安永8年(1779)開創。開基は青森市蓮華寺第16世聞法院日照上人。開山は工藤日英上人。
天明の大飢饉により廃寺となり、後の明治13年に再興。明治17年に寺号を公称し、その64年後に本堂焼失するも、昭和32年には現在の本堂を再建。
昭和56年水子観世音菩薩堂建立。昭和61年山門建立。
平成6年には大書院、位牌堂、庫裡を建立。
平成15年に六老僧蓮華阿闍梨日持上人・船頭蠣崎甚兵衛の銅像を建立し現在に至ります。
日持上人・蠣崎甚兵衛の像。
『一天四海皆帰妙法 南無妙法蓮華経 末法萬年廣宣流布 六老僧蓮華阿闍梨日持上人と船頭蠣崎甚兵衛の銅像 蓮華阿闍梨日持上人は、永仁2年(1294)の秋10月13日宗祖日蓮大聖人の第13回忌法要を池上本門寺で行い、翌年永仁3年(1295)御歳46歳にして、故郷は静岡県松野の里を正月元旦に、北に向かっての海外伝道に旅び立たれたのです。青森県に入ってからの遺跡としては、黒石市法嶺院・法峠寺・青森市蓮華寺と、この津軽半島外が浜の石崎の4箇所で、あとは北海道と中国大陸の万里長城に近い宣化府(今の宣化市)に遺跡があります。今から約700有余年前に法華経を弘通された偉大なる日持上人です。◎津軽半島外が浜、石崎にたどり着いた日持上人は、北海道(蝦夷)地に船で渡る為にその海上安全願い、元宇田の守護神であります三十番神堂に登り祈願をし、その頂上に記念の松を植え、石崎浜の蠣崎甚兵衛なる者を船案内の船頭とし、永仁4年(1296)春穏やかな日、船出をし北海道に無事渡り着く事が出来ました。その時地元の漁夫に親切にして頂いた御礼に、海上安全大漁大祈願の為、海上に向かって法華経読誦し、しばらくしたら今迄見たこともない魚が大漁に浜辺に寄って来たので、地元の漁夫達が大いに喜んで、法華の偉い坊さんが授けてくれた魚だからと言って「ホッケ」と命名された。その魚は今でも北海道から津軽沿岸にかけ春の魚として漁があります。そのほか沢山の遺跡を北海道に残し布教を展開し、永仁5年(1297)中国は宣化市に入り永仁6年正月16日に宣化市に法華寺安国堂を構え妙法を唱導されました。「南無妙法蓮華経の教えにより発心し、常日にこれを持して祈念したならば、宿業罪因も願わくばすなわちみな消滅し、しかし現世において速やかに正覚に登る、弘通日持合掌」平成15年7月吉祥日。血脈相承修行会の砌。日蓮宗 宇田山 聞法寺 第五世住職工藤堯幸。副住職工藤堯慎。外檀信徒一同。』
一説とはいえ、まさかのホッケ命名由来の地だったとは…勉強になります。