尻屋崎開放時間…8:00-15:45(4/1-4/30)。7:00-16:45(5/1-11/30)。それ以外はゲート閉鎖。
尻屋崎は下北郡東通村尻屋北方にある岬。昭和43年指定された下北半島国定公園のうち。太平洋に突出し、下北半島の北東端を占めます。津軽海峡東門の南角にあって津軽海峡と太平洋を分け、北海道恵山岬と相対。一帯は松林と芝生の草地の広がる海岸段丘となり、牛馬の放牧地として利用されています。
後背の桑畑山(400m)は石灰岩の山として知られており、昭和32年から日鉄鉱業尻屋鉱業所が尻屋鉱山として石灰石の採掘を行っています。鉱石は尻屋港から北海道室蘭に運搬。近年では山麓に東北開発セメントが建設され、セメント生産が行われているそうです。
ここで周年放牧される馬は寒立馬と呼ばれ、厳しい自然環境下に生育するためその耐久力は抜群。この馬は明治期外国種との雑種繁殖が進んだため在来種ということはできませんが、日本の他の地方に比較して雑種化の速度が遅かったため、現有馬の外観にその名残を見ることができます。牝馬のみを残し、雄馬は肉用として市場に出されます。
昭和47年には9頭まで減少しましたが、保護対策が進められ、同54年37頭、同55年43頭、同56年55頭が放牧。現在は30頭ほど。
寒立馬というその名が示すとおり、雪の吹きすさぶ中、寒さや風雪にじっと耐える姿が印象的な寒立馬。南部馬を祖先に持ち、改良を重ねた田名部馬をブルトン種などと交配し、尻屋地区独自の農用馬にしていたもので、粗食や寒さに強いのが特徴。
普段はゲートで仕切られた尻屋崎の敷地内に放牧されており、その様子は自由に見学することができます。自由に見学できますが足元には注意してくださいね。アレ踏みますよ。
春に敷地内のあちこちを移動し、母馬のそばを飛び跳ねる愛くるしい仔馬の姿が見られますが、冬期間はアタカと呼ばれる場所で冬を越します。その姿はいつ見ても心が揺さぶられます。平成14年11月18日青森県天然記念物指定。
元来、田名部馬・尻屋馬・野放馬と呼ばれていましたが、昭和45年村立尻屋小中学校長をしていた岩佐勉が猛吹雪に耐えて生き抜くその姿を「東雲に勇みいななく寒立馬筑紫ヶ原の嵐ものかは」と詠んで以来、寒立馬の名で呼ばれるようになったといいます。
青森県下北郡東通村の尻屋崎の突端に立つ白亜の灯台。日本の灯台50選。昔から難破岬と呼ばれている尻屋は本州最北東端に位置し、明治9年10月20日より船舶の安全を見守りながら海を照らし続けています。昭和20年に空襲で破壊されるも翌年9月より業務再開。
「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された二重のレンガ壁による複層構造。レンガ造りの灯台としては日本一の高さを誇り、イギリス人が起工した東北最古の洋式灯台としても知られています。内部の一般公開もされており、灯台好きは必見ですね。この日も一般公開されていましたが、霧が凄かったので眺望はないだろうと予想し、泣く泣く断念しました。※高所恐怖症の言い訳でございます。
幕末の慶応2年、改税約書(江戸条約)の締結により全国に洋式灯台が建設されることになりましたが、その際に尻屋崎灯台建設計画はありませんでした。それが急に明治6年6月に起工されたことと、当時としては最新の機械が次々の導入されたことから、いかに尻屋が古くからの航海上の難所であったかを知ることができます。灯台付近の海中には大根・トド島・イサゴ島その他の岩礁が多く、その上海霧(ガス)が発生し、冬季の暴風雪も強く、海難事故が多く発生しており、船の墓場と呼ばれる魔の海とされていました。明治10年11月霧信号を出す装置、同12年12月蒸気霧笛、明治34年12月沖の岩礁を照らす照射灯(アーク灯)がそれぞれ日本初のものとして設置されています。尻屋崎一帯は石灰岩地域で、高さ約20mの海岸段丘の上に、その石灰岩を貫いている火成岩(角閃石閃緑岩と呼ばれる深成岩)に灯台は建てられています。
尻屋灯台百周年記念碑(昭和51年8月12日・青森県知事竹内俊吉、東通村長川畑義雄)。
灯台横海沿いの岩場へ。
第二進徳丸殉難者之碑があります。昭和39年1月20日、尻屋沖で起こった遭難事故の慰霊碑(10名の名が刻まれています)。
たくさんの石が積まれ、その上に地蔵様がおりました。
第二進徳丸殉難者に関わるものでしょう。
「本州最涯地尻屋崎」標柱。本州最涯地…ぴんときません笑
砂防林記念碑。
鳴海要吉の文学碑…「諦めの旅ではあった磯の先の向い燈台に日が映して居た」。裏面碑文…『鳴海要吉先生は黒石の人、若くして文学に志し、島崎藤村、田山花袋に師事した。先生が東通村田代尋常小学校に赴任されたのは、明治40年10月のことである。教鞭をとるかたわら、作歌活動に勤しまれた先生は、尻屋崎、猿ヶ森砂丘、左京沼など、私達の故郷の自然を広く発表された。いまその代表作を刻み、先生の面影を忍ぶよすがとしたい。昭和53年9月吉日東通村村長中村由蔵』