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Channel: くぐる鳥居は鬼ばかり
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毘沙門堂 (三戸町)

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六日町に案内板がありますが、鎮座地は六日町裏の川守田村。法泉寺の東隣に南面して鎮座。
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ちなみに熊原川に架かり六日町と二日町を結ぶ黄金橋には、12世当主南部政行が和歌の恩賞として勅許を得たとの由緒をもって擬宝珠を設けたと伝えます。橋に黄金橋擬宝珠の由来碑があります。『第12代南部政行公が京都在留中の春先、市中に鹿の啼き声がしきりに聞こえたことがあった。鹿の春の啼き声は不吉とのことで時の帝は大層御心を痛めておられた。政行公はこれを承り「春霞 秋立つ霧に まぐわねば 思い忘れて 鹿や啼くらん」と詠進申し上げた和歌が計らずも天皇の御意に叶い恩賞として従四位下に叙し、松風硯を賜り朱塗りの弓百張を行列に加えることをお許し戴いた。また、加茂川の橋を模し城下に架けることも特にお許しになった。政行公は、早速擬宝珠で飾った都風の橋を架けたのが黄金橋の起源と伝えられている。尚、町立歴史民俗資料館には、県文化財指定の古い擬宝珠が保存されている。』。『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』の一番最初の項目もこの黄金橋です。『青森の伝説』には『町の中心部を流れる熊原川を渡る橋、それが黄金橋である。南部12代の政行が、後村上天皇に仕えて吉野(奈良県)の行在所にいたときのこと、春なのに鹿が鳴いて、不吉な兆ではないかと人々が不安がった。そのとき政行は、「春霞秋立つ霧にまがはねば思ひわすれて鹿や鳴くらん」と歌をよんだ。天皇はたいそうおほめになり、松風という硯をたまわり、また加茂川の橋の欄干についている擬宝珠を、城下の橋に用いることを許された。政行が国に帰って熊原川に橋をかけたとき、松尾長者という人が、橋の上に黄金を敷き並べて渡り初めをした。これから黄金橋とよぶようになったという。一説には、黄金の擬宝珠をつけたからこの名が出たともいう。』とあります。更に余談となりますが、熊原川について『河童のいぬ川である。そのことで次のような伝えがある。昔、この川に住んでいた河童が、あるとき、川端で草を食んでいた馬を川に引き入れようとして、馬の手綱を自分のからだに巻きつけて引っ張ろうとした。ところがびっくりした馬は、逆に河童を引きずったまま馬屋に逃げこんでしまった。しかたなしに河童は、馬屋の中のトナ舟(飼料桶)をかむって片隅に隠れていたが、とうとう家人に見つかってしまった。家人はさっそく紫色の麻布で河童をたたいたら、河童はおとなしくなって詫びたので、二度とこの川に住まないことを約束させて、逃がしてやった。これから熊原川に河童がいないのだという。紫色の麻布は魔除けだといわれている。』とあります。余談が長くなりました。
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三戸城鬼門除けのために祀られた毘沙門天であることから、極めて古い歴史を持っており、三戸城古図にも記載されております。しかしながら古記録が全く失われており、創建年月及び縁起などは一切詳らかではありません。三戸城は天文8年、毘沙門天堂三戸南部家の居館である聖寿寺館の焼失後に築城されたと推定されており、それ以後に建てられたと考えられます。この地は三戸城から見て北方に当たり、三戸城の守護神として歴代城主から崇敬され、南部藩中興の祖とされる南部信直は度々堂に籠り祈願をしたと伝えます。現在の毘沙門堂は南部信直の遺志を継いだ夫人が新たに建立したと伝えます(慶長4年に信直が死去し、寛永8年奉納の鰐口が保存されてることから、この期間に再建されたと推定)。御堂は切妻、平入、鉄板葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付。外壁は真壁造、素木横板葺。
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三戸城守護毘沙門堂…『毘沙門天は、多聞天とも言い四天王の一つで、七福神の一つにも数えられている。北方を護る神として三戸城守護のため当所へ鎮座する。南部中興の英主と仰がれる26代信直公は、当社を篤く信仰し、しばしば参籠祈願したと伝える。当、毘沙門堂について「利直公御母公様(信直夫人)御建立の由」の記録があるが、これは信直公の遺志により、夫人が御堂を新たに建立したことを示すもので、同時代の寛永8年(1631年)の年号を刻んだ鰐口も保存されている。昭和63年8月吉日六日町多聞天神社』
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