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小田子不動堂 (八幡神社 / 七戸町字和田下)

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小田子不動堂は応永3年(1396)南部政光によって創建されたと伝えられます。
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明治の初年頃まではもっぱら小田子のお不動様として尊信されてきました。本尊は運慶作と伝えられる不動尊。
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小田子不動堂には八幡宮が合祀されています。
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七戸郷土誌によりますと「当町ノ西端向町に在り、応永13年9月の創建で、祭神は豊受姫大神・火産霊大神、誉田別命なり、明治6年廃止し、郷社神明宮に合祭し奉り、同12年12月復社許可、同13年10月28日村社格に列せらる」とあります。※応永13年は応永3年の誤り。
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拝殿には不動尊と八幡宮の両方の額を掲げていました。
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重要有形民俗文化財『小田子不動堂奉納絵馬』について。
「波木井南部一世実長は、甲斐国(山梨県)波木井の郷を領有し、日蓮上人のため身延山久遠寺を開いた人として知られているが、その4世師行は、後醍醐天皇の側にたって、北条政権打倒の一翼をにない、終始忠節の誠を捧げた。5世政長、6世信政、7世信光、8世政光もまた師行の遺志をついで60年にわたる南北朝時代を南朝方に尽くした。後世これらが『南朝五世の勤皇』と賞賛されたゆえんもここにあった。
政光は、足利方の執拗な降伏勧告に応ぜず、甲斐の領地をことごとく足利に納め、自らは後醍醐天皇から拝領した八戸根城に移ったが、後にそれを兄の子に譲って七戸に退き、応永26年(1419)83才で没した。小田子不動堂は、この政光によって応永3年(1396)に創建されたと伝えられる。現在の堂は昭和49年に新築されたものであり、八幡宮が合祀されているが、明治の初年頃までは、もっぱら小田子のお不動様として尊信されていた。本尊は運慶作と伝えられる不動像であり、右手に宝剣、左手に羂索を持つ憤怒尊である。
不動堂の創建については、戦いに敗れて天戴の地に帰った政光が、農家の疲弊を眼のあたりに見、農民たちに心の安らぎを与えようと念じたためと言われる。
堂内には見町観音堂と同じく絵馬が奉納されているが、その数は嘉吉元年(1441)、文安2年(1445)、宝徳3年(1451)、寛正5年(1464)と言われるものをはじめ、主として江戸時代中期、新しいものでは昭和11年のものなど合わせて108枚に及んでいる。
これらの絵馬は小田子不動堂をめぐる庶民信仰の実態と推移を理解する上で貴重であるばかりでなく、見町観音堂の奉納物件と両者相俟って良馬の産地として古くから著名だった南部地方における江戸時代の絵馬奉納の特色を示すものとして、また量、質ともに優れた東北地方の奉納絵馬の代表的なものとして、平成2年3月29日、国の重要有形民俗文化財に指定された。」
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小田子不動堂の石については次のような伝説がありました。
「珪化木でるが、願かけ石といわれ、祈願者はお不動様に願をかけ、この石にもお神酒を供えて拝んだあと持ち上げた。諸願の叶う時は軽く持ち上がり、叶わない時は持ち上がらないとされていた」
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末社。
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上り口右手にある庚申の祠(大正未8年1月13日)。
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以下、青森県神社庁より。
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御祭神は誉田別尊、火武主比神。
旧社格村社、明治6年4月15日列格。
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創立当初は火武主比神を奉斎し不動社として明治初期まで存続せり。
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明治4年1月3日誉田別尊を主神として奉斎し「八幡神社」と改名す。 
明治10年10月修繕及屋根茅葺換せり。
明治15年不明月日山本ナオ参道石段改築寄進あり。
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昭和20年11月3日屋根葺換一部保修工事施したり。
昭和49年神社新築工事施行す。
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平成10年神社設立600年祭記念事業、鳥居新築、参道改修、境内整備など。
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