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日本中央の碑発見地 (東北町)

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何も知らずにこの看板に出くわすと「はっ!?」ってなりますね。
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県道8号線、千曳駅の南東。ここから階段を下って行くようです。
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案内板がありました。
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日本中央の碑発見地発見地…『本蹟は、11世紀から12世紀にかけて和泉式部、懐円、西行、寂蓮、慈円、阿仏尼、源頼朝など多くの人々に好まれた歌枕のひとつ、「つぼのいしぶみ」ではないかと話題を呼んだ、「日本中央の碑」の発見地です。12世紀末、藤原顕昭の「袖中抄」(注1)によって、初めて解説が加えられた「つぼのいしぶみ」は、その後多くの人々の関心を呼び、これを探し求める者が後を断ちませんでした(注2)。明治14年、明治天皇奥羽巡幸の折の探索・発掘でも見つからなかった碑でしたが、昭和24年6月21日、馬頭観音の石を求める千曳の川村種吉氏により姿を現しました。17世紀中頃、仙台藩2代伊達忠宗より4代網村の時代にかけて、古典の研究から歌枕を領内に結びつけていく動きが高まります。その過程で、少なくとも寛文年間以前に多賀城跡の一角で発見された古碑に注目が集まりました。殊に水戸光圀は「大日本史」編纂の為に碑の調査を行うなど、大きな関心を示し、水戸藩では以降も碑の研究が進みます。その後、17世紀後半に松尾芭蕉がこれを訪ね、「奥のほそ道」を刊行してからは広く、「多賀城碑=つぼのいしぶみ」として一般化します。しかし、18世紀中頃には南部藩でも同様の動きが高まり、先の「袖中抄」を手がかりに、南部藩内に本物の「つぼのいしぶみ」が存在すると言われるようになります。江戸中期以降、古川古松軒が「東遊雑記」で、さらには水戸の地理学者長久保赤水が「東奥紀行」で南部坪村に日本中央と題した石碑があると記してから後は、むしろ南部藩壷碑に注目が集まりました。』
※読み方:「日本中央」=ひのもとのまなか…平安京建設に並ぶ二大国策のひとつ「征夷」の歩みが北へ進む中、「日の本」と呼ばれていた蝦夷の国もまた、北へと押し上げられた。都母(つも)=つぼの国は当時その中心に位置していた。
※(注1)「袖中抄」=しょうちゅうしょう…「いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。日本の東のはてと云へり。田村の将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に、日本の中央のよし書付けたれば、石文と云ふと云へり。信家の侍従の申ししは、石の面ながさ4、5丈計なるに文えりつきたり。其所をばつぼと云ふなり。それをつもとは云ふなり」
※(注2)碑発見に至る経緯。
1778、平沢元、北海道へ向かう途中野辺地に宿泊、「つぼのいしぶみ」を探索。
1788、菅江真澄、石文村で「つぼのいしぶみ」について尋ねるも不明。「遊覧記-いわてのやま」(7月5日の条)。
1876、7月、木戸孝允、「壷の碑」を求め千曳神社の発掘を先導するが見つからず。
1934、東京の江口少将が発起人となり「日本中央の碑」を求め捜査するも未発見(11月22日付け東奥日報)。
1949、6月21日、千曳の川村種吉、本蹟で「日本中央の碑」を発見。
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そして案内板の場所から更に階段を下ります。
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結構急です。
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階段の下には特に何もありません。
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日本中央の碑発見地という標柱があり…
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小川が流れているだけでございます。発見地ですものね。人によっては霊気を感じるそうですが。
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関連記事:『千曳神社(七戸町)
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日本中央の碑歴史公園 (東北町)

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日本中央の碑歴史公園。無料でございます。
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古くは平安時代末期の藤原顕昭という歌人が『袖中抄』にて、陸奥の奥のつぼのいしぶみは征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に、弓弭で石面に日本の中央と書いた石文であり、千島列島までを日本とするならばここが日本の中央といえるといった旨の文を残しています。明治9年(1876)の明治天皇東北巡幸の際には宮内庁が青森県に依頼して千曳神社の下を発掘調査させており、木戸孝充(桂小五郎)も発掘現場に視察に訪れています。結果として神社の下からは何も発掘されませんでした。
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ところが昭和24年6月21日、千曳在住の川村種吉が石文集落近くの赤川上流で「日本中央」と刻まれた石碑(高さ約1.5、幅約80cmほどの自然石)を発見(「日本中央の碑発見地」参照)。この日本中央の碑は賛否両論あり、「文字が稚拙」、「史実として坂上田村麻呂が現地に到達した伝承がなり」、「そもそもこの地が日本の中央でない」、一方で「日本という名前を蝦夷の土地に使用した例から蝦夷の土地の中央である」、「津軽の安藤氏も日之本将軍を自称し、それが天皇にも認められていた」、「豊臣秀吉の手紙で奥州を日本と表現した例がある」などの意見もあり、石碑の鑑定も謎のままです。
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つぼのいしぶみに関する文献はたくさんありますが有名なところで、三輪秀福『旧蹟遺文』(文化3年)、大巻秀詮『邦内郷村志』(享和元年)、岸俊武『新撰陸奥田誌』(明治5年)なども参照してみてください。っていうか『天間林村史』を参照した方が早いです。
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日本中央の碑(つぼのいしぶみの由来)…『この日本中央の碑は、昭和24年6月21日、当町(当時甲地村)の石文集落近くの赤川上流で、千曳の川村種吉氏により発見された。古歌に詠まれた名所を歌枕と言うが、数ある歌枕の中で「つぼのいしぶみ」ほど、好事家の話題にのぼったものはない。このつぼのいしぶみを初めて解説したのは、歌学者顕昭(西暦1130年頃-1210年頃)である。その著「袖中抄」に、「(前略)顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。日本のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。(後略)」と書かれている。但し、田村麻呂の陸奥下向は盛岡市近辺の志波城までであってそれより北に及んでいない。田村麻呂に続いて、征夷将軍となったのは文室綿麻呂である。綿麻呂は弘仁2年(811年)に都母村に進撃している。「袖中抄」に書かれている事を当てはめるならば、石に日本中央の文字を刻んだのは綿麻呂ということになるであろう。なお、「日本中央」の「日本」は、ひのもとと訓じて東北地方を指す言葉であったと思われ、そこから先は中央政府の支配の及ばない地、それが日本であり、政府の威令が浸透するとともに、日本の地域もしだいに、狭められる事になる。従って、この「いしぶみ」は東北の古代史を物語るものである。平成7年4月東北町教育委員会』
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日本中央の碑関連年表。
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石があるだけかと思ったのですが、館内には結構色々な資料があって面白かったです!
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東北町文化財指定書「つぼのいしぶみ」(平成元年12月7日)。
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棟方志功「日本中央の碑の柵」(昭和48年・板画白黒金彩色)。
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古代の城柵・官衛遺跡。
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東遊雑紀。
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東奥紀行。
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袖中妙(文治年間・藤原顕昭)。
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多賀城碑の拓本縮尺版(2分の1)。
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日本中央の碑が建立されたと思われる時期(平安時代)の出土品。
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東奥日報の記事(中央句碑除幕記念講演・金子兜太氏)…『「奥の細道」の中に、岩手県の平泉を後に「南部道遙にみやりて」という言葉がある。しかし芭蕉は、その南部道を歩かないで、鳴子を経て、山刀伐峠を越えて山形県・出羽の国に出る。芭蕉が「南部道遙に…」と言ったのは、南部を歩きたい、津軽まで行ってみたい、と思っていたのではないだろうか。芭蕉は松島から後、道に迷って、歌枕を遠目に見ながら立ち寄ることもならず、迷いながら石巻にたどり着いた、という記述になっている。いろいろと歌枕が出てくるが、そのかなりのものは、青森県にあるのが本当であって、宮城県にはない。では、芭蕉が陸奥に来たという前提で、一体芭蕉はどういう所を見て、どういう考えを持っていたのか-とNHKの仕事で小松方正氏と平成元年六月、芭蕉が来ていたら必ず訪ねたであろう本物の歌枕を歩いた。坪の石文(壺の碑=つぼのいしぶみ)、尾駮の牧、外ケ浜…。とくに坪の石文に感動した。石文が発見された雑木林の中の空き地の一帯で、私は何となく、霊気を感じた。去年の夏だったか、今度は「壺の碑」といわれる多賀城碑を拝見した。が、あの迫るような気分がない。普通の碑で、多賀城のいわれを書いているだけで本物の壺の碑とは思えなかった。大胆だが、東北町にある「日本中央の碑」が本当の壺の碑ではないかと思う。芭蕉だって分かっていたんだろう。だからむしろ、本物の壺の碑を見たくて「南部道遥に…」と言った、と思う。しかし、ここの坪の石文も「日本中央の碑」といった方がはるかに実感があり迫力がある。この土地には太陽信仰があったとも聞いている。日本中央の日本は「日の本」-日いづる地であるという考え方が、古代以来の牢乎とした陸奥の国への受け取り方ではなかったか。また、歌枕として、地理的事情ばかりではなくて風土からくる受け取り方、これを前提に置かなくてはならない。ではなぜ東の端なのに中央なのか。例えば竜飛の義経寺に立つと、海峡からさらに北海道が見える。ここは日いづる地に違いないが、日いづる地の東端ではない、真ん中だ-こんな感覚を古代の人が持ったとしても不思議はない。言葉に魂がある-言霊という言葉がある。別れに和歌を書くとき、言霊の働きを信じて作っている和歌が多い、と学者は言う。私は、言霊と同じように物にも魂があり、物霊という言い方もできると思う。日本中央の碑は魂を持っていて、多くの人はそれに救われ、支えられている。自然の物に人間が深く共感を持ってかかわったときに宿される魂-この物霊の働きを感じるのである。芭蕉は、地名と人々の思いが重なり合った言葉、その地を探ることによって自分の心身が肥やされるということを承知していた。日本中央と書かれたあの素朴な碑を芭蕉が見たとき、どんな感動をしただろうか…芭蕉が生きていたら聞いてみたい』。
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翁会(七戸町)写真(槙泰造(苔石)・高橋三松・福士進・石田善兵衛)。
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その他諸々。
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館内の外は公園となっているようです。いくつかの石碑がありました。
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金子兜太句碑…『日本中央とあり大手鞠小手鞠』(平成6年11月1日建立)。
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近藤芳美句碑…『「日本中央」とてみちのくに碑を残す壺の石ぶみ何かを知らず』(平成8年11月30日建立)。
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大町桂月句碑…『よしや今石文なくもつぼの里ますらたけをの忍ばるる哉』(大町桂月来遊77周年及び日本中央の碑歴史公園開園7周年記念・平成14年10月4日)。
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西行句碑…『みちのくの奥ゆかしきぞ思ほゆる壺の石ぶみそとの浜風』・顕昭句碑…『思ひこそ千島の奥を隔てねどえぞかよはさぬつぼのいしぶみ』。
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源頼朝句碑…『みちのくのいはで忍はえぞ知らぬ書き尽くしてよつぼの石ぶみ』・阿仏尼句碑…『みちのくのつぼのいしぶみかき絶えて遙けき中となりにけるかな』。
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千曳神社 (七戸町)

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千曳神社参道への案内板・標柱などが四方八方至るところに立っています。
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旧奥州街道の間道から向かうと追分石がありました。
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「千曳神社 右千曳岩 左野辺地」とあります。紀年銘は弘化紀乙巳年(2年)6月15日。
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案内板より…『奥州街道追分石。奥州街道には幾つかの間道があり、その分岐点に標識としての追分石が設けられた。この間道は、中野、坪、柳平、尾山頭を経て野辺地へ入る近道であるが、正保4年(1647年)の「南部領内総絵図」に描かれ、既に存在していたことがわかる。弘化2年(1845年)建立されたこの追分石の壁面には「右 千曳道」「左 野辺地道」とあるが、中心部に「千曳神社」と刻まれていることから信仰心と深く結びついていることが伺える。平成16年12月30日天間林村教育委員会』
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追分石から旧道を少し進むと右手に鳥居が見えました。
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鳥居左の社号標。
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裏面には「紀元2600年記念として大鳥居建築ス」とあります。紀年銘は昭和16年旧6月13日。
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鳥居右の社号標。
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千曳大明神とあるのでより古いものです。
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紀年銘は文政7年旧6月10日。
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さて、千曳神社の現住所は七戸町菩提木。合併前の住所は天間林村天間舘字菩提木。坪川の上流の通称尾山頭の東に鎮座し、国誌などによれば尾山頭の千曳宮と見えます。尾山頭は野辺地代官所の飛地。延宝年間火災にて縁起焼失。当時の別当は喬岩坊で五戸年中行事多門院の支配下にありました。宝暦項の 「御領分社堂」 には千曳明神・別当善行院とあります。次いで神道家、愛染坊の霞場へと支配者は変わりました。
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天明8年に巡見使が代参。寛政年間の「邦内郷村誌」には尾山頭が野辺地村の支村であったため野辺地村の項に千曳宮とあります。又同書では七戸村に千曳明神ありと伝承を述べています。俚俗云白明神ハ石ノ精ニテ美男ニナル壺子トイヘル女に通フ、云々とあり女の居所を壺村ト云・此村天間舘村ノ小名ナリとあり、千曳石は当社に埋めたと伝えられます。寛政4年、七戸城代の七戸重政(重信)公が詣でて歌を詠んでいます…『音にきく千曳石の跡しめてけふ陸奥のむかしをそ思ふ』、『物いは々宮居の松にふしまして千引にたゆまむ石の心を』。なお、現在は花松神社の兼務社となっています。
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由緒…『●鎮座地:天間林村大字天間舘字菩提木56番地2。●本社:南向1間4方柾葺 佐屋 拝殿 東西3間南北9尺本社に向ふ 鳥居11基 石燈籠1座 狛犬2頭。●祭神:塞の神、八衢彦神、八衢姫命。●御縁日:4月3日 9月29日。●御祭礼:6月15日(いずれも旧暦)。●本社は大同2年(807)坂上田村麻呂の創祀と伝えられる。山伏修験道本山派五戸多門院の配下、上北郡横浜八幡別当大光院の霞に属したが、一時花巻の神官稲田遠江の支配に属したこともあった。江戸時代には、幕府巡見使の参拝所であり、南部領では巡路第一の地であった。それ故に巡見使通行の節、見苦しきため、取り毀し仮社としていたが、明和2年(1765)再興した。古くから「日本中央」と刻んだ「壷の石文」を建てたという伝説があって、これを尋ねた和歌や紀行文が多いことで知られている。「名にし負う千曳の石にあとしめて動きなき世と神や守らむ」南部重信。「たのめぞや今世の身かは後の世もなほやすかれと道行の神」遊行上人。「石文の跡をさぐりて思はずも千歳の檜葉に逢ひにける哉」大町桂月』
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古川古松軒は『東遊雑記』にて「千引明神の社、二間に三間、桧皮の屋根にて其うへに草葺の素屋をなしてあり。其地ひょうびようとせし平地にて、諸木の森凡方百間余、神さびて至て殊勝の所なり、千引の森と称せるは是なり。神主は教岩坊といふ山伏にて少しく除地有て古へよりの御巡見所也。山伏を召され、古来の事を御尋ありしかども、一字不通の文盲人にて委しからず。彼の家に代々伝ふることには神代の時に石の札を立て、其石を限りに北方の国より渡り来る鬼をば追返せし事なるに、悪鬼の来りて其の石を土中ヘ深く隠せしを、神々達の集りさがし出し給ひし所こそ石文村にて、其石を建し所は坪村にて有しを、坂上田村丸来り給ひ、鬼を残りなく殺し給ふ故に、此石は無用とて此所を七尺掘て埋め給ひ、其上に社を建立なされし事にて、其石を坪村より是迄引とるに人数千人にて引しを以て千引大明神と申なり。」と記しています(天明8年8月25日)。
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千曳岩、千引大明神といえば、古事記ですね。黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂といい、葦原中国と繋がっているとされます。伊邪那岐命は亡くなった妻の伊邪那美命を追ってこの道を通り、黄泉国に入ります。変わり果てた伊邪那美命の姿を目撃した伊邪那岐命が、黄泉国から逃げ帰る場面において、追いすがる妻や手下の黄泉の醜女たちを退けるため、最後に黄泉路を塞いだ大石を道反大神といいますが、この大石は千人の力でしか動かせない千曳岩であり、これをもって悪霊の出入りを禁じました。
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当千曳神社にも千人の力で石を引き、神社の地下に埋めたという伝説があり、明治9年(1876)の明治天皇東北巡幸の際には宮内庁が青森県に依頼して神社の下を発掘調査させており、木戸孝充(桂小五郎)も発掘現場に視察に訪れていますが、結局何も出てきませんでした。
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このように当神社を語る上で「日本中央」と刻んだ「壷の石文」に触れないわけにはいかないのですが、この「壷の石文」には数多くの伝説が残されています。また、石碑は神社から程近い「日本中央の碑歴史公園」の日本中央の碑保存館にあり、県道8号線の千曳駅から少し南下した付近に「日本中央の碑発見地」もあります。詳細は以下の記事を参照ください。
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『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』に次のような記述があります…『千曳明神は、大きな石を祭ったものである。明神様は坪村(天間林村坪)の、つぼ子という美しい娘のもとに、毎夜通っていた。ある夜、つぼ子に初めて千曳の石の精だと告げ、「あす、村では私を土中に埋めることになった。しかし、他人の手で引かれてもけっして動くまい。必ずおまえの手で引いてくれ」と頼んだ。果たしてあくる日、村人たちが千曳の大石を引いて行こうとしたが、どうしても動かない。神のお告げで、つぼ子がよび出され、彼女が石にかけた綱を引くと、さしもの大石もやすやすと引かれた。村人はこれを埋めて、千曳明神として祭ったのである。ここにも田村麻呂伝説がある。将軍が千曳の山にこもる蝦夷を攻めたとき、飲み水に困った。そこでご幣をささげて神に祈りながら、馬の鞭を地上に突き立てると、そこに清水が湧き出たという。将軍井戸とも、ご幣清水ともよんでいる。』
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社殿内。
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本殿。
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本殿蟇股(ウサギ2羽)・木鼻。
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本殿前の棟札には「修造千曳大明神・昭和52年11月13日」「修造正一位千曳稲荷大明神・昭和29年4月10日修造・昭和35年9月15日修築・昭和48年10月10日(旧9月15日)家根修繕」とありました。1つは末社のものかと思われます。
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千曳大明神の神額。古そうですが紀年銘はありませんでした。
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鳥瞰図。
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社殿内の由緒は神社入口にあったものと同じでした。
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『明治政府が探した謎の石』『垠界の魔方陣』『鬼追い返す「石の札」は「蓋」』『北東北に眠る平安の謎をひもとく』と題された千引の石の謎の記事(デーリー東北掲載記事・2009年7月2日)が社殿内に貼ってありました。反射してよく見えませんでしたが。
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その他の奉納絵馬など。
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参道狛犬一対。
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参道石燈籠一対(昭和15年11月25日)。
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倒れそうな御神木。
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手水鉢と千曳神社と彫られた碑。
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社殿前石燈籠一対(弘化2年6月15日)。
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手水舎。
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社殿狛犬一対(元禄11年)。香取某平さんの話では新しく造った狛犬とのこと。私が調べたところでは、元禄11年(1698)に桧山運商人野坂屋与次兵衛によって狛犬一対が寄進されている記録が残されており、これがその狛犬かと思ったのですが確かに元禄のものとは思えず…。これが新しいものだとして、以前の元禄11年奉納の狛犬はどこにいったのでしょうか?なぜ新しい狛犬にわざわざ元禄11年の紀年銘を残したのでしょうか?色々と疑問が残るところです。
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津軽にいると南部の史料に乏しく、これ以上調べることはできませんでしたが、いずれにしましてもその経緯に関しましては、当時の野辺地の廻船問屋の興隆ぶりが伺えるものだと思います。
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末社。小祠が3つありましたが、いずれも空っぽでした。
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境内の横に遊歩道。
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千曳神社の鎮守の杜を含めたこの近郊の森を散策できるようです。
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三内稲荷神社 (青森市)

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社号標裏面碑文…『昭和49年10月24日旧9月10日。国鉄職員32ヶ年勤続記念。青森市議会議員、日本赤十字社金色有功章受章、国鉄功績章受章。佐藤俊勝50才建立。(住所省略)』。
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平成元年記念事業之塔と三内稲荷神社の杜標柱(青指文第15号天然記念物・昭和52年7月1日建設)。
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三内稲荷神社の杜…『三内稲荷神社は五穀豊穣のため建立されたもので、建立年月日は不詳であるが、延宝元年(西暦1673年)に社殿を再建したという記録があり、少なくとも三百年以前から祀られていたと推測される。境内の黒松、銀杏、針桐等でできている社は市内でも有数な古木郡として貴重である。天然記念物三内稲荷神社の杜…黒松四株、銀杏一株、針桐一株。』
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草創年月不詳。御祭神は倉稲魂神。例祭日は5月10日。
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延宝元年(1673)、五穀成就・村中繁栄のため村中にて再建。
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安政2年神社微細書上帖によりますと、油川組三内村稲荷宮1宇、板葺屋根の建坪3尺4方の堂社、萱葺の建坪東西5間南北3間の覆、東西40間南北54間の境内がみえます。明治6年3月三内村八幡宮へ合祀するも同8年2月復社、同9年12月村社。
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『津軽俗説選』によりますと『外が浜に近き油川組三内は、野も山も一面の桜にして、花盛りの砌りは吉野の出店かと思はるる佳境なり』『上三内、下三内とて二区あり、何れも桜林也』とあります。
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また、菅江真澄が三内の桜を見るために訪れています。『すみかの山』より…『(前略)三内村にきた。稲荷、誉田の御神をあわせてまつっている社があった。道をいささか行くと、向三内、またの名を小三内ともいうところがある。ここにも稲荷の社があって、境内の桜が高い枝にひらいていた。大三内、小三内の花は、すべてふつう世間にある桜と似ていない。一本の木に二枝三枝、ささやかに茂って、花に花の寄生があるようで、またとたぐいのないものである。たいそうちいさい花がびっしりと生いたって、この小桜にも小枝がまりのようにさしこんでいて、枝ぶりはみなおなじであった。人に尋ねると、「これが名高い三内の千本桜といって、またと他にない桜である。天明三、四年の凶作の前までは、吉野は別として、ひろい世の中にも、このようにみごとな桜花のあるところはなかろうと、わが住む郷里ながら、花の咲くころは誇りにしていたが、荒廃した世情のために薪にきられてしまい、いまは桜花の木も残りすくなくなってしまったが、若木もひこばえもたいそう多いから、十年も過ぎたならば、むかしの春のころのように栄えることだろう」と、案内してくれた村長が語った。「神の祟りがなければ、この花の一枝を」というと、なんの祟りがあろうかという顔で、おしげもなく手折ってくれた。』
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菅江真澄が書いてる「稲荷、誉田の御神をあわせてまつっている社」は三内八幡宮のことでしょう。向三内(小三内)の正一位稲荷宮(創建不詳・享和3年寺社領分限帳及び安政2年神社書上帳)については調査中。当稲荷神社がその正一位稲荷宮と考えるのが妥当な気がしますが、文献には「地内沢部に正徳4年の勧請という八幡宮、地内丸山に延宝元年の再建という稲荷社がある。また、向三内(小三内)に正一位稲荷宮があった」と書かれています。地内丸山は再建年から当稲荷神社。向三内の稲荷宮は過去形ですね。また、菅江の「あわせてまつっている」という言葉も気になるところです。ちなみに比較的近郊にある稲荷神社としては安田字近野の浪館稲荷神社があります。なお、他に三内村には馬頭観音を祀る惣染堂がありましたが明治初年の神仏分離によって廃堂となっています。
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石灯篭一対。
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猿田彦大神(元治2年3月吉日)。
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末社。
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石などが祀られていました。
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三内稲荷神社の杜。
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浄土宗 蟠竜寺 (東京都目黒区)

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霊雲山称明院蟠竜寺。
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江戸最初山手七福神弁財天。
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蟠竜寺と弁天様…『この寺の創建は宝永6年(1709)。浄土律復興のため、増上寺の高僧・霊雲上人が行人坂下の称明院をここ移し、蟠龍寺と改名された。本尊阿弥陀如来像(都文化財)・善光寺如来像が安置されている。本堂横の祠の中に山手七福神の石仏の弁財天があり、木造の弁財天は、お堂にまつってある。池の奥に「おしろい地蔵」の異名をもつ地蔵がひっそりと立つ。』
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参道。
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蟠竜寺…『目黒行人坂付近にあった称明院〔慶安元年(1648)開創〕を、増上寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するため現在地に移し、宝永6年(1709)「霊雲山称明院蟠龍寺」と改名再建されました。次いで、寛政6年(1794)律院となりましたが、「不許辛肉酒入山門」の結界石がその名残りを今にとどめています。本堂には本尊として「木造阿弥陀如来像」(都指定文化財)があり、天明年間(1781-1788)に東都三番札所となり善光寺式阿弥陀三尊像も祀られています。「江戸名所図会」に載った境内は、当時の風趣が偲ばれ、元禄11年(1698)建立の地蔵尊があります。また、山手七福神の一つであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石像弁財天、弁天堂内に木造弁財天(八臂の天女像)が安置されています。さらに境内には、藍蝋の歌碑や下目黒尋常小学校創立之碑などもあります。平成7年3月目黒区教育委員会』
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本堂。
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緑豊かな境内。
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池があります。
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弁財天堂。
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木造弁財天。
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岩屋弁財天。
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一雨堂。
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一雨堂前の蛙。
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當寺中興開山賜紫龍譽上人一雨霊雲大和尚。
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その他水子地蔵尊などなど。
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おもしろい地蔵!!
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…かと思ったらおしろい地蔵でした。
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おしろい地蔵…『このお地蔵さまは関東大震災で被災をしたために、浅草より当寺に移って来られたもので、お顔がかけている珍しいお地蔵さまです。言い伝えによると、その昔、顔に痘痕(あばた)のある娘さんが、そのために人並みの結婚ができず悩んでおりましたが、このお地蔵さまに願掛けをしたところ痘痕が消え、幸せな生涯を送ることができたという故事にならい、若い女性がお参りに来られるようになったと言われております。江戸時代には、歌舞伎役者がおしろいに含まれる鉛の害に悩み、おしろいをお地蔵さまのお顔につけ、願を掛けたと言われており、現在でもこのようにしてお参りをされる方を時折お見かけします。いつの世も美しくなりたいという願いは変わらないようですが、一番大切なことは、心を常に美しく養い保つことで、美しい心が美人をつくるということ、つまり心美人であるということではないでしょうか。』…その通り!!
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荒川八幡宮 (青森市金浜)

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御祭神は譽田別尊。草創年不詳。
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貞享4年検地水帳によりますと荒川村には宗全寺屋敷地、稲荷社地、観音堂地が見えます。古くは白旗八幡宮で、安政2年神社書上帳によりますと荒川村に白旗八幡宮がみえます。同神社は坂上田村麻呂の創建とも伝えます。寛永年間(1624-1642)までは荒川村にあり、一時他村へ移されるも貞享年間(1684-1688)に再び当村へ遷座したと伝え、荒川・八ツ役・上野・金浜四ケ村の鎮守です。享保15年(1730)に荒川村中にて金浜村稲田に再建。明治6年村社、明治41年神饌幣帛料供進社に指定。
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また、同じく貞享4年検地水帳によりますと金浜村にも八幡社地が見えます。寛永19年(1642)の再建、及び享保15年(1730)荒川村中にて再建と伝え、上記の荒川村の白旗八幡宮と同じ社であるとわかります。
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以上のようにかつては川の流れや橋の関係で、村間にて再三移転した経緯があり、現在の住所地は金浜字稲田ですが金浜八幡宮ではなく、荒川八幡宮(荒川の八幡さま)として親しまれています。
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私がブログの記事のタイトルに「○○八幡宮」などと表記せず、あえて「八幡宮(○○町)」と表記することが多いのは、現代とは異なる創建当時の村及び鎮守、遷宮及び再建場所等の経緯と現在地の相違、神仏分離及び合祀などの歴史的背景が複雑だから。つまり現在の住所が○○だからといって、○○神社になるとは限らないんですよね。近年も合併がありましたし、「大円寺の宵宮」みたいに歴史的背景を現代にそのまま伝えているパターンもあります。一番複雑なのは本来の住所ではなく「通称」の住所で成り立っている地域がとても多いこと。地元の方しかわからないです(笑)
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石灯篭二対。
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狛犬一対(昭和32年旧7月15日)。
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狛犬一対(明治33年旧7月15日)。
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手水舎。
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神厩舎。
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立派な御神馬。
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こちらはモノクロな御神馬ですが立派です(昭和11年旧七月十五日)。
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拝殿。
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蟇股。
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木鼻。
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向拝。
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拝殿内。
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本殿。
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本殿前にも石灯篭一対。
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いい造りです。
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本殿前にも個性的な小さな狛犬が一対。
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社殿前にあるこちらの建物には石がいくつか安置されていました。
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そのうちの1基には「十和田神社」(昭和12年旧4月19日)とあります。
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社号標「村社八幡宮」(明治39年旧9月15日建立)。
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御成婚記念碑(境内拡張・拝殿改築、大正13年8月15日建立)。
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本殿新築記念碑。
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碑文…『(寄附者名省略)明治初期建立されし本殿は爾来星霜を経ること七十余年近耒腐朽頓に加はり為に神威を害ひ奉り氏子一同の恐懽措く能はさりし所なり茲に本年氏子一同本殿の新築を議し初夏より事業に着手す 此の間担当者何れも孜々営々其の效空しからす今や工成り爰に荘厳にして高雅なる社殿を仰ぎ見るを得て敬虔の念更に深きものあり誠に氏子一同の休慶に堪えさる所なり而して近年氏子信者の像かに伴ひ拝殿の狭隘も論議せらるるに至れるを以て序に数坪増築しこの要望に応ふるを得たり脳裏永く記憶し難く往時忘却し易し因つて斯碑を建てて後の回顧する者のために貽す 昭和二十八年十月下浣』
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力荒川相撲愛好会碑(昭和63年12月20日)。
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藤林佐太郎氏記念碑(昭和11年8月29日)。
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境内の隅にも石塔がありました。
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庚申塔・三猿塔・二十三夜塚。
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庚申塔・二十三夜塚・三猿塔移転記念碑。
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碑文…『昭和7年荒川川南岸より庚申塔、二十三夜塚北岸の川村岩太郎氏地所に移転安置。平成8年4月15日荒川野木線道路拡幅のため、桜庭勉、京子氏地所より神社庁の許しを得て、荒川八幡宮境内の現在地に移転安置。昭和34年建立の三猿塔も同時に移転安置。平成13年10月31日建立。荒川信者一同』
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少し離れた場所に「大野政吉氏功勞碑(昭和9年)」がありました。
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北洋漁業経営で功績を挙げた人らしいです。
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稲荷神社 (十和田市大沢田)

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十和田市大沢田早坂にあった稲荷神社です。
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鳥居をくぐって直角に曲がると社殿正面。
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由緒等は不明。よく見えませんが、社殿内の木札らしきものに昭和22年6月22日の文字があります。
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拝殿の軒下にある凱旋記念の額。日清戦争及び日露戦争に参加した3人の名前がありました。
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こちらは同地区、少し離れた場所にあった馬頭観音(蒼前様)。
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鳥居と鞘堂。
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本殿。
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相染神社 (秋田県大館市釈迦内)

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大館市釈迦内相染台に鎮座。
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所謂蒼前様。小さな堂内の上部に、絵馬などと共に祀られていました。
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由緒はわかりませんが、住所地が相染台であり、古い文献にも相善社などとして書かれているようなので、結構な歴史を持つ神社であると考えられます。
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七百熊野大権現神社 (六戸町)

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上北郡六戸町犬落瀬七百に鎮座。七百集落の産土様である七百馬頭観音堂の西方、國一蒼前神社付近の宅地内に鎮座。
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境内の木々は伐採され、その木で社殿修復をしてきました。2間4方の切妻平入屋根で、中には内御堂が納められ、御神鏡のみが安置されています。昭和32年12月13日社殿新築。
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明治22年頃に七百村下田一族の総本家下田久助が紀伊国熊野大神宮三山に参詣し、本宮別当に奉願懇請して分神の書きつけを頂き、現在の場所に神社を創設して祭祠を営み、村人も崇拝したといいます。
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昭和になってからは管理者不明となり荒れ果てました。その後、戦時中に八戸の浜市川から木村家が疎開し、神社の隣り住み着きました。木村家にかかわる人々がとがめられ、病院に行っても原因がはっきりせず、藁にもすがる思いで三沢のカミサマ(霊媒師)に聞いたところ、「近くにいる神様が祀られたがっている」と答えました。木村キヨ氏は近くの熊野様に気付き修復。すると、とがめは次第に無くなったといいます。木村キヨ氏は上北町の新山神社に権現頭を求め、戦後すぐに神社の御神体として納めましたが、母屋から離れていると管理が大変であるため、母屋の神棚の隣りに安置しました。毎年旧暦11月15日を御縁日として信者が集い、権現様を遊ばせていましたが、キヨ氏が亡くなってからは祭りの規模は徐々に縮小されました。
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岡沼蒼前神社 (六戸町)

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六戸町犬落瀬。犬落瀬という地名が珍しいですね。曹洞宗若宮山光昌寺の開基が猪を狩ろうと追いかけた川原「猪追瀬」から名付けられたという説と、長慶天皇が六戸郷の里に入った際、1匹の白い犬が相坂川(六戸川)で溺死し、天皇がこれを哀れみ「犬落瀬の里」と命名したという説があるそうです。
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創建・由緒は不詳。っていうか史料に乏しく調べていません。七戸もそうですがこの方面には蒼前神社がたくさんあります。六戸地方は木崎野牧に属し、古くから馬産地として全国的に有名であり、どこの家でも馬を飼い、駒形信仰が盛んでした。平安時代の宮廷行事である白馬節会は、青馬(白馬又は葦毛の馬)により邪気を除くといいます。青馬(葦毛)を「馬偏+公(上)心(下)」(ソウ)、四蹄の白い馬を「馬偏+前」(ゼン)といい、この馬は8歳になると白馬となり霊威をもったという故事があり、この思想が民間に広まり蒼前信仰が生まれたといいます。
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内御堂には馬が2体。
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奉納絵馬など。
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状態はあまり良くありません。
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八重田稲荷神社 (青森市)

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社号標(昭和11年旧8月10日)。
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鳥居神額(大正4年8月10日)。
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微妙に曲がっている参道が気になります。
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宝永2年(1705)に弘前藩斎藤武兵衛(庄屋。斉藤左馬之助の孫)が新田開発のため勧請。 以後八重田村中にて再建。 村の東端を流れる掘替川(掘川)は、 功績を偲んで現在も武兵衛川と呼ばれています。 城州稲荷本宮 (現在の伏見稲荷大社) から、 奥州津軽外ケ浜田舎郡横内組八重田村中村四五衛門宛の 「正一位稲荷大明神安鎮事」 という文化元年の古文書が中村家に伝えられており、 京都へ行って神璽をうけてきたものと思われます。 明治6年3月造道村稲荷神社へ合祀、同8年2月復社、同9年12月村社に列せられ、昭和16年8月神饌幣帛料供進指定。
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境内案内板より…『一.祭神:倉稲魂命、猿田彦大神、大宮能女神。二.由緒:当社は宝永2年弘前藩斉藤武兵衛新田開発のため勧請。以後八重田村中にて再建。明治6年3月造道村稲荷神社へ合祭、同8年2月復社、同9年12月村社に列せらる。三.社殿及びその他工作物:本殿(流造・縦5尺横5尺)。拝殿(切妻造・縦4間横3間)。境内地(487坪1合)。稲荷石(1対・奉納者佐々木沢次郎)。石燈籠1対(八重田村中、文久3辰歳)。老杉(2本、中村運太郎夫妻手植なりといふ)。四.祭日:新年祭3月30日、例祭8月10日、新嘗祭11月10日。以下長文にて省略…』かなり詳細な由緒が書かれていました。また、御祭神についての説明も貼ってありました…『倉稲魂命は又の御名を保食神、大宜都比賣神とも申し伊勢外宮に座す豊受姫神とも御同体なり、即ち天照大御神の大饌都神にして食物を幸い給ふのみならず絹織の業より家居の事をも霊幸います。本つ御祖の神なるか故に食物、衣服、住居の守護神として蒼生の尊宗最も篤し。猿田彦大神は天孫御降臨の節御先導の任にあたり大功あり。又大宮能賣神は天鈿女命とも申し天の岩戸開きに舞取なし大神の御心を和げ奉り又宮中に奉仕して君臣の御中を取持ち宸襟を和げ奉りしにより大宮の女神と申し後猿田彦大神と夫婦とならせられ五十鈴川の畔に閑居して専ら田畑に御功徳高く倉稲魂命と共に農事守護の神と仰かる。』
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社殿。
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狐一対(台座:昭和40年4月10日)。
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石灯籠一対(文政3年3月10日)。
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龍神大神。
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馬頭観音堂(石灯籠一対(昭和11年旧4月17日))。
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馬頭観音。
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天空橋 ・ 稲荷橋 (羽田空港駅)

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天空橋駅前にある人道橋。
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天空橋…『平成5年(1993)、東京国際空港の沖合展開によって、京浜急行空港線が延伸されました。それに伴い、海老取川の対岸に空港線と東京モノレールが接続する羽田駅が開設しました。海老取川の西側(現在地)には昭和31年(1956)開設以来、多くの人々に利用されていた羽田空港駅がありました。しかし、羽田駅の開設によって廃止となり、川の東側へ移った駅への通路として、海老取川に人道橋が架けられました。これが「天空橋」です。橋の名称をつけるにあたって、将来、橋を多く渡るのは羽田の子供たちであることから、子供たちに名称をつけてもらうことになりました。そして、羽田小学校、羽田旭小学校の全校生徒のアンケートにより最も多かった「天空橋」が採用されました。この名称には、子供たちが未来に向かってはばたいていくことへの願いと、羽田のまちが発展することを願う心がこめられています。』
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羽田の大鳥居が見えます。
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反対側に見えるのは稲荷橋。
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天空橋を渡った正面の風景。
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今は何でもない風景ですが、旧羽田空港駅の跡地になります。
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ブラタモリで取り上げていた稲荷橋です。行き止まり(羽田空港)の廃橋。
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かつては道が続いており、穴守稲荷へ行くための参道となっていました。大変賑やかだったそうです。
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第二次世界大戦後の昭和20年9月21日、羽田空港を軍事基地として拡張するため、穴守稲荷は米軍(GHQ)より強制退去を迫られることになり、この橋と大鳥居(移転)だけが現在もこのような形で残されています。
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ブラタモリ(羽田の回)を見た方がわかりやすいです。
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藤島神社 (外ヶ浜町三厩藤嶋)

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旧三厩村文化財指定「藤の木」一株の標柱。
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横には菅江真澄の句があります…「春は咲く花の姿を寄る波に見せてぞかかる浦の藤島」
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参道途中に地蔵菩薩の堂宇。
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堂内。
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地蔵菩薩。
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藤の木前の赤い鳥居と木製の鳥居…
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かと思ったら鳥居ではなく支柱でした!
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何かもう…凄いことになっています。
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藤の花なし…季節外れですいません。
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藤嶋「藤の木」の由来…『享和年代(平成25年より210年前)愍栄上人が来た時、上人は馬頭観音菩薩を一体彫み堂を建てこれを安置したと言われており、当時の産業要所としての藤嶋鰊場の網元達は愍栄上人の残された御堂を文政年代の頃神社に建て替え、これを祭礼とし、この時部落の沖合い約100米の所に位置する藤島より藤を掘り持ち帰り、神社境内登り口のイタヤの木のそばに、イタヤに負けぬように成長を願い植え付けた藤が現在の巨木であると言い伝えられています。依って茲に旧三厩村の文化財第1号に指定された藤の木を永代にこれを保存し先祖の精神を永く語り継がんとするものです。謹書』。下部には鉄骨支柱の説明…『記・この鉄骨の支柱は、平成17年10月の或る日、当「藤島神社」境内の支障木を撤去し、その直会が同年10月30日に執り行われ、外ヶ浜町森内勇町長、正木勉、伊藤幸治両町議会議員、橋本重満藤島自治会々長他、神社関係者が「名木」藤の木(旧、三厩村文化財指定)棚の前に立ち、支柱木が腐蝕している事が話題となり、森内町長から友人の㈱青森資源(青森市、社長稲田健氏)の専務取締役加賀谷祐一氏に依頼し同年11月26日完成(無償)し、地域に暮す人々の幸福の為に未来永劫に鎮座して頂く神々に感謝の意を表し奉納されたもので有る。敬白。平成17年(2005)12月吉日藤島神社関係者一同、外ヶ浜町藤島自治会一同。㈱マツオデザイン松尾節男謹書』。
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こちらも支柱の説明…『平成20年6月7日藤まつりに外ヶ浜町森内町長・株式会社青森資源専務取締役加賀谷様と、藤嶋神社を参拝頂いた時、藤の木が階段の上を横たわっており、重量で回わりの柵の木や参道に支障を来たす恐れが出てきたと話をしたところ、町長より支柱を建てましょうとの提案に、株式会社青森資源専務取締役加賀谷様もその場にて心良く受諾を頂きました。よく月7月10日株式会社青森資源よりクレーン車と工事する人を派遣され、大がかりな工事にて立派な支柱が完成され、10月吉日入魂式を挙行し、藤嶋地区一同深く感謝の意を表し末代まで之を記す。藤嶋共和会会長橋本重満』
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鉄骨の支柱。
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参道途中の末社。
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参道石段後半。
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三厩藤嶋の藤島神社。創建は不詳。御祭神は保食神。
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文政7年神社書上帳には藤嶋村稲荷宮とあります。安政2年の神社微細書上帖には観音堂とあります。宝暦9年神社書上帳には稲荷宮と間違えて書かれています。本来は観音堂。天保13年(1842)の棟札があります。境内は初代権之進が寄附。明治の神仏分離によって観音の御神体が持ち去られたのを不服として、氏子たちが山越えをしてこれを取り返したと伝えます…強い!(笑)
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社殿内。
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本殿。
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本殿両脇に馬がいます。
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獅子頭3頭。
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その他にも色々ありました。
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沖縄シーサー(魔除・平成2年3月12日)。
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藤島神社造営役員(昭和50年4月22日落成)。
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大黒様と恵比寿様。
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船絵馬。
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船絵馬は似ているようで微妙に全部違うから面白いです。
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社殿前石灯籠一対。
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庚申塔(萬延元年8月)・猿田彦大神(天保3年9月17日)。どちらも上部には御幣が彫られています。
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風化がひどく不明の石群。一部の石には盃状穴が見られます。
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境内から藤島が見えます。面白い形ですね。
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由緒によりますと藤の木は元々あそこにあったらしいです。
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現在は弁天宮と思しき鳥居・小祠があります。その裏に岩があり、更にその裏に松があります。機会があったら泳いでみます。
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山谷観音 (岩手県遠野市)

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岩手県遠野市小友町。遠野七観音(山谷観音・松崎観音・平倉観音・鞍迫観音・宮守観音・山崎観音・笹谷観音)の第一番札所。十一面観音像を安置。
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入口付近に石塔がいっぱい。馬頭観世音や金毘羅大権現等の石塔。
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駐車場に車を置いて歩いて行きます。
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「おく山や はちすか沢の観世音 仏の誓い あらたなりけり」
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山谷観音堂(岩手県指定有形文化財・平成6年9月16日指定)…『山谷観音は、江戸時代以前には大慈山長福寺といい、斎衡元年(854)に慈覚大師が草創したのが始まりという。文和3年(1354)再興、応永9年(1402)再興、文禄2年(1593)再興、元禄3年(1690)再興、翌元禄4年1月17日焼失、元禄12年(1699)遠野城主八戸利戡を大旦那として再建した。方三間、宝形造、床敷、四方に縁を廻らす。軒は一軒繁垂木、大斗肘木。平面構成は、母屋部と廂部から成り、母屋部に4本の円柱、廂部の側柱12本は全て八角形断面の柱。母屋部はそのまま内陣とならず、ここでは下陣となり、奥の廂の位置に内陣を設ける。架構面では、母屋部に建つ4本の円柱を中心に虹梁、頭貫、台輪、天井桁を組み、円柱から廂の側柱に渡した8本の繋ぎ虹梁によって母屋と廂を緊結する。意匠面は、母屋部に棹縁天井を張り、廂部は内陣を除き全て垂木、隅木を現した化粧屋根裏天井。内外とも内法高以上の構成部材は原則として色彩施す。外部の軒桁や頭貫の木鼻、内部の頭貫台輪、紅梁、天井桁、蟇股、実肘木などに施された若葉文、木瓜文などの絵様、刳形など、表現手法は素朴、簡素であるが、様式的には江戸初期に通ずるものがあり古式である。また、極彩色で描かれた内陣小壁絵、内陣扉左右小脇羽目絵などは元禄期の華麗さを表現している。江戸時代前期最末期の三間四面堂でありながら阿弥陀堂に代表される古代的「一間四面堂」ともいうべき形状をなお留め、機能的には母屋を内陣とし、廂を下陣とする形から、奥の廂の位置に内陣を設け、下陣部を前面に広くとる、新しい中世的ないし近世的空間への移行も進行している。古代から中世を通じて何回かの再建を経験してきた方三間堂の変容過程と、中世堂の特徴も伝える遺構として貴重な事例である。平面的、架構的、意匠的にみて、古式かつ堅実なものがあり、本県の仏堂建築史上貴重なものである。』
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山谷観音経筒(遠野市指定有形文化財・昭和32年7月16日指定)…『総高12.0cm、径5.2cm。金銅製経筒。三面に次の彫刻がある。一.十羅刹女 奥州遠野無安。二.(如来坐像)奉納経六十六部。三.三十番神 天正12年今月日(1584)。遠野地方の経塚は、9割までは1字1石によるものですが、その中にあってこの地方唯一の経筒です。明治元年、観音堂西側の経塚から発掘されました。』
鰐口(遠野市指定有形文化財・平成2年8月10日指定)…『面経53.5cm。最大幅67cm。材質鋳銅製。元禄4年(1691)正月、前年再興したばかりの観音堂が火災で焼失した為その年の11月に、再興に向けて鮎貝平兵衛吉勝が奉納したもので、作者は盛岡御鋳物師2代目小泉仁左衛門です。銘文に、火災で焼融した応永9年(1402)比丘良賢奉納の鰐口と寛文年中(1661-73)山谷金右衛門娘奉納鰐口を鋳込んだことや、文和3年(1354)再興されたことが記されていて、山谷観音の歴史資料として重要なものであり、鋳上がりや姿形もよく、江戸時代前期の鰐口としても代表的なものです。現在の観音堂は元禄12年に再建されたものです。』
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拝殿。
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結構大きいです。
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熊野三社権現・秋葉山大権現・西國三十三社の碑。
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御神木。
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御神木の麓にあった碑。十一面観世音。
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倒れてた石碑…愛宕大権現。
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金毘羅大神。
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こちらも金毘羅さんかな。
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原型を留めていない上に(もしくは自然石を利用したものか)コケが生えてて何なのかわからなかった石ですが、よく見ると狛犬のようにも見えます。
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違うかも知れませんが。狛石ってことで。
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手水鉢。
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隣の建物へ。
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八幡神社でした。
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本殿。
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広瀬神社 (金比羅大権現 / つがる市木造館岡)

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元禄10年(1697)津軽4代藩主信政が勧請した津軽四社。祈雨祈晴・五穀豊穣・領内安全の祈願所。藩中四社・郡内四社などとも呼ばれています。その四社とは広瀬大明神・龍田大明神加茂大明神貴船大明神のこと。吉川惟足から吉川神道の奥義を授けられ、神道に精通している信政公。憶測になりますが、津軽四社の位置関係はどことなく奈良の廣瀬大社(東)と龍田大社(西)、京都の賀茂神社(南)と貴船神社(北)を模したように感じます。
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ようやく津軽四社すべてに辿り着くことができました。他の3社は立派に残っているのですが、広瀬宮だけは見つけることができなかったのです。屏風山中の平滝村は現在の平滝村に全村移転し、広瀬宮の鎮座地であった長浜村は廃村となっているため、もはや存在していないとも考えましたが、神社等は移転したとしても、かつての社地には小祠などが残されている場合が多かったり、ましてや津軽四社と呼ばれるほどのかなり有名な神社なので、何かしらの名残りはあるだろうと思いつつ捜索し続けました。
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様々な文献を参照した上で、以下のヒントに絞り込み、平滝沼の西岸の松林を捜索していたら広瀬神社の鳥居を発見。
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一.天和2年(1682)信政公は新田開発を奨めるため、現在の屏風山に松の植栽を命じている。
一.元禄7年(1694)の「御国中道程之図」によると、弘前からの新田街道の終点は後に廃村になった長浜村であり、弘前から祈祷等で往復する際に役だったと考えられる地図になっている。
一.広瀬宮(広瀬明神・長浜広瀬宮)は長浜村に鎮座。
一.元禄10年(1697)に信政公の発願により建立。翌11年9月18日御棟札仰せ付け。
一.明治6年に館岡村八幡宮に合祀。
一.安永4年(1776)造立。
一.寛政8年(1796)台風にて破損。
一.文化6年(1809)長浜宮再建。
一.天保10年(1839)広瀬大明神焼失し、木作村八幡宮社司菅井織衛に見分任命。
一.安政2年(1855)神社所書上帳には逆木明神あり。
一.文久2-3年(1862-1863)広瀬宮遷宮。
一.現存する近郊の神社…(雷電宮・羽黒神社・館岡八幡宮・大湯町稲荷神社・菰槌鹿嶋神社・山の神(菰槌)・鬼神社・立山稲荷神社・丸山八幡宮・四所神社)
一.奈良の廣瀬大社と龍田大社の位置関係を模した可能性。
一.長浜村について…屏風山砂丘中央部に位置。館岡村の西方で、屏風山の通称浜中にありましたが詳細な場所は不明。南方1里程に出来島村。貞享4年(1687)検知水帳によりますと、小字に寺沢・近江沢・丸山があります。社地は明神社地がみえます。半農半漁の村で、元禄10年(1697)に隣村の平滝村の開墾者に対し材木・飯米・大網・船を給与し、長浜・平滝沼での漁業を勧めています。享保19年(1734)の大火で村は全焼。のち長沼萢地に新たに10軒を取り立てます。元禄12年(1699)に長浜村域に雑木7500本が防風・防砂のために植えられ、元文元年(1736)には長浜村跡(火災跡)に雑木8000本が植えられています。宝暦4年(1754)の検地帳では浦目付番所、立山2ヵ所が見えます。文政7年(1824)写の陸奥国津軽郡之図に村名が見えますが、天保郷帳や明治初年の国誌には村名は見えず、幕末までには廃村したと考えられます。明治2年の諸組村寄帳によりますと木造新田に属して村名が見えますが廃印。
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額束に「広瀬神社」と書かれています。
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鳥居の周囲にはかつて赤い鳥居だったと思われる木が散乱していました。現在の鳥居が代わりに新築されたものなのか、かつてはもっと鳥居があったのかは不明です。
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鳥居のすぐ先は不自然に開けていますが、特に痕跡等を見つけることはできませんでした。
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松林の中の細い参道を進みます。
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植林されたものでしょうね。
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参道の途中にあるキノコの説明は空白さんにまかせるとして…
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ついでに虫の説明も空白さんにおまかせして…
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海側へと歩いて行きます。
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遠くに小祠が見えますね。
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広瀬神社。
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小祠の前には広いスペースがあり、かつては拝殿等があったことを伺わせます…が、特に礎石等の痕跡は見つけることができませんでした。
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祠内。
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正面に「広セ大明神」とあります。
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広須大明神と書かれているものもありました。
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御幣立の向こうには「若宇賀能賣命」と見えます。かつての広瀬宮の御祭神と一致します。一般的に広瀬神社に祀られている神です。大忌神とも呼び、豊宇気毘売神や宇迦之御魂神水神と同神ともされ、水神や五穀豊穣の神として信仰されます。「貴船(野内)加茂(五本松)は日の宮、雨の宮也、風の宮は広瀬(出来島)龍田(田野沢)にて西の浜也。是即ち四柱明神。同御治代(信政公代)に御勧請ありて、折に付ての御神事絶えずと云。」と記録にあり、前述したとおり、元禄10年(1697)藩の祈雨祈晴・五穀豊穣・領内安全を祈願する四祈祷所として勧請されたわけですが、その位置関係は京都における北の貴船神社・南の賀茂神社、西の龍田大社・東の廣瀬大社の位置関係に類似しているところがとても面白いです。類似というよりも祈願理由からしても完全に模倣です。有名な社でありながら、当廣瀬神社だけがこのように廃れてしまったのは、火災はもちろん、廃村となった直接的原因である激しい西風と飛砂でしょうね。奈良県の廣瀬大社の砂かけ祭がとても有名であることは…こちらにとっては皮肉なことです(笑)
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御幣立奥の「若宇賀能賣命」の札の下には御神体らしき石も見えていました。
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さて、広瀬神社を少し離れて平滝沼の畔を歩いていたら鳥居をもう一つ見つけました。
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広瀬神社からも程近い場所です。
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鳥居の額束には「金比羅大権現」とあります。広瀬神社との関連は不明ですが、鳥居の種類・形状・大きさ、額束の文字がとても類似しております。
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由緒等は不明です。金比羅大権現もまた水神であり、この付近における漁業・海上交通安全等に関わりがあると推測されます。
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社殿内。
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宮形は空っぽです。
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金比羅大権現、琴平大権現などの木札があります。
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御幣立などには古くは昭和51年旧6月25日、新しいところでは平成5年3月24日などの紀年銘がありました。
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平滝沼…『この平滝沼は、津軽半島でも最大規模の天然の湖沼であり、春から秋にかけてはヨットやウィンドサーフィン、魚釣りで賑わい、冬には氷のはった湖面からワカサギ釣りを楽しむことができる。また、沼の周囲にも、高村光雲作といわれる観音像や復元された2棟の縄文竪穴式住居、またキャンプやハイキングの家族連れ等多くの人に利用される野外活動施設「屏風山の家」があり、観光地として、レクリエーションの場としてたくさんの人々がここ平滝沼を訪れる。』…上の二社については一切触れられていません(笑)
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郡内四社 ・ 津軽四社 ・ 藩中四社 (青森県)

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元禄10年(1697)津軽4代藩主信政公が勧請した津軽四社(郡内四社・藩中四社)の紹介です。祈雨祈晴・五穀豊穣・領内安全の祈願所。藩主の崇敬が非常に厚く、神事は厳かに行われ、藩内社家頭小野若狭(八幡宮宮司)が藩主の命を奉じ、藩主又は家老に随伴し、途中行列美々しく、精進潔斎した後祈願したと記録に残ります。憶測になりますが、津軽四社の位置関係はどことなく奈良の廣瀬大社(東)と龍田大社(西)、京都の賀茂神社(南)と貴船神社(北)を模したように感じます。
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東:広瀬神社(広瀬大明神・金比羅大権現 / つがる市木造館岡)
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濱町神明宮 (青森市本町)

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『御祭神天照大神。例祭日7月16日(前夜祭7月15日)。由緒沿革…草創年不詳。寛永3年(1626年)、伊勢三日市七太夫と申す人が当地へ下ったとき、伊勢太新宮の御神璽と御榊を御下しになり、浦町村の勘解由という者に預け、それを浦町村元伊勢に奉祀。寛永20年(1643年)、津軽藩二代藩主信牧公の時青森繁栄のため、開港奉行森山内蔵之助藩主の許可を得て、浦町村元伊勢より柳町へ遷宮。2度の遷宮の後昭和22年、青森市大字浜町に遷宮浜町神明宮と改称し、翌23年、本殿、拝殿を新築今日に至っている。』
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青森県神社庁HPによりますと、『草創年不詳、青森浦町元伊勢という所に鎮座していた。元伊勢という所は現在の浦町神明宮の場所である。寛永三年、伊勢三日市七太夫と申す人が当地へ下ったとき、伊勢太神宮の御神璽と御榊を捧げ来りしに、其頃、青森開港の最中により、浦町勘解由という者にお預けになり、浦町村元伊勢に奉祀。其頃、当神社の初祖、青山兵庫太夫、藩命により弘前神明宮より此地に、祈祷祢宜を命ぜられ、青森の町並も大方出来しに、片村里に置き奉ることを惶れ、寛永二十年、津軽藩二代藩主信牧公の時、青森繁栄のため、浦町村元伊勢より柳町へ遷宮。明治二十年、区画整理の為、遷宮。大正九年、再び区画整理の為、遷宮。昭和二十年、戦災により焼失、社地を氏子町内に求むべく腐心した結果、昭和二十年、浜の青森商業銀行敷地跡に遷宮。昭和二十三年、社殿を新築、浜町神明宮と改称した。』とあります。
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社号標裏面「大正12年7月16日・濱町、新濱町」。
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石灯篭一対。
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社殿内。
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なぜか「天満宮」という社号標もあります。由緒や御祭神には特に書かれていませんが合祀されているのかな。下の写真だけ見ると天満宮ですね(笑)
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水神社 (秋田県大館市)

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長木川南に鎮座。長木川は大館市を西流する川で、炭塚森・東股山に源を発した大川目沢と支根刈沢が合流し、鯰沢と合して長木川となります。更に深沢川・小雪沢川・大茂内沢などを合わせて大館市を貫流し下内川に合流。川名は天然の秋田スギに由来。
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唐破風懸魚の竜。
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扁額の紀年銘は昭和61年7月1日。
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御祭神は水波能売命。由緒不明。
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伏見仲町稲荷神社 (東京都品川区)

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品川区立北浜川児童遊園内の小高い場所に鎮座しております(むしろ境内に公園があると言うべきかも)。旧松平土佐守下屋敷の海岸寄りの地。かつては北浜川の鎮守諏訪神社(寛永8年以前の創建)が鎮座していたそうですが、諏訪神社は南浜川の鎮守天祖神社に合祀されて天祖諏訪神社(濱川総鎮守)となっています。
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参道右側には社務所兼北浜川仲町会館。
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御祭神は宇迦之御魂神。
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狐様一対。狐様の後ろの建物(社殿横)は神輿庫。
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手水舎(安政4年3月)。
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北浜川児童遊園内にあった「こころざしの馬」というオブジェ(制作FIELD 作多摩美術大学)。
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雨がかなり強くなってきたので、雨宿りがてら魚食べて帰ります。
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美味しい~お魚食わせてちょうだいませませ~♪byさだまさし
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野辺地八幡宮 (野辺地町)

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野辺地の総鎮守。
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参道。
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参道の石燈籠一対(平成6年9月15日・還暦報賽・第13代宮司林全造)。
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見応えのある石燈籠でした。
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参道の狛犬一対(昭和12年9月15日)。
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更に参道を進みまして…
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鳥居。
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社務所。
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野辺地八幡宮です。
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広い境内ですね。
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石燈籠一対(嘉永5年)。
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紀年銘の他、「奥御國産御會所」、「大坂御仕送御用所」、「施主 御用達 野村治六郎 當町惣商人中 運送人 神通丸庄兵衛」などと刻まれているのが湊町らしく興味深いですね。※野村治六郎と見えましたが、六代治三郎(1828-1900)のことかな。野辺地の宿老になるなど地域社会で重きをなし、明治時代に入ると海運業での資金の蓄積をもとに土地の取得を進め、明治22年の時点で県内第2位の国税多額納税者となります。明治天皇の御巡幸があったのも6代治三郎の時代であり、また明治23年の国会開設にあたって貴族院議員に当選。
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手水舎。
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昔の社号標。
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大正5年11月3日・五代目杉山久之丞。
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野辺地八幡宮の御祭神は応神天皇(誉田別命)。慶長3年(1598)創建。正徳4年(1714)本殿再建の際に国主南部信濃守利幹公に届け出た旨の棟札あり。天保14年鞘殿拝殿の再建。古くから神仏習合し、別当寺院の成就院が祭祀を司り、関が原の戦いの落ち武者であった林善成が修験僧となって代々継いでいます。
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明治の神仏分離により仏教色が一層され、明治5年に郷社に列格。現在の社殿は平成4年改築によるものですが、本殿は正徳4年当時のもので県重宝に指定。
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御神徳…商売・交通・航海・開運・延寿息災の神。
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唐破風懸魚。
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木鼻。
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本殿覆屋。
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野辺地八幡宮本殿(県重宝指定年月日:平成9年7月30日・構造形式:一間社流造、栩葺、東面)…『野辺地八幡宮の創建は、慶長年間(1596-1614)のことと伝えられる。現在の本殿は正徳4年(1714)に再建されたもので、拝殿を兼ねた覆屋の中に納められている。桁行1間、梁間1間の1間社流造で屋根は栩葺。向拝柱上の象鼻や脇障子などの各所の彫物は優れており、また建築手法には地方独特のものも見られる。この本殿は建築形式を損なうことなく建立当初の姿をそのまま示しており、江戸時代中期の神社建築のありさまを示す格好の文化財建造物としてきわめて価値が高い。』
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側面図。
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正面図。
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現状平面図。
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野辺地八幡宮近郊の古絵図。
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狛犬一対(平成6年9月15日)。
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神輿庫。海上渡御が行われています。
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境内末社金比羅宮。
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御祭神は大物主命他。御神徳…航海・漁業・開業・開発の神。
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狛犬一対(平成15年9月15日・古稀報賽・第13代宮司林全造)。
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本殿は文政5年(1822)建立(鞘殿は平成10年再建)。
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野辺地八幡宮末社金刀比羅宮本殿(指定年月日:平成9年7月30日。構造形式:一間社流造、正面千鳥破風付き、軒唐破風付き、こけら葺、北面)…『金刀比羅宮本殿は、仙台屋安田彦兵衛をはじめとする野辺地の廻船問屋たちが、海上安全を祈願して文政5年(1822)に勧請寄進したものである。一種の建築型厨子で、現在は覆屋の中に納められている。一間社流造で屋根はこけら葺。昇竜、下竜の彫刻をはじめとする各部の彫刻は優れており、全体の形態も均衡が取れている。建築にあたった大工棟梁は盛岡の畠山清八である。建立当初の姿をそのまま残しているこの本殿は、江戸時代から湊町として発展してきた当町の歴史を象徴する建造物と言える。平成7年3月野辺地町教育委員会』
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側面図。
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正面図。
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現状平面図。
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安政4年勧請(※正確には安政2年に天満宮、安政4年に北野神社勧請)の末社天満宮。御祭神は菅原道真公他。御神徳…知能・学問・技芸・防火・虫封の神。かつて野辺地城内にあった天満宮と、八幡宮境内に建立された北野神社が文久3年に合併したもの。野辺地戦争において亡くなった津軽藩士の小島左近貞邦の兜が奉納されているそうです。小島左近貞邦の兜には次のような言い伝えがあります。
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戊辰戦争で津軽藩士小島左近貞邦と南部藩士七戸の小原未造の一騎打ちとなりました。火花を散らす刀の打ち合いが続き、両軍の大将や兵士達も身動きせずにこの一騎打ちを見守っていました。しかし南部軍のとある兵士がその勝負に割って入り、後ろから左近の足を丸太棒で払い、倒れた左近はその隙をつかれて小原に斬りつけられました。左近は助太刀した兵士を睨みながら「卑怯者、汝を7代にわたり、呪ってやる」と言い残して息を引き取ります。小原末造は助太刀した兵士に左近の兜を褒美にと与え、兵士もまたその手柄を喜んで、家に持ち帰り床の間に飾りました。その後、兵士は突然病気で亡くなり、家族にも不幸が続き、家業もうまくいかなくなったそうです。それを見かねた問屋の旦那様がお金を貸し、その代わりにと兜を差し出すと、今度は旦那様が急病になります。原因もわからず祈祷師にお祓いしてもらうと、祈祷師は「恨みの兜、兜を返せ」と告げたそうです。そこで兜を兵士に返して事情を話し、その後八幡様に納めて拝んでもらったという言い伝えです(要約)。
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狛犬一対(平成15年9月15日)。
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庚申塔。
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安田栄次郎歌碑(昭和10年陽春)。
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「萬代之敷石」と彫られた碑(大正13年9月15日)。
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「八幡宮基金創設紀年碑」(大正10年9月15日)。
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