『三嶽神社(新郷村西越)』からの続きです。
拝殿前石灯籠一対(明治27年8月16日)。私の下調べでは社殿前の石灯籠は明治26年8月に拝殿改築を機に田島勘七氏奉納。
手水石一対。
宝暦14年かな。古いですね。
狛犬一対(大正14年旧8月)。
その他手水石。
西越三嶽神社由緒…『豊前の国塩田村の郷土にして大廡を構い家族召仕いに至る百余名あるを扶助する大家なるに男子なく女子一名あるのみ此娘美麗にして男子に劣らぬ器量ありという婿養子するといえども不会にして連續する者なし其の内に何方の若人なるや人品骨格相応なる者日々出入りするあり家主夫婦思考娘が氣に応ずる者あるときは婿にとるべし迚て不知顔して日月をへるに娘妊娠なりとふ説あり彼の男父母の名を語らずその外にもあやしむことありにより娘針数本を男の裾のあたりにぬいこむなり男暫く間おき隔月あり来りいわく其の身の妊娠は男子にして必ず後栄える者生るべしいたわり養育せよ我は姥ヶ岳大蛇の化身なりといふ娘なげき父母へ閉にするといふども如何ともする不能迚月の経る待つのみといふが如男子出生し産れながら肩背のあたり蛇尾の形顕然たり是が為めに成人の後尾形と改姓するといふ家富み栄い数代の後弘治永禄の項男子四人の兄弟あり成人に及び協議して日今乱国の世といふに塩田田舎に身を捨てるは男子の望む処にあらず身を立て道を行ひ名を後世に挙ぐるは此の時なりと決心家許にも老父母と妹女を残し都をさして登るや藷將を尋ぬるといえども後栄を究むると見得る大將なく無據江の浅井家に附属戦場に望む事数度あり長政不運にして織田信長の為に亡なり家臣散々なるとき兄弟又協議して曰く此後將を尋ね附属すると雖長政の如くなるときは身の固る所なく路頭に迷う事あるべし今の内に武を捨て農商に帰し命を全とふして時節を待つに不如と四人一処にあるよりは望む方へ趣き事有時は旧国に集会すべし迚長男は能登国に二男は出羽の国三男は奥羽四男は松前を心さし下るといふ三男尾形大三郎は南部三戸郡西越村へ居信す開墾の望みあり同村の支村豆田(間明田)は同人の開き地なり西越村へ神社を建立祖先姥ヶ岳大蛇を祀り氏神と崇めたりといふ二代目尾形大次郎といふ此代に至り西越村本支南部家臣の給所となる国主の命令不待との一事にて同村を立退き三戸郡田子村字清水頭に居住外平という支村は同氏の開墾地なり家屋敷續きに堂宇を建立姥ヶ岳蛇身を祀り氏神と崇めたりその姥ヶ岳神社の後地に西越三嶽神社は建立なされ御祭神倉稲魂命豊受大神祀られております西越のお祭りには尾形家より清酒一駄馬にて奉納された由であります 奉納昭和62年4月16日谷地村廣』
本殿覆屋。
社殿向かって右側。色々あります。
神楽殿的な建物Ⅰ。
神楽殿的な建物Ⅱ。
神楽殿的な建物Ⅲ。
忠魂碑(陸軍大将一戸兵衛書)。
三嶽神社碑。
裏面碑文…『祭神:倉稲魂命、例祭:八月十六日。創建年月日は明詳な資料が紛失し不明瞭であるが清和天皇貞観年間の頃萬民豊楽の祈願所として倉稲魂命勧請し社殿を建立鎮斎したと伝えられる。約1100有余年経る古社である。厄払い奉納者氏名(中鶴間操・坂本操・佐藤正一・東秋男・石森照治・佐々木義信・前山活・田島里美・中村英太郎・田島国聖・林鉄男・沢口好美・佐藤繁・佐藤正男・岩崎未吉)。昭和51年8月建立』
弁天宮。
辯財天大神尊。
本物の着物のせいか…
中々リアルです。
石段ではない方の参道。
つまり来ようと思えばここまで車で来れます。
社殿向かって左側へ。
故青森縣巡査川口金吾之碑。
明治參拾九年壹月參日殉職・大正拾參年六月建立。
気比神社。
拝殿神額。
社殿内。
馬を祀る神社です。鈴緒には駒形神社とも見えます。
祀られている像の中には馬以外に牛もおります。
狐もいます。
うん?
鎌と稲を持っているっぽいので、稲荷神像かと思われますが…ちょっと怖いですね。
牛頭汝是畜生發菩提心塔。馬の供養塔でしょうか。
紀年銘は明治33年1月。三戸郡野澤村字西越の田嶋勘七・勘次郎・又次郎建立。
こちらは馬頭汝是畜生發菩提心塔。建立年及び建立者名は上に同じ。
よく見ると正面に小さな文字がびっしりと刻まれています。
内容を見るとやはり馬の供養塔のようです。『鹿毛牝慶應三年生身丈四尺五寸行年廿九歳ニシテ終ル 仝栗毛牡明治十一年生四歳ニシテ身丈四尺七寸同十四年陛下東北御巡行ノ際献納金貳百五拾圓ニ白羽二重一疋ヲ賜ヱ名ノ花之戸號ス同十六年十二歳迄東京競馬會ニ於テ一等賞ヲ得流星栗毛後二白牡明治十一年生五歳ニテ身丈四尺九寸廿七年三月八日 両陛下銀婚式ノ御祝献納ス名ヲ藤之戸ト號ス』※自信はありません。
こちらは「淨運院嶺譽昌繁徳翁居士・清雲院蓮譽池月妙安大姉」とあります。お墓でした。当神社との関連はわかりません。