秋田県大館市谷地町後。真田左衛門佐幸村之墓があることで有名です。
※真田信繁。通称左衛門佐、輩行名は源二郎(源次郎)。幸村の名で広く知られています。真田丸(NHK大河ドラマ)を見てからは初参詣。
一心院由緒並びに真田幸村の墓についての詳細は以前の記事を参照ください。
以前の記事『起行山 一心院 (真田幸村の墓・大館市)』
本堂前狛犬一対(弘化4年3月)。
本堂裏仏足跡。
起行山一心院(浄土宗)…『当寺は、常陸国(茨城県)那珂郡小場の城主、小場三河守義実公の供養のため、弘治元年(1555)、同義忠公が建立、開基僧は弁誉上人である。現在、茨城県那珂郡大宮町小場に「字一心院」の地番があり、当寺跡地として残っている。その後、佐竹氏の秋田遷封により、慶長16年(1611)当寺もこの地に移った。元和3年(1617)大館初代城代小場式部大輔義成公(のち3代城代義房以後佐竹姓を名乗る)が再興、現在地に再建した。この時上人は常陸国から来た3代良円上人で、当一心院の開山となった。しかし、この堂宇は、明治元年(1867)戊辰の役の戦火で焼失、のち明治13年(1880)に仮本堂が建立され、さらに85年経った昭和40年(1965)、檀信徒の熱願によって新本堂が完成した。昭和43年(1968)には、客殿の竣功を待って(総本山知恩院門跡浄土門主岸大僧正の臨席のもと)落慶式を挙行した。』
六地蔵尊。
立派な建物です。
延命地蔵菩薩。
地蔵堂。
こちらも立派な建物です。
放光王地蔵菩薩。標柱碑文…『青銅坐像銘云…奉寄付地蔵菩薩一躰御長三尺三寸為両観音提秋田比内大館起行山一心院十一世心連社歓誉上人弟子願主根誉淨來大徳造立是也于時正徳四甲午天十一月十五日七日別時供養遷座敬白 鋳佛師小松六兵衛藤原重久作 仝歌代治兵衛藤原村正 太平楽酒造業施主石川久之助』
放光王地蔵菩薩坐像。
稲荷堂。
御祭神は荼枳尼天。商工業者守護神・除災開運。
延命地蔵尊。
地蔵堂には、かつて幸村が大館に来る以前巡礼していた際背負っていたとされる張り子の地蔵尊が祀られていたそうです。※現在のものは再建されたものであり、本物は戊申の戦火で焼失。元々はこの半分ほどの大きさ。神明社に祀られているとも。
龍神さま。
おやくしさま。
大館市一心院内にある真田幸村大助父子のお墓。向って右側は古来より伝わるお墓ですが、風化しており、まったく読み取れません。現在墓と呼ばれているのは向って左のもので、右の墓についてですが、住職の話では幸村に関するものかどうかはわからないとのこと。直系の子孫は札幌にいるようですが、親戚等でも詳細わかっていないとのこと。左側は子孫によって昭和28年12月15日313回忌に建てられたお墓です。
史実では大坂夏の陣で戦死したとされていますが、討ち取られたのは影武者で、島津を頼って鹿児島に落ち延びたとする伝説に由来。島津家が徳川に恭順したため、その後各地を放浪。寛永2年(1625)から四女御田姫の嫁ぎ先の実家佐竹家に庇護され大館に住み、寛永18年(1641)12月15日に76歳で没したと伝えられます(かつての豊臣家家臣石田三成が実は奥州の地へ逃れており、それを頼ったという説や、幸村の四女である御田姫が秋田藩の大名である佐竹氏の親族に嫁いでいたため、秋田藩の庇護を受けたという説など複数の説あり。嫡男大助の墓もある)。しかしその多くは供養墓や供養塔であり、幸村の血筋を持つ子孫や縁ある人物が建てたものとされたおり、本当に幸村が眠っているかどうかは不明。ちなみに奥州の地へ向かった真田幸村・大助親子は、巡礼姿に身をやつし東北を巡り、最後に大館の岩神の地を安住の地として生活するようになったそうで、その頃から名を「信濃屋長左衛門」とし、農耕や真田紐の生産にあたり、更にはお酒を商い生計を立てていたとされます。※大助がやがて町に移って飯田と姓を改めた上、天保9年に「信濃屋」と号する酒造業をはじめたとも。説が色々とあるようなので、一説の紹介と捉えて下さい。
正面「信濃屋長左衛門事 眞田左衛門佐幸村之墓」
右面「修堂院発譽良起道清居士 起想院専譽良発妙善大姉」
左面「寛永十八年十二月十五日歿 年七十六歳 昭和二十八年十二月十五日 三百十三回忌 第十四代 札幌飯田富子 分家 大館飯田ムメ 建立」
裏面「弘化三丙午年五月 施主飯田長左衛門」
こちらの読み取れない墓碑らしき石についても一切不明とのこと。
裏側。
その隣の破損している墓石も不明。
裏側。
幸村の墓の後ろに「山本忠富■塔■■■」という石塔が倒れています。危うく縁石と間違えて踏むところでした。気を付けてください。