大栄山 金剛神院 永代寺 (東京都江東区富岡)
お盆らしく!?しばらくお寺を紹介していきます。高野山真言宗。本尊歓喜天。御府内八十八ヶ所霊場68番札所です。永代寺は寛永元年(1624)長盛の開山により永代島に創建、江戸時代には富岡八幡宮の別当寺(遍照院)、江戸六地蔵の一つとして栄えました。承応2年(1653)仁和寺から「大栄山金剛神院永代寺」の寺号を贈られます。江戸においても有数の格式高い寺院となりました。明治初年の神仏分離により廃寺に。当時の住...
View Article臨済宗妙心寺派 慶雲山 臨江庵 (盛岡市大慈寺町)
臨江庵は元来天台宗の寺でした。寺社修験本末支配之記によりますと、聖寿寺末。寺伝によりますと、当地を訪れた天台宗の修行僧が北上川古川近くに沼沢があって風光絶佳であったことから草庵を結び臨江庵と称したといいます。後に聖寿寺中興の大道生安の代、延宝3年(1675)にその高弟静岩祖因を一世として臨済宗として開山。なお、盛岡砂子にりますと、同寺2世涼室の開基。本尊は釈迦如来。明治17年(1884)の大火の際に...
View Article曹洞宗 万松山 安盛寺 (弘前市西茂森・禅林街)
宗徳寺山門の南側手前に位置。本尊は釈迦如来。もと耕春院末寺。寺禄20石。創立年代は不詳ですが、元々は深浦村にあったそう。開山は年室善寿、開基は弘前藩政初期の功臣で、2代藩主津軽信枚の家老服部長門康成。津軽一統志ではともに中興開山・開基。曹洞諸寺院縁起志によりますと、深浦村から堀越村へ移り、慶長年間(1596-1615)に弘前へ移ったとします。服部家は寛永10年(1633)から寛永13年まで続いた船橋...
View Article曹洞宗 薬王山 正伝寺(正傳寺)・渡辺金三郎断首図 (弘前市西茂森・禅林街)
本尊は釈迦如来。もと耕春院末寺。開山は耕春院八世中厳撮堂。開基は不詳。かつては森山村(現大鰐町)にあったとされ、開基は文禄4年(1595)。寺伝によりますと三ッ目内村(現大鰐町)にあった金竜寺の末寺と伝えます。正徳元年(1711)の寺社領分限帳では、慶長年間(1596-1615)に現在地に移転とします。同帳及びそれ以前の史料によれば松伝寺とみえ、津軽一統志には正伝寺とあるので、享保年間(1716-1...
View Article曹洞宗 貴峰山 月峰院 & 瘡守稲荷宮 (弘前市西茂森・禅林街)
天津院の東隣に位置。本尊は十一面観音。もと長勝寺末寺。開山は学翁保文。開基は不詳。長勝寺並寺院開山世代調によりますと、かつては沖館村にあったとされ、開基を天正8年(1580)としています。その後堀越村を経て弘前城下へ移ったとされます。正徳元年(1711)の寺社領分限帳によりますと、慶長年間(1596-1615)沖館村より現在地へ移ったとされます。本尊について次のように伝えます。天正2年、藩祖大浦(津...
View Article曹洞宗 白花山 常源寺 (弘前市西茂森・禅林街)
禅林街です。そういえば黒門近くのこの空地の門がいつも気になります(笑)天津院と恵林寺の北奥、天満宮の南西に位置する常源寺。本尊は釈迦如来。もと耕春院末寺。開山は中庵永虎。岩木山がよく見える境内。開基には2説あり、和徳城主小山内讃岐守と弘前藩祖津軽為信の実父武田紀伊守守信。長勝寺並寺院開山世代調によりますと、かつては和徳村にあり、開基を永禄6年(1563)とし、開基は武田守信、寺領は30石とあります。...
View Article今泉賽の河原 地蔵尊堂(青森県中泊町)
「はくちょう亭奈良屋」の駐車場隣から結構勾配のある道を登っていきます。車は十三湖湖岸公園に停めればいいと思います。坂の途中に長寿の水。今泉賽の河原は縄文土器や土師器片が散布する遺跡(大石崎遺跡)として知られています。寛文9年(1669)、今泉観音堂が建立された場所。幕末飛龍大権現を祀る飛龍宮となりましたが、神仏分離により明治6年に神明宮を分立、堂社は壊されましたが同8年に再建。地蔵尊も祀られていまし...
View Article浄土宗 紫雲山 円光寺 (生目観音 / 盛岡市南大通)
光台寺末寺。本尊は阿弥陀如来。お出迎えとお見送りのお地蔵さまと…お出迎えとお見送りのお猫さま。寺伝によりますと寛文年中(1661-1672)の開基で、開山は生蓮社良往。元禄年中(1688-1703)八世良観の代に本堂・山門・庫裏等を再建中興。盛岡三十三観音第11番札所。元禄16年(1703)慈恩院(艶・通称お蓮、蓮子・南部信恩の母)が御願の際に切米25駄を寄進。延宝3年(1696)のこと、慈恩院の父...
View Article兼平天満宮 ~ 其之壱 (天満神跡地・神明宮・板碑群 / 弘前市兼平)
南西に兼平山(159.3m)を負い、東は二本木村、北は五代村と築館村、南は如来瀬村に接します。兼平山の尾根は岩木おろしを防ぎ、また南東から北へ平野が広がり、古くから開けました。五代・築館・如来瀬・鳥井野などの村々は兼平を親村として開発されたと考えられています。弘前市の蘭庭院の山号は金平山で、発祥の地は種里城主大浦光信の次男伊豆守盛純を始祖とする兼平氏の領地(弘前寺院縁起誌)。寛永17年(1640)の...
View Article兼平天満宮 ~ 其之弐 (津軽一代様卯年 / 弘前市兼平)
「兼平天満宮 ~ 其之壱 (天満神跡地・神明宮・板碑群 / 弘前市兼平)」からの続き。http://blogs.yahoo.co.jp/sadisticyuki10/11392924.html御祭神は菅原道真朝臣命。旧村社。創建不詳。神仏習合の名残りを残す両部鳥居の稚児柱部分だけが未塗装でした。こちらは消防に関する碑でした。縁記修験道由緒に 「……、 慶長八年、 津軽信智公再建…」 とあり、...
View Article飯詰八幡宮 (五所川原市飯詰字福泉)
御祭神は譽田別尊、天照皇大神、軻遇突智命。かつての参道は飯詰川がある拝殿正面方向だったそうです。寛保2年7月の飯詰川の洪水では町家40軒余が流失し、人馬多数が死亡したといいます。創建は弘治元年(1555)、大房村の舘主樺澤団右衛門が勧請。一時は荒廃しましたが承応元年(1652)飯詰本村の鎮守社として再興され、参拝に不便なことから宝永2年(1705)に現在地に遷座し、元々あった愛宕宮と合祀し、上愛宕宮...
View Article曹洞宗 薬王山 延寿院 (鯵ヶ沢町)
寺宝の1つである円空作座像観音像は寛文2年(1662)に鰺ヶ沢の猟師が偶然に網にかかったものと伝えられる仏像で「海上漂流黒本尊」の別名があります。円空は北海道で多くの観音菩薩坐像を残しており、同じ様な仕様からその内の一体が流れ着いたとも考えられます。延寿院円空仏は昭和41年に青森県重宝に指定。境内にある明和地震供養塔は明和3年(1766)の大地震とそれに伴う大津波の犠牲者を弔う為に建立されたもので、...
View Article紺屋町番屋(盛岡市消防団第五分団)
1891年盛岡消防よ組番屋として現在地に建てられた建物を1913年消防組第四部事務所として改築されたものが現在の建物。現在の建物の棟札によりますと、大工石倉久太郎、同山下熊太郎、屋根葺小笠原長次郎、石工岩野兵次郎、左官工藤喜三郎、塗屋、山口平助とあります。木造2階建て、寄棟、金属板葺きの建物で外壁は下見板張り、窓は縦長の開き扉が採用されています。屋根の上には望楼が設えられ、現在は高い建物が周囲に乱立...
View Article武者屯御門跡・亀の石&鶴の松・本丸井戸跡など(弘前城本丸)
弘前城本丸を紹介していきます。まずは下乗橋です。内濠を隔てて本丸と二の丸に架かる下乗橋。藩政時代には二の丸側に下馬札が置かれていたのが由来となっています。築城当初、橋の両端は土留板でしたが、文政11年(1811)に石垣に直しました。以前の擬宝珠欄干は十二支をかたどったものでした。現在の擬宝珠には大正3年とあります。天守から見た下乗橋。下乗橋を渡ると武者屯御門跡。長勝寺構の黒門と同様の高麗門形式で、門...
View Article本丸未申櫓跡・本丸戌亥櫓跡・御日記蔵跡・御金蔵跡など(弘前城本丸)
弘前城本丸より紹介していきます。旧天守閣跡(本丸未申櫓跡)です。弘前城築城当初の5層の天守があった場所になります。寛永4年(1627)に火災により焼失。文化7年(1810)まで天守の新造が認められなかったため、本丸未申櫓が建てられていました。藩庁日記によりますと、元禄7年(1694)に石垣を修理した際、不動明王の梵字を刻んだ石が出土し、その石は最勝院に保存されているといいます。櫓からは岩木山や下町が...
View Article弘前城天守 (別名:鷹岡城・高岡城)
何か今更感もありますが弘前城天守の紹介。弘前藩初代藩主津軽為信が津軽地方を統一したのが天正16年(1588)。新しい城の地として高岡(鷹丘)を選定したのが慶長8年(1603)ですが、為信は完成を見ずに慶長12年(1607)京都にて客死し、2代藩主信枚が同16年(1611)に完成させます。当初の高岡城には5層の天守がありました。現在の本丸未申櫓跡の石垣が当時の天守台です。寛永4年(1627)に落雷によ...
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