御祭神は天岩戸別神(向かい清泉に石碑あり・天石戸別乃泉)、少彦命。
創立年月日不詳。明治3年に村社、 昭和22年に神社本庁に所属し境内国有地の無償譲与。
大重院医王山薬師堂(大行院支配の薬師堂)とも称した医王山大重院教円寺は大同2年(807)の勧請と伝え、本尊は薬師如来。慶長8年(1603)再建。
平山日記によりますと宝永7年(1710)に火災に遭っています。
明治初年の神仏分離によって教円寺は石戸神社に改称。
『青森の伝説』によりますと、この地にいた神通力自在の蝦夷の女首領を、坂上田村麻呂が神仏に祈って討取り、その遺体を葬った場所に大石を積み重ねて、その霊を鎮め石戸権現を祀ったとの伝承があります。
以下、境内にあった由緒より。
『伝承によると、本村藤沢のメノコ館に、神通力自在の女子の蝦夷首領がいてそむいた。大同2年(807)平定に当った坂上田村麻呂が神仏に祈って最後に討取った所が当所の清泉であった。大石を重ねた石堂にその霊を鎮め石戸権現をまつったという。当社は古くは大重院・医王山薬師堂と称し、慶長8年(1603)再建され、明治の初め石戸神社と改称した。祭神は天石戸別命・小彦名命である。』
石戸神社の縁起には『白神岳の手長足長』が出てきますが、これは蝦夷を指しているものと思われます。
※(別の説)メノコは棺森(雁森・588mの山)に逃げましたが、田村麻呂の軍勢に殺され、その山の頂上に埋められました(棺森の名称由来)。しかし夜な夜な女性の叫び声が聞こえたり、墓石が動くなどの奇妙なことが起ったため、遺体を湯口に移して権現様と合祀したら鎮まったという。その場所が石堂塚と言われています。
忠魂碑など。