本尊は釈迦如来。もと長勝寺末寺。
貞享4年(1687)の検地帳に長円寺とみえます。
創建の詳細は不明ですが長勝寺並寺院開山世代調によりますと、古くからあった庵に長勝寺14世聖眼雲祝大和尚が勧請開山と伝えます。飯詰村史によりますと寛文7年(1667)のこと。
梵鐘(県重要文化財)。高さ127cm、口径77cm、厚さ8cm、重さ1000kgの青銅造。
寛政年間の大砲鋳造、太平洋戦争の金属回収、火災等の危機を乗り越えて現存しています。
この寺の梵鐘には沈鐘伝説があります。
一.正徳6年(1716)京都三条釜座(名工近藤丹波藤久鋳造)で鋳造された長円寺と長勝寺の2つの鐘が船で津軽へ送られてきました。十三湊に入り、岩木川を遡ろうとした時に暴風雨となって船は覆り、2つの鐘は十三湖に沈みました。1つは引き揚げられて長円寺に納まりましたが、長勝寺へ行く鐘は湖底に沈んだままとなります。それから長円寺の鐘をつくたびに、これに応じて湖中からも鐘の音が聞えるという伝説です。2つの鐘の音は「十三恋し十三恋し」と呼びかけ、「長円寺恋し長円寺恋し」と答えるそうです。なお、十三湖は沈鐘湖とも呼ばれており、よく晴れた日には水の中の鐘が見えることがあり、人の気配を感じると鐘の中から魚のようなものが現れて、たちまち泥をかきたてて消えると云われています。
二.寛政年間ロシア人が北海を横行したため警備上武器製作の原料として鐘の徴用令が下ります。しかしこの鐘は本村の南端舘の坂にさしかかると不思議と重くなり微動だにしなかったので、この鐘は村から離れたくないのだろうと宗旨の差別なく村民あげて前述の伝説を藩に申し上げて徴用解除になったと云われています。
三.太平洋戦争に際しても全国の梵鐘が徴用されましたが、青森県では弘前の長勝寺の嘉元の鐘、八戸市南宗寺の鐘、そして当寺の3つだけが古美術品として徴収を免れました。
四.雨が降りそうになる時は鐘の全身から汗を発すること甚だしく、指で自由に書画をかくことができるほどで、この鐘の発汗具合をみて人々は晴雨を占うと云います。
五.慶応3年10月27日、長円寺火災の際、鐘楼も焼失落下し割れめを生じましたが、年月の経過とともに割れめは密着していき、現在においてはその跡もなく、また声音にもまったく異常がないため、村民からは生きた鐘として崇敬されています。
幸福(しあわせ)観音像(18尺5寸)。平成8年(1996)5月に安置。
平成6年に長円寺の位牌堂・本堂は火災にて焼失し、その2年後に再建されます。火災があった同年に間山家の尊父藤五郎さんがお亡くなりになり、御先祖供養のために間山御夫妻が寄進されたもの。
岡崎市の石工美術彫刻家戸松甚五郎師が3年がかりで彫られた苦心の傑作です。
涅槃像。
近くで見ると意外に大きいです。
六地蔵。