享4年検地水帳によりますと、毘沙門堂・諏訪社・大日堂・馬頭観音堂・滝之不動堂があります。
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諏訪社(大秋堰神。正保2年(1645)建立。農耕神・狩猟神を祀る。通称お諏訪様・産土様。)は7畝14歩が除地とされ、安政2年神社書上帳によりますと元禄年間(1688-1704)・文政5年(1806、蝦夷地撤収記念・棟札あり)再建。弘前神明宮社司である斉藤長門支配下。元禄15年(1702)9月に長門が大秋堰神及び宮地村諏訪大明神の由来を述べています。それによりますと、大秋堰造成に数年取り掛かりましたが中々成功せず、正保2年に第3代藩主信義公が諏訪神社を建立し遂に成就。翌元禄16年(1703)4月下旬に宮地村諏訪大明神神主佐々木万太郎が来村し、大秋堰神に神楽奉納。大日堂は2畝4歩が除地とされ、安政2年神社書上帳によりますと延宝年間再建。毘沙門堂は堂地2畝24歩が除地と見え、安政2年神社書上帳によりますと延宝2年(1674)再建。
※ちなみに当諏訪社を見つけることができませんでした。見つけたら追記します。諏訪様は妊婦(さんと)の神様でもあり、お腹が大きくなった人や間もなく生まれる時期になった人が安産を願って参拝するそう。堂内には鏡、櫛、自然石2石などが納められているそうです。大秋村諏訪宮は農耕神と狩猟神を祀り、昔は殿様より手当を支給され、毎年神楽を奉納したのだそう。文政5年(1822)再建。文政5年に蝦夷地撤収を記念して再建したものと推測されています。
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毘沙門堂は明治初年に鹿島神社に改称。御祭神は武甕雷神。旧村社。
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寛政8年(1796)に菅江真澄が訪れて、次のように記しています…『この村はずれの馬の神の祠のかたわらにたっている柱の先ごとに、馬のくらの形をしたものが付けられてある。これは牛でも馬でも、けがや病いにかかると、いたこが神がかりして、何の祟りかをつげるので、その罪をあがなうために奉ったものだという。祠のうちに駒の形を刻んだ石があり、宝暦(1751-1764)と年号がしるされてあった。そのころは家数もたくさんあったが、飢饉のとし、検見の役人がここにきて…(中略:美女と年貢の話)…去る天明3、4年の大飢饉のころ、部落はほとんど滅んでしまい、いまは家4、5軒になったところであるが、むかしはそのような名所の女もいたと、臼をつく女が語った。』。
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竣工記念碑(昭和52年・神社前の美田)。
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鹿島神社と平行して鎮座している摂社山の神。
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社殿。
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中央には桂田忠太郎氏による絵(山神)が奉納されています(昭和19年旧12月12日)。その他にも山の神の絵が奉納されていました。
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山の神前のクランクカーブ木。
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こちらは竜神堂。
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小高い丘の上に鎮座。下調べ無しでは気付かない場所に鎮座していました。色々調べておいてよかった。
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蛇や龍の絵馬が奉納されています。
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この下に清水が湧いています。
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この水は大変いい水で、朝晩多くの人々が列をなすほどでした。
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こちらは少し離れて中大秋入口の道路沿いにある地蔵堂。
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夫婦地蔵と小さい地蔵が何体か納められています。春彼岸の入り日に弘前から生地を買ってきて地蔵様に着物を縫い、これを「おせんだく着せる」と言うそうです。地蔵様に着せる服は丁寧に縫うものではなく、返し針などをしないようにするそうです。また、おはぎは仏様の手が汚れるので持って行かないそう。子供が亡くなった時にはゴミソ(カミサマ・熊谷氏(ゴミソ)宅にオシラサマがあります。)に従い、地蔵様を刻んでもらい納めると言います。その際には人形や風車やおもちゃなどを一緒に納めると地蔵様が子供と一緒に遊んでくれるそうです。
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地蔵堂近くの丘。
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庚申塔・二十三夜塔11基(万延元年、安政4年、嘉永7年、明治、大正など)。
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かつては鍵型に並んでいましたが、部落のイタコ行事(かみさま遊ばせる)の際に、神様から「何かやることがあるんじゃないか」とお告げがあったそうで、それをきっかけに、鍵型に並び、道路に落ちそうになっていた庚申塔を横一直線に綺麗に並べることにしたそう。その歳には名坪平の三浦神主を呼び、七草上げ、庚申様すべてにしめ縄をはって御祈祷したそう。昭和33年頃までは掛け軸を掲げて、毎月1回宿の家に集まりましたが、今はやっていないそう。唱え事は「おーこうしんで、おーこんしんで、まいたりまいたりそわか」。鉦を叩き、唱え言をあげ、夜遅くまで起きて最後におみきあげをして終了。なお、これに参加した人は部落でも生活に余裕がある人達だけだったそう。4年に1度(旧閏年)には新しい杉の木でツカを建てます。表には「○年○月○日願主西目屋大字大秋村中一同敬白」、表には日と月の絵。注連縄には炭、なんば(とうがらし)、するめ、御幣が付けられます。
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1つだけ庚申塔とは異なる不思議な石がありました。詳細はわかりませんが、雷が鳴る度に縦長の穴が大きくなると云います。
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奥には馬頭観音がありました。
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馬投げ場と呼ばれていた場所で、かつては死んだ馬を捨てる所だったそう。
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この地蔵堂や庚申塔が並ぶ丘から大秋川の方へ歩いて行くと大日堂があります。
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長閑な風景。
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岩木山も近いのですがよく見えませんね。
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大日様が見えてきました。
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大日様もまた下調べ無しだと絶対に気付かなかったと思います。道路から見るとただの小屋に見えますからね。
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すぐ横は大秋川で、周囲は田んぼです。
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申・未年生まれの守り神として親しまれているそうです。
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