川上神社から向かうと三叉路があります。中央には交通安全の石碑。
左側へ行くと旧奥州街道方面へ下る坂道。三叉路中央にある木は窓木。
坂下に僅かに海を望むことができる絶妙な湾曲が素敵な坂道。
観音寺は鼻繰崎の付根、久栗坂集落の西、浜田にあります。
かつては笊石村と呼ばれた所で、笊を立てたような形の石が由来。
菅江真澄の『津軽の奥』に「へびつかという村を経て、ほどなく笊石の浦(根井)の部落に入った。矢倉崎というところは、むかし不動明王をまつってあったという。ここにある石の形が笊に似ているのでこの浦の名とした。そのあたりに重なっている岩の下方を人がくぐりぬけることができるので、またの名を潜坂というとのことだが、むかしは蝦夷が住んで、シヤルウシといった。その同じ名は夷国に今もある。」とあります。
境内宇田川に架る阿弥陀橋とその由来を記した碑。
矢倉山と号し浄土宗。
御本尊は阿弥陀如来(作者不詳)。
もと青森正覚寺末寺。
寺伝によりますと、慶安4年(1651)に優良伯が、櫓崎の岩穴から発見された金比羅大権現像を草庵に安置し、櫓崎岩屋観音と称したのを開基とします。
享保8年(1723)正覚寺の清南が岩屋観音像を訪ね、この地に新たに草庵を結び鴻前庵と称しました。漁の安全を願い、更には山林河海で横死した精霊のために金比羅大権現を祀りました。縁日は6月10日で金比羅講が開かれたといいます。
嘉永4年9月、禅光代に再建。明治12年(1879)に観音寺となります。
入口の冠木門のすぐ横に錦木之塚という塚がありました。『青森の伝説』に「小湊に錦木塚というのがあった。錦木の話は東北各地にあって、昔、男がおもう女の家の前に、求愛のしるしに五色にいろどった30cmほどの木(錦木)を立てる習わしがあったという。(中略)みちのくにまつわる優雅なこの物語は、歌によまれる歌枕となり謡曲に作られるなど東北地方の文学素材となったが、この小湊の話は、天慶年中(940ごろ)平将門に仕えた善知鳥文治安方(青森の善知鳥神社の由来と同じ人物)にまつわる話となっている。安方は主君将門を諫めたが聞き入れられず、そのため主家を離れて旅に上った。安方の妻錦木は、夫のあとを慕ってこの地まで来て死んだ。村人はあわれんで塚に埋め、一本の桑の木を植えてしるしにしたのがこれである。病にかかった村人が、この塚に祈れば効験があったという」とありました。なお、明治45年4月の火災によって灰燼に帰し、大正年間に現在の石碑を建て直したといわれています。
東北地方太平洋沖地震追善供養六座地蔵尊。
寺の裏には矢倉山と呼ばれる小高い丘があります。
入口には不動尊とあり、笊石が置かれています。不動様は漁師の信仰が篤いといいます。以前は青森市の成田山から和尚様を呼んで祈祷していましたが、最近は観音寺の和尚様が祈祷しているそう。
この小高い丘を上っていくと、津軽三十三観音巡りができます。
一番上には不動明王の建物。古くは湊に入る船の目印のためにカガリ火を焚いた場所で、不動の松と呼ばれる古い松が存在します。また、漁をする人々は松の上に燈明がともるの燈明の松とも呼んだそうです。
三十三観音巡りをしながら裏側(海側)へと行くと巨石が現れます。
ここでは大岩などを潜っていく参道を楽しめます。
これが潜坂(くぐり岩・シヤルウシ)ですね。
久栗坂の由来となった石です。
大岩のトンネルから海側を望む。
かなりの巨石です。
巨石の下には色々な仏像がありました。