『寺下観音五重の塔跡(階上町)』からの続き。
第3回階上町三陸復興国立公園指定記念俳句大会一般の部特選…『臥牛峰や赤を満たして山躑躅』階上町上野瑞子。
鳥居をくぐって残り200mの階段。
出た!ストック!!
山道にストックがある場合、これから先は勾配がきつくなることを意味します。
確かにここまでの山道よりはきつかったですね。
途中にあった石碑。読み取れませんでした。
先が見えませんね。アサヒスーパードライのせいで喉がドライになってきました。
参道両脇にやたらと巨石があります。
面白い木もあったり。
自然を楽しみながら進みます。
上に行くにつれて更に巨石が増えてきます。
鳥居が見えて…
到着!!余裕でした(※個人差注意)。
狛犬一対が出迎えてくれました。
灯明堂跡は観音堂の西方、標高約250mの山中に位置。小舟渡岬付近で遭難する船が多かったため、航海の安全を図るべく、享保15年に津要法師によって建立されました。当時この灯明堂の油料(5貫文)が藩より支給されていることが八戸藩資料から確認されており、当時から藩の重要施設として位置付けられていたと考えられます。
また、御用人所日記(上杉家文書)の享保15年5月12日条に「寺下山御疱痘立願ニ灯明堂寺下山ニ建立仕候」とあり、八戸藩四代藩主南部広信の疱痘(瘡)治癒祈願のためにも建立したとわかります。
灯明堂前に五重の塔の遺構である青銅製相輪が残されており、灯明堂内(向って右の建物)には塔の本尊である石造五智如来坐像を残しています。
灯明堂内。
石造五智如来坐像。
その奥にある石像3体。
手前にも2体。
こちらには昭和12年の紀年銘が見えました。
更にその後ろに道祖神の札が貼られた金精様がありました。
注連縄の巻き方が少しいやらしく見えてしまいました。
隣の堂内に恵比須様と大黒様。
後ろの掛け軸に薬師如来・日光菩薩・月光菩薩。
それから今気づきましたが、面白い切り絵もありますね。
五重の塔の遺構である青銅製相輪。
高さは7尺3寸。
史跡燈明堂跡標柱…『享保15年(1734)、津要玄梁和尚が、八戸浦の諸国廻船の海上運航の安全を祈願して燈明堂を建立した跡地である。ここは、北は八戸港湾から南は小舟渡の海岸一帯が眺望できる所で、海岸まで4kmぐらいの距離にあり、燈明堂の灯はよく見えたと言われている。八戸藩主より常燈明料として毎年銭五貫文が別当野沢村彦六に給されていた。』
手水石かな。
こちらは不明。ノジュールかな?
裏にも道がありました。行ってませんが。
こちらの石仏には「禅参一通居士」「元文三戌午九月廿五日」と見えます。
こちらは山の神でしょうね。
庚申塔(昭和12年旧2月吉日)。
ってことで、山を下って、再びお水で喉を潤します。以上、寺下観音シリーズでした。
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