青森県上北郡六ヶ所村平沼。田面木沼のすぐ東。平沼警察官駐在所や平沼保育所のすぐ近くになります。
かつての平沼村。村高は「正保郷村帳」9石余(畑のみ)、「貞享高辻帳」11石余、「邦内郷村志」「天保郷帳」ともに35石余、「安政高辻帳」28石余、「旧高旧領」35石余。「邦内郷村志」では家数36、馬117。「本枝村付並位付」によりますと位付は下の下、家数27。嘉永3年の家数18。天和2年に切支丹禁制、貞享5年に捨馬禁止の高札が立てられています。元和元年には酒屋数1軒と公儀へ届け、寛文7年海運に関する高札を地内に建てています。正徳2年公儀より船道高札と添札を調えるように達せられます。延享元年領内産物として白魚を書上げ。天明7年幕府より蝦夷地探索のための巡見使が泊浦より当地まで歩いています。また「東遊雑記」の著者古川古松軒が巡見使に随行して泊港より当地に来て1泊して岡三沢に向かいました。享和元年伊能忠敬は幕命により陸奥の海辺地図作製のため泊村に着き、この頃の地名として当村の名も記されています。また測量のために当村に立ち寄ったともいいます。天保6年「盛岡藩御国中分限者番付中」に当村の橋本久助が前頭23枚目に記されています。安政3年「太守様御巡国の節諸留写」によりますと、藩主は泊村秋田屋忠七宅へ泊り、翌日尾駮沖之丞家小休したのち当村久助家へ泊ったと記されています。文久3年野辺地野村治三郎の持船で御用銅・大豆・紫根を積んでいた神力丸が当村沖で暴風雨のため沈没し5人が死亡。
御祭神は天照大御神。
社殿は新しく感じます。神明宮は追館にある熊野神社よりも遥かに古いと伝えるも由来・由緒は不明。
熊野神社創建時には神明宮の神楽が奉納されており、その詞・拍子・仕様等から推測すると、七戸の天王神社とほぼ同じ頃ではないかと云われています。七戸見町観音堂旧蔵「覚」によりますと、宝暦10年正月、平沼には熊野社と神明宮が見えます。別当は蓮華院。
境内のアジサイ。