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Channel: くぐる鳥居は鬼ばかり
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八戸城角御殿表門など

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八戸城跡周辺をさらっと散策。周囲にはおがみ神社、やぶ春や番丁庵などの美味しいお蕎麦屋さんもあります。
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やぶ春。
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番丁庵。
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八戸城角御殿表門。
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標柱。
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寛政4年(1792)、「角(すみ)御殿」と呼ばれていた屋敷地を八戸藩士の煙山覚左衛門が拝領し、同9年(1797)5月に煙山治部右衛門が表門として建立。廃藩置県後は旧八戸藩主の屋敷となり、「南部子爵邸表門」と呼ばれました。昭和52年に雪の重みで道路に倒れ、修復工事を行っていた際に、門の横木に埋納されていた高さ3.6cmの毘沙門天像(博物館に展示)と3枚の棟札が見つかっており、県重宝に指定されています。
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県重宝八戸城角御殿表門…『ここは、寛政年間には角御殿(すみごてん)と呼ばれていた。寛政4年(1792)御者頭(おものがしら)煙山(けむやま)治部右衛門がここに居住し、八戸城にふさわしい門と玄関を建てるよう命ぜられた。門はその5年後に建てられ、その時の棟札が残されているが、資金繰りの苦心談が八戸藩日記にうかがわれる。昭和53年、風雪のため倒壊したとき、毘沙門天像が門の冠木の中央から発見された。像高3.6センチの小さなものであるが、精巧な像で、棟札にも「奉修毘沙門天秘法」とあることから創建時のものであることが知られる。この寛政9年の棟札の他に、嘉永4年(1851)、明治42年(1909)修理の棟札もある。昭和55年、創建当初の形に復原した。門の構造は棟門といわれ、通常は2本の柱の上部を冠木でつなぎ、切妻屋根をのせるものであるが、この門の場合は、4本の柱を一列に並べて冠木でつなぐ大規模なもので、平衡を保つため裏側に2本の支柱を取付けるという特異な構造となっている。昭和57年3月八戸市教育委員会』
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門の中へ。現在は八戸市文化教養センター南部会館になっています。
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保存樹木「ニシキギ」。
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保存樹木「アメリカキササゲ」。樹齢約100年。
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門の外からアメリカキササゲ。
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南部家住宅表門。おがみ神社から眺められる屋敷は、屋根の架かった屋敷塀が廻り、いかにも古い武家屋敷(藩政期は逸見家屋敷。明治に南部に復姓。)の佇まいを見せ、一間半ほど引き込んだ大きな一間の棟門が建っています。屋根を架けるのに垂木を用いず、棟木から出桁へ野地板を流葺にしている板軒と呼ばれる形式はこの地方でよく見られる形式です。この門は売市熊野堂に造られた八戸藩主の別邸である南部田屋(御田屋・現八戸南部氏庭園)の表門を移築したものです。
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二ノ丸(八幡町)標柱。
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『この内丸二・三丁目の一画は、藩政時代の八戸城の二の丸にあたり、藩主一族や重臣の屋敷地であった。現在、本八戸駅に至る道路は本丸との間にあった内堀であった。南(現警察署のところ)から東を回って北側(本八戸駅のところ)には外堀が回り、周囲と区画を分けていた。この二の丸には藩の守護神だった法霊社や祈願所の豊山寺、八幡宮があった。現在内丸と呼ばれているのはこの二の丸と本丸のことである。明治維新から昭和にかけて八幡宮にちなんで「八幡町(はちまんちょう)」と呼ばれた時期もあった。昭和61年3月八戸市教育委員会』
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八戸城本丸内濠之跡(昭和8年12月本丸内濠を本道路に改修。八戸市)標柱。
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かなりひっそりと建っていました。
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明治天皇八戸行在所舊阯(昭和10年4月建設)がある市庁舎前ロータリー。コウヤマキ・エゾノコリンゴ・ヒマラヤスギ(3本)があります。ヒマラヤスギの樹高は南25m・西24.5m・北21.5m、樹齢約80年。コウヤマキは八戸藩重臣の屋敷内にあったものとされ市内最古。樹高25.5m、樹齢約250-300年。エゾノコリンゴは樹高12m、樹齢約250年。いずれもロータリーの景観をより美しく引き立てています。
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