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旧風間家住宅 丙申堂 (山形県鶴岡市馬場町)

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敷地2,598.24㎡(約787坪)、建物延1,249.76㎡。木造杉皮葺(石置屋根・置石数は約4万個)、部屋数19室、畳数180畳、蔵数4戸前。建物内を丁寧に説明して頂けますよ…私は大雑把にいきます!(笑)
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上級藩士の屋敷跡が偲ばれる薬医門。
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聖徳太子光寿無量堂。
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『江戸時代から大工職人の間で、聖徳太子を大工の神と崇め奉賛する講が開かれ、太子堂が全国的に建てられました。この御堂は明和8年(1771年)、鶴ヶ岡城外北方堀端に建てられました。祀られている聖徳太子御像は明和年中に江戸の彫刻師に注文、柱間1尺4寸の「宮殿」は、それ以前の延宝7年(1679年)頃製作との覚書が残されています。その後、四ツ興屋(元新海町)に移し祀られておりましたが、荒廃がひどく棟梁小林松右衛門氏は、文政8年(1825年)大工職人衆の意を汲んでこれを修理し、大工町(現陽光町)の自邸内に移転し明治26年(1893年)には万事小林家でお祀りするようになりました。大正3年(1914年)には萱葺屋根が瓦屋根に替えられました。
昭和の終わり頃、それまでこの太子堂のお祀りを続けてきた小林家及びその関係者が此の地を離れるに当たり、菩提寺である極楽寺に聖徳太子御像と厨子、及び宮殿が安置保管されました。御本尊不在となった御堂は、荒廃はしたものの、鎌田悌治氏が、然るべき場所に移転して保存する価値があるものとし、平成9年5月に解体し、一時保管されました。
風間家は太子崇敬の念厚く、太子堂建立の思い深く、両者の出会いにより、この地に聖徳太子光寿無量堂として平成11年8月22日、移築再建されたものであります。また、聖徳太子御像と厨子、及び宮殿も平成20年7月31日、極楽寺よりこの元の御堂に帰還され、同年8月22日、お移徒法要(おわたましほうよう)が執り行われました。
平成21年8月22日 公益財団法人克念社 一般社団法人風間知恩報徳会 (平成25念8月22日改訂)』
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店入口。
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風間家の祖先は、越後の国沢海藩(現在の新潟県新潟市江南区横越地区)の武士でしたが、商人となり村上・酒田を経て、鶴岡には18世紀後半に移住したと伝えられます。
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その後、鶴岡城下で藩の御用商人として呉服・太物屋を営み、幕末には鶴岡第一の豪商となりました。
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明治期には賃金業に転じ、庄内地方では酒田の本間家に次ぐ大地主に成長し、鶴岡の産業振興に力を注ぎます。その一方で児童福祉等の慈善事業を行い、現在は育英事業等に尽力しています。
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明治29年丙申の年に、風間家7代当主(幸右衛門)が、住居及び営業の拠点として建築したもので、8代当主(幸右衛門)が建築年に因み丙申堂と名付けます。
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主屋を中心に南側は道路に面し薬医門と前蔵、西側に中蔵と奥蔵(明治29年建築)、北側に小蔵(金庫蔵)を配します。この建物は、明治27年の酒田地震を教訓に建てたと伝えられ、広大な板の間に架ける梁をトラス状にし大黒柱で支えるなど工夫の跡が見られます。
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なお、平成8年12月に主屋、同11年6月に付属の表門(薬医門)各蔵、板塀、風呂場などが国登録有形文化財となり、また、同12年12月に国指定重要文化財となりました。
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約4万個の石が置かれた石置杉皮葺の屋根。
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不自然な瓦を発見。左衛門尉酒井家の家紋「丸に片喰」があります。もしかしたら元鶴ヶ岡城の瓦かな。
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小座敷は映画「蝉しぐれ」での文四郎とお福様が20年ぶりに再会したクライマックスシーンが撮影された部屋です。
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下座敷。
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御座敷。
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前蔵。
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奥蔵と中蔵。
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立派過ぎる便器。
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釘隠し。
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中納戸。大工の親方部屋だったようです。
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階段箪笥があります。
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小蔵(金庫蔵)です。
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明治30年製の金庫のダイヤルが数字ではなく「いろは…」です。
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ブルガリア製の金庫もありました。
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