何か今更感もありますが弘前城天守の紹介。
弘前藩初代藩主津軽為信が津軽地方を統一したのが天正16年(1588)。
新しい城の地として高岡(鷹丘)を選定したのが慶長8年(1603)ですが、為信は完成を見ずに慶長12年(1607)京都にて客死し、2代藩主信枚が同16年(1611)に完成させます。
当初の高岡城には5層の天守がありました。現在の本丸未申櫓跡の石垣が当時の天守台です。
寛永4年(1627)に落雷により天守内部の火薬に引火し爆発。この火災は藩主信枚の伯母(初代津軽為信の正室・阿保良の姉)の祟りと当時はいわれ、時折伯母の怨霊が城内に現れていたと伝えます。
土地の旧名である高岡から現在の弘前に改められたのはその翌年で、これには魔除けの意味が込められたと伝えます。※(天海が天台密教での破邪の法から弘前と名付けます。天海は津軽家を語る上で超重要人物。詳しく知りたい方はwikipediaの信枚の項を読んでみて)
その後の弘前城は長いこと天守を持たない城となります。これは武家諸法度により天守新造の許可が得られなかったためといいます。
文化7年(1810)、9代藩主寧親の頃、ロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府は弘前藩に蝦夷地警備を命じ、あわせて天守の造営を認めました。
とはいえ、本丸辰巳櫓の改修を名目としており、天守とは見なさず、御三階櫓として扱われていました。後に事実上の天守として最も北に位置する現存天守として貴重なものとなりました。
弘前城の天守閣が小さい理由と経緯がわかりましたね。
『春の弘前 桜の都 お隅櫓に 枝さしそえて 咲いてそろって はらりと散って…』
天守は層塔型3重3階の建物で、現在は独立式ですが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式でした。多聞櫓は明治29年(1896)頃までに破却。
天守の高さは約14.4mで、現存する三重天守の中では最も低いものですが、外側に面する東面・南面には1、2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いて、小さな建物を華美で大きく見せるという視覚効果が施されています。
一方、北面・西面は破風も狭間も無く、連子窓を単調に並べただけのもので、所謂二方正面となっています。北面・西面が簡素な造りであったのは幕府の目を欺くためともいわれています。
現在は弘前城史料館として藩政時代の史料・資料を展示。
高所恐怖症には嬉しくない武者落。
屋根には鯱。
天守台は石を方形に切り出して隙間のないように工夫した切込み接ぎという方式が採用されています。かつての石垣の修理は享保4年(1719)に修復願いを提出し同7年完成。また、直近では明治29年(1896)に崩落、その修復が大正5年(1916)まで行われています。石組みにはかなりの技術を要しており、仕手人として摂津国から前田与八郎と草竹平十郎を呼び寄せています。2016年度に石垣修理が予定されています。
昔からイルミネーションとかやっていたんですね。
昔の天守閣。
明治40年頃。