雪中行軍案内者顕彰碑。
裏面碑文…『明治三十五年一月二十七日烈寒ニ際シ歩兵第三十一聯隊福島大尉一小隊引率シ秋田縣ヲ経テ十和田湖迂回法量ヨリ熊之沢ニ至リ更ニ八甲田ノ嶮ヲ越エントス依ッテ彼等七士道案内トシテ拔擢サレ決死之レニ應ジ苦寒ヲ冒シ暴風雪ト闘ヘ先道ニ晝夜全ク不眠不食九死ニ一生ヲ得テ漸ク三日目青森市ニ着ス若シ彼等ノ献身的奉仕ナカランニハ或ハ同隊も彼ノ第五聯隊凍死軍ト同一運命ニ陷リシナラン噫其ノ勇實ニ偉哉。昭和六年八月建設者熊之沢青年團。七勇士…沢内鉄太郎、福沢留吉、福村勝太郎、小原寅助、沢内吉助、氏家宮藏、中沢由松。』
東道旌表碑…『この石碑は、明治35年1月、弘前第三十一連隊の雪中行軍隊が八甲田山を踏破した際、同隊を先導した当地の道案内人7名の功績をたたえたものである。(碑名の「東道」は案内役、「旌表」は表彰する意)日露戦争を直前に控えた当時、耐寒訓練として同じ八甲田山では青森第五連隊が雪中行軍を行なったが、空前の大寒波のため、199名が犠牲となっている。弘前隊(隊長は福島大尉)が八甲田山に入ったのは、青森隊の出発から4日後の1月27日。当日の朝は好天だったが、田代平に着く頃には天候が一変し、猛吹雪となった。案内人は終始先頭に立ち、肩を没するほどの雪をかきわけ、一睡もせず、3日目、ようやく青森市に到着している。犠牲者は1名も出ていない。この極寒の八甲田山中を強行突破した雪中行軍隊を文字通り命をかけて案内した七勇士(地元青年)が、福島大尉に「過去2日間のことは絶対口外すべからず(青森歩兵第五連隊の遭難目撃のこと等)」と言われたことを、明治を終わり、大正を過ぎて、昭和5年までだれ一人として語る者がなかったことは、律儀な南部人の鑑であろう。』
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