津軽三十三観音霊場29番札所。御祭神は天照皇大神。
社伝によりますと、創建は延暦10年(791)で、坂上田村麻呂が東夷征討にあたり、社殿一宇建立の上、歓喜聖天及び十一面観音を勧請し祈願したのが始まり。
一時荒廃するも寛弘4年(1007)に恵心僧都、永仁2年(1294)に南部の法師知慶が再興、文亀3年(1503)に一道坊全賢(藤原一道・修験者)が神明宮を勧請し併祀。一道の両親の藤原政友と妻の貴増は京の人ですが、文明11年(1479)に兵火を避けて下向し、沖館に村を開いて、養蚕・織物などの産業を広めたと云われています。
後に津軽為信が信心し、天正3年(1575)津軽為信が大光寺城攻略の戦勝祈願をしたところ見事念願成就し、感謝の意を込めて天正7年(1579)に如意輪観音画像(「天正四丙子年八月願主藤原為信」を刻みます)を始めとし、知行70石、鏡や祭具等を奉納し社殿を再建。慶長13年(1608)に火災によって社殿他、多くの社宝や記録を焼失したものの如意輪観音画像だけは被害を免れました。
安政6年(1859)12代藩主の承昭が厨子を奉納。
明治3年の神仏分離によって神明宮となり観音堂は廃棄(弘前の大行院にかくまう)するも、秘仏希釈運動が薄まると御本尊を戻し、大正14年に神明宮境内に沖館観音堂が建立されます。
神明宮奥院にある厨子は12代藩主津軽承昭の寄進で、中に寛文年間(1661-1673)の4枚をはじめ藩政時代の絵馬が20枚以上収められているそう。
陸奥新報の記事にて、境内に墓碑が一基あり、「鷹司平房公三男政友」「二条尚之公息女貴増夫人」と彫られていると読みましたがどこにあるかわかりませんでした。これについては次のような物語があります。室町時代中期に関白平房三男の政友が藤原尚之の姫貴増と恋に落ちます。しかし姫は政友の兄政知の妻となります。政友と貴増はその後も秘かに恋を続けて駆け落ちし、沖館の地に庵を結びます。2人は沖館に住んで十一面観音を信仰し、周辺に散在する庵所を1ヶ所に集めて修験の地とします。2人の間に千代丸(上記の全賢)が生まれ、父母と同じく修験の道に入り、文明11年に神明宮を建立したと伝えます。両親が亡くなると全賢は五輪塔を建てて供養したそう。神明宮社殿横に墓碑のような石碑はあったのですが五輪塔ではないですね…広船神社にはかなり古そうな五輪塔があったんですけど。なお、奥富士物語によりますと、沖館出身・津軽相撲の祖で、江戸や津軽で大活躍した龍田太右衛門の墓が現存するようですが、見逃したのかいずれもわかりませんでした。そのうち再訪したいと思います。
その隣にあった碑。
こちらが沖館観音堂。
御本尊は十一面観世音菩薩。
鳥居横にあった神明宮鳥居碑文。
観音堂横の石碑。
観音堂前の狛犬と奉納馬。
県重宝の菩薩坐像の像背に「奉寄進観音堂貴峯山月峯住寺六世的心益徳代津軽平川沖館村寛文拾庚戌年三月十七日」とあり円空の作。
弁天宮。
弁天宮周囲の堀には水がありませんでしたが、向かいには大きな池がありました。
石鳥居に関する記念碑と御神木。
こちらの石には…
『せせらぎに小鳥 水浴び身を浄む』省三(平成七年五月)とありました。
境内が庭のようになっています。
奉祝御大典平成の苑の碑…『一面葦の茂みと化した神苑池の復元造成をはかり、御大礼奉祝祈念事業として、平成2年4月より工事をすすめるうち、平成3年秋、未曾有の大型台風19号のため、神樹あまた倒木の災害を被るにより、荒廃せる境内の一隅に築庭の構想を加え、平成4年完工す。平成5年、日嗣の御子御成婚・伊勢神宮61回式年遷宮の佳き年にあたり、記念の碑を建立し、国家の降昌と世界の平和、氏子崇敬者の弥栄を祈る。』。
神道祖霊社。