青森県八戸市小中野。旧国鉄湊駅跡地に建立…何となく境内や隣接する緑地・遊歩道に違和感を感じたのはそのせいですね。当時の枕木が現在も境内の片隅に残されているそうです。参詣した時点では知らなかったので写真はありません。下の写真は八戸市鳥瞰図(昭和8年)。
社号標(平成8年正月吉日・豊島鐘城書)。
御前神社大鳥居奉納者名碑(平成8年5月)・御前神社遷座造営事業奉賽者名碑(平成8年5月)。
御前神社…『【祭神】底筒男命・中筒男命・上筒男命・息長帯姫命(神功皇后)・武内宿禰命【由緒・沿革】当社の主神三坐は別に住吉の大神とも称され、古来、その縁起から航海安全・和歌・農業・漁業に関わる神として信仰崇敬されてきました。そして、神功皇后の由緒から安産の神としても信仰されました。さらに、古事記・日本書記の記すところの伊邪那岐命が、黄泉の国の汚れを受け、禊祓をされた時に海中から生まれなさった故事により身の汚れ心の汚れを祓清める神としても古来篤く信仰されてきました。社伝によると住吉三神の教えを受けた息長帯姫命(神功皇后)が従者の武内宿禰を陸奥に下向させます。そして、新井田川の川口小浜に安着した折り、住吉三神の神霊を受け小祠を造営したことが、当社の誕生であったと伝えられています。宿禰は住吉三神を三崎御前と仰ぎ、息長帯姫命(神功皇后)をも合わせてお祀りすることになります。その後、坂上田村麿が、当社に武運長久を願って参籠したという言い伝えも残っています。古くは雷林の地名で呼ばれていた湊館鼻の地から、平成7年の秋、小中野・江陽地区の産土神であることと、櫛引八幡宮の「お浜入り」にもゆかりのある現在地に当社は遷座造営されました。平成12年12月』※すべての漢字にフリガナがあるとても丁寧な案内板でした。
手水舎。
波にうさぎ(波兎)。
石灯篭一対(はちのへ温泉横田與一郎・横田ヤヱ奉納・平成8年4月吉日)。十五夜の竹遊びではろうそくが置かれ、幻想的な雰囲気を醸し出します。
玉梅。
玉梅…『下町の玉三郎こと梅沢富美男氏はさらなる芸能向上と今後の舞台成功を願って御前神社の御神前に祈願しました。そしてその参拝記念にこの梅を下町の玉三郎の名に因んで玉梅と名付けました。平成10年8月』
奉祝天皇陛下御即位10年植樹。
狛犬一対(昭和5年10月30日)。
大絵馬(縦2.4m・横3.6m)。桃太郎!
八戸市小中野・江陽両地区の氏神様として地域を見守り続けた御前(みさき)神社は厄払い・安産・海の神様として崇敬され、主祭神は住吉大神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)、他に息長帯姫命、武内宿禰命を祀ります。
社伝によりますと、住吉三神の教えを受けた息長帯姫命(神功皇后)が従者の武内宿禰命を陸奥に下向させ、新井田川の川口小浜に安着した折、住吉三神の神霊を受け小祠を造営したことに始まると伝えます(今から約1800年前創建)。宿禰は住吉三神を三崎御前と仰ぎ、息長帯姫命(神功皇后)をも合わせてお祠りすることになります。その後、坂上田村麻呂が当社に武運長久を願って参籠したという言い伝えも残します。古くは雷林の地名で呼ばれていた湊館鼻の地から、平成7年秋に小中野・江陽地区の産土神であることと、櫛引八幡宮の「お浜入り」にもゆかりのある現在地に遷座造営されました。地域住民からは漁業・航海安全・安産等に関わる神として崇められています。年中行事…初詣(元旦祭・午前0時)、厄払(2月)、お浜入り(5月14日午後2時。神功皇后のもとに御子である櫛引八幡宮の御祭神応神天皇が1年に1度いらっしゃる行事。親子再開後に海浜にて禊祓いをすることからお浜入りと言われています。)、例祭(5月15日午後2時)、夏まつり・奉納盆踊り(8月第1又は第2土曜日。浦安の舞・神楽・さびしろ虎舞の奉納などが彩りを添え夜店も出店。)、十五夜の竹あそび(旧暦8月15日。竹筒に灯る数百個(約700個)の明かりが境内に広がる幻想的な行事。)、七五三参り(10月中旬から11月)、新嘗祭(11月23日午前11時)。神社庁HPによりますと、『当社の主神三坐は別に住吉の大神とも称され、古来、航海安全・和歌・農業・漁業に関わる神として信仰崇敬されてきた。さらに古事記・日本書紀の記するところの伊邪那岐命が、黄泉の国の汚れを受け、禊祓をされた時に海中より生まれなさった故事から、身の汚れ心の汚れを祓清める神としても信仰されてきた。社伝によると住吉三神の教えを受けた息長帯姫命(神功皇后)が新羅遠征の後に従者の武内宿禰を陸奥に下向させ、新井田川の川口小浜に安着した折り、住吉三神の神霊を受け小祠を造営したことが、当社の誕生であったと伝えられている。宿禰は住吉三神を三崎御前と仰ぎ、神功皇后をもお祠りすることになる。その後、坂上田村磨が当社に参籠したという言い伝えもある。古くは雷林の地名で呼ばれていた湊館鼻の地から、平成七年秋に小中野・江陽の産土神であることとお浜入りにもゆかりある現在地に遷座造営された。』とあります。
『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)に、「湊の三崎神社の祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神で海上安全、祈雨、祈晴の神で港八戸にふさわしい古社で、社伝に当社の眷属の八大竜王も祀っているという。このため、法領様と混同視されたこともある。」とあります。
拝殿蟇股・木鼻等。
拝殿海老虹梁・神額等。
拝殿内。大漁祈願掛図(嘉永2年)などがあります。
両脇に神功皇后像と応神天皇像。
神功皇后像前に獅子頭(権現様)。
奉祝天皇陛下御即位10年植樹。
幣殿・本殿覆屋。
こんぴらさま。
こんぴらさま…『「金比羅船々 追風に帆かけて シュラ シュシュシュ」の民謡で唄われる讃岐(香川県)の金比羅さん。金毘羅参りは江戸中期以降盛んとなり、お伊勢(伊勢神宮)参りとともに一生に一度の信仰の旅でした。金毘羅神は航海安全守護の神さまとして崇拝され、他にも五穀豊穣・家内安全・商売繁盛・病疫退散などにも御利益があると信じられ全国に広まりました。この石殿の側面には「嘉永四年亥四月十日」、台座正面には「亀甲丸久次郎 小宝丸万吉」と刻まれています。久次郎と万吉が嘉永4年(1851)航海安全を金毘羅さんに祈願して湊館鼻の日和山に奉納したものでした。御前神社が館鼻の地から現在地に遷座され、この石殿も隣りの船魂碑とともに移されました。亀甲丸は、八戸藩の御用船で、久次郎はその船頭でした。「八戸藩日記」(嘉永元年5月4日付)によると「亀甲丸…此石八五二石五斗九升七合」と記され、かなり大型船であったことがわかります。亀甲丸や小宝丸は遠く上方まで商いに出かけ、四国の金刀比羅宮にも参詣し、ここに分霊して祀ったのでした。久次郎と万吉の祈りが伝わってくるような気がします。』
ふなだまさま。
ふなだまさま…『海とともに拓けてきた八戸にあって、航海安全守護を祈願する漁民信仰の代表は「ふなだまさま」といえます。「ふなだまさま」は、航海安全の守り神のことで「船霊さま」「船玉さま」「船魂さま」とも書かれ、通常は帆柱を立てる下の部分や、舳先に祀られ、御神体は女性の毛髪や人形、硬貨などを入れました。船を新しく造った時は親類や村人を集めて酒宴を催し、完成すると、「ふなだまさまのタマス(魂)入れ」がはじまります。この石碑は「船魂神 施主吉田亀次郎」と刻まれており、建立年代は分かりませんが、奉納者の生存時代からして幕末ごろと思われます。御前神社の祭神が住吉大神・神功皇后を祀っているため「ふなだまさま」の御利益と合致します。当地方で、船魂碑を奉祭しているのはここ御前神社だけです。今日では、御神体を納める「切り込み」が船についていないため、御前神社のお札を祀るなど、信仰の形態が変化してきているといえるでしょう。「板子一枚下は地獄」といわれるように海で生計を立てる漁師にとって「ふなだまさま」を崇敬することは大切なことでした。』