千曳神社参道への案内板・標柱などが四方八方至るところに立っています。
旧奥州街道の間道から向かうと追分石がありました。
「千曳神社 右千曳岩 左野辺地」とあります。紀年銘は弘化紀乙巳年(2年)6月15日。
案内板より…『奥州街道追分石。奥州街道には幾つかの間道があり、その分岐点に標識としての追分石が設けられた。この間道は、中野、坪、柳平、尾山頭を経て野辺地へ入る近道であるが、正保4年(1647年)の「南部領内総絵図」に描かれ、既に存在していたことがわかる。弘化2年(1845年)建立されたこの追分石の壁面には「右 千曳道」「左 野辺地道」とあるが、中心部に「千曳神社」と刻まれていることから信仰心と深く結びついていることが伺える。平成16年12月30日天間林村教育委員会』
追分石から旧道を少し進むと右手に鳥居が見えました。
鳥居左の社号標。
裏面には「紀元2600年記念として大鳥居建築ス」とあります。紀年銘は昭和16年旧6月13日。
鳥居右の社号標。
千曳大明神とあるのでより古いものです。
紀年銘は文政7年旧6月10日。
さて、千曳神社の現住所は七戸町菩提木。合併前の住所は天間林村天間舘字菩提木。坪川の上流の通称尾山頭の東に鎮座し、国誌などによれば尾山頭の千曳宮と見えます。尾山頭は野辺地代官所の飛地。延宝年間火災にて縁起焼失。当時の別当は喬岩坊で五戸年中行事多門院の支配下にありました。宝暦項の 「御領分社堂」 には千曳明神・別当善行院とあります。次いで神道家、愛染坊の霞場へと支配者は変わりました。
天明8年に巡見使が代参。寛政年間の「邦内郷村誌」には尾山頭が野辺地村の支村であったため野辺地村の項に千曳宮とあります。又同書では七戸村に千曳明神ありと伝承を述べています。俚俗云白明神ハ石ノ精ニテ美男ニナル壺子トイヘル女に通フ、云々とあり女の居所を壺村ト云・此村天間舘村ノ小名ナリとあり、千曳石は当社に埋めたと伝えられます。寛政4年、七戸城代の七戸重政(重信)公が詣でて歌を詠んでいます…『音にきく千曳石の跡しめてけふ陸奥のむかしをそ思ふ』、『物いは々宮居の松にふしまして千引にたゆまむ石の心を』。なお、現在は花松神社の兼務社となっています。
由緒…『●鎮座地:天間林村大字天間舘字菩提木56番地2。●本社:南向1間4方柾葺 佐屋 拝殿 東西3間南北9尺本社に向ふ 鳥居11基 石燈籠1座 狛犬2頭。●祭神:塞の神、八衢彦神、八衢姫命。●御縁日:4月3日 9月29日。●御祭礼:6月15日(いずれも旧暦)。●本社は大同2年(807)坂上田村麻呂の創祀と伝えられる。山伏修験道本山派五戸多門院の配下、上北郡横浜八幡別当大光院の霞に属したが、一時花巻の神官稲田遠江の支配に属したこともあった。江戸時代には、幕府巡見使の参拝所であり、南部領では巡路第一の地であった。それ故に巡見使通行の節、見苦しきため、取り毀し仮社としていたが、明和2年(1765)再興した。古くから「日本中央」と刻んだ「壷の石文」を建てたという伝説があって、これを尋ねた和歌や紀行文が多いことで知られている。「名にし負う千曳の石にあとしめて動きなき世と神や守らむ」南部重信。「たのめぞや今世の身かは後の世もなほやすかれと道行の神」遊行上人。「石文の跡をさぐりて思はずも千歳の檜葉に逢ひにける哉」大町桂月』
古川古松軒は『東遊雑記』にて「千引明神の社、二間に三間、桧皮の屋根にて其うへに草葺の素屋をなしてあり。其地ひょうびようとせし平地にて、諸木の森凡方百間余、神さびて至て殊勝の所なり、千引の森と称せるは是なり。神主は教岩坊といふ山伏にて少しく除地有て古へよりの御巡見所也。山伏を召され、古来の事を御尋ありしかども、一字不通の文盲人にて委しからず。彼の家に代々伝ふることには神代の時に石の札を立て、其石を限りに北方の国より渡り来る鬼をば追返せし事なるに、悪鬼の来りて其の石を土中ヘ深く隠せしを、神々達の集りさがし出し給ひし所こそ石文村にて、其石を建し所は坪村にて有しを、坂上田村丸来り給ひ、鬼を残りなく殺し給ふ故に、此石は無用とて此所を七尺掘て埋め給ひ、其上に社を建立なされし事にて、其石を坪村より是迄引とるに人数千人にて引しを以て千引大明神と申なり。」と記しています(天明8年8月25日)。
千曳岩、千引大明神といえば、古事記ですね。黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂といい、葦原中国と繋がっているとされます。伊邪那岐命は亡くなった妻の伊邪那美命を追ってこの道を通り、黄泉国に入ります。変わり果てた伊邪那美命の姿を目撃した伊邪那岐命が、黄泉国から逃げ帰る場面において、追いすがる妻や手下の黄泉の醜女たちを退けるため、最後に黄泉路を塞いだ大石を道反大神といいますが、この大石は千人の力でしか動かせない千曳岩であり、これをもって悪霊の出入りを禁じました。
当千曳神社にも千人の力で石を引き、神社の地下に埋めたという伝説があり、明治9年(1876)の明治天皇東北巡幸の際には宮内庁が青森県に依頼して神社の下を発掘調査させており、木戸孝充(桂小五郎)も発掘現場に視察に訪れていますが、結局何も出てきませんでした。
このように当神社を語る上で「日本中央」と刻んだ「壷の石文」に触れないわけにはいかないのですが、この「壷の石文」には数多くの伝説が残されています。また、石碑は神社から程近い「日本中央の碑歴史公園」の日本中央の碑保存館にあり、県道8号線の千曳駅から少し南下した付近に「日本中央の碑発見地」もあります。詳細は以下の記事を参照ください。
『青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)』に次のような記述があります…『千曳明神は、大きな石を祭ったものである。明神様は坪村(天間林村坪)の、つぼ子という美しい娘のもとに、毎夜通っていた。ある夜、つぼ子に初めて千曳の石の精だと告げ、「あす、村では私を土中に埋めることになった。しかし、他人の手で引かれてもけっして動くまい。必ずおまえの手で引いてくれ」と頼んだ。果たしてあくる日、村人たちが千曳の大石を引いて行こうとしたが、どうしても動かない。神のお告げで、つぼ子がよび出され、彼女が石にかけた綱を引くと、さしもの大石もやすやすと引かれた。村人はこれを埋めて、千曳明神として祭ったのである。ここにも田村麻呂伝説がある。将軍が千曳の山にこもる蝦夷を攻めたとき、飲み水に困った。そこでご幣をささげて神に祈りながら、馬の鞭を地上に突き立てると、そこに清水が湧き出たという。将軍井戸とも、ご幣清水ともよんでいる。』
社殿内。
本殿。
本殿蟇股(ウサギ2羽)・木鼻。
本殿前の棟札には「修造千曳大明神・昭和52年11月13日」「修造正一位千曳稲荷大明神・昭和29年4月10日修造・昭和35年9月15日修築・昭和48年10月10日(旧9月15日)家根修繕」とありました。1つは末社のものかと思われます。
千曳大明神の神額。古そうですが紀年銘はありませんでした。
鳥瞰図。
社殿内の由緒は神社入口にあったものと同じでした。
『明治政府が探した謎の石』『垠界の魔方陣』『鬼追い返す「石の札」は「蓋」』『北東北に眠る平安の謎をひもとく』と題された千引の石の謎の記事(デーリー東北掲載記事・2009年7月2日)が社殿内に貼ってありました。反射してよく見えませんでしたが。
その他の奉納絵馬など。
参道狛犬一対。
参道石燈籠一対(昭和15年11月25日)。
倒れそうな御神木。
手水鉢と千曳神社と彫られた碑。
社殿前石燈籠一対(弘化2年6月15日)。
手水舎。
社殿狛犬一対(元禄11年)。
香取某平さんの話では新しく造った狛犬とのこと。私が調べたところでは、元禄11年(1698)に桧山運商人野坂屋与次兵衛によって狛犬一対が寄進されている記録が残されており、これがその狛犬かと思ったのですが確かに元禄のものとは思えず…。これが新しいものだとして、以前の元禄11年奉納の狛犬はどこにいったのでしょうか?なぜ新しい狛犬にわざわざ元禄11年の紀年銘を残したのでしょうか?色々と疑問が残るところです。
津軽にいると南部の史料に乏しく、これ以上調べることはできませんでしたが、いずれにしましてもその経緯に関しましては、当時の野辺地の廻船問屋の興隆ぶりが伺えるものだと思います。
末社。小祠が3つありましたが、いずれも空っぽでした。
境内の横に遊歩道。
千曳神社の鎮守の杜を含めたこの近郊の森を散策できるようです。