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津軽忠臣之碑 ・ 田中太郎五郎戦死之跡 (平川市)

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津軽忠臣之碑を目指します。目印はこの手書き看板(津軽忠臣之碑(六羽川の戦い)五百米先・右側)のみ。住所的は平川市高畑高田。
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しばらく歩いて行くと途中に彌佐堰工事記念碑がありました。
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竣工昭和27年5月1日。結構古いものですね。
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彌佐堰工事記念碑の少し先を右に曲がると津軽忠臣碑です。
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天正7年(1579年)7月4日に安東氏の命を受けて比山六郎・七郎兄弟が津軽に侵攻。その軍勢に滝本重行、北畠顕則らも参陣。浅利氏や大鰐、碇ヶ関方面の土民たちの協力もあり、軍勢は一千に膨れ上がりました。軍勢は乳井建清が城主を務めていた乳井城・乳井茶臼館・乳井古館に攻め入り、城主建清が留守であった三城は落城。その後、沖館城に攻め入るも城主阿部兵庫介の奮戦により撤退。その後、六羽川の畔において大浦勢と激突。比山勢は占領した乳井茶臼館、大浦勢は大坊・岩館に本陣を置きました。戦いは夕暮れまで続き、大浦勢は次第に追い詰められ、為信本陣の旗本もほとんどが討ち死にしました。本陣にいた田中太郎五郎は為信の身代わりとなり突撃し、為信を討ち取ったと思い込んで油断した比山勢は隙をつかれ、大将比山六郎が討ち死にしました。総崩れとなった比山・北畠・滝本勢は敗走し大館に撤退。大浦氏はその後津軽を征服して外ヶ浜と糠部の一部を征服。為信の身代わりとなった田中太郎五郎については、その後、嫡子田中宗右衛門に百石を加増し、津軽の忠臣の家として遇されました。昭和34年、子孫にあたる元外交官佐藤尚武らにより、「津軽忠臣の碑」が建立され、かつてこの地で戦があったことを現在に伝えています。
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建碑之由来…『田中太郎五郎は天正7年7月4日六羽川の戦において藩祖為信公の身代りとなり鬼神を泣かしむる壮烈な戦死を遂げた。津軽の忠臣であるがそれによって藩祖は危きを免れ遂に群雄割拠の津軽を鎮撫平定し人民を塗炭の苦より救うことができた。幸にも太郎五郎戦死の場所が発見されたので其の英霊を慰めると共に功績を顕彰するため同志相謀り此の地に鎮魂碑を建立し偉勲を萬世に傳へんと欲するものである。昭和34年7月4日。建立者:平賀町文化郷土史協會・在弘前市平賀郷友會・田中太郎五郎建碑協賛會』
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この一角に何やら崩壊した石がありました。近くでよく見てみると…
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まさかの津軽之忠臣の文字!
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紀年銘は昭和43年。
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「…米地点に鎮魂碑所在…」、「崇敬」という文字だけが見えました。裏側は見ていません。肝心な部分が見えませんが、内容からして最初の手書き看板の場所にあった案内用の石碑かも知れませんね。
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津軽忠臣碑から少し離れまして…
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平川市原田稲元にある原田稲元農村公園に行きました。
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この公園の一角に比較的新しい立派な祠があったので寄ってみました。
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中には地蔵様が3体、丁寧に祀られていました。
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天祖諏訪神社 (東京都品川区)

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濱川総鎮守。
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由緒…『祭神:天照大御神・豊受大神・建御名方神。天祖諏訪の両社は江戸時代から此の地の鎮守とし神威昭々郷土の発展と共に今日にいたりました。昭和36年1月氏子各位の要望により天祖神社諏訪神社御改築奉賛会が設立せられ新社殿を建立し昭和40年11月1日両社を合祀いたしました。』
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手水舎。
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天祖・諏訪神社の由緒沿革(パンフレットより)…『浜川町と元芝の鎮守の氏神様として仰ぎ親しまれる天祖・諏訪神社は、古くは神明宮、諏訪社と称し、かつては両社とも東京湾に面し、立会川を挟んで並び祀られていました。天祖神社の創建は、建久年間の大井郷之図や来福寺の記録から西暦1100年から1190年頃に遡るとも思われ、諏訪神社は松平土佐守の下屋敷の海岸寄りにあり、江戸時代初期の寛永8年(1631年)以前の創建と思われる。両社は昭和40年に合祀され天祖・諏訪神社と称されるようになった。御祭神:天照大御神。御神徳:皇室の御祖先神にて太陽の神として崇められています。御祭神:豊受大神。御神徳:天照大御神の御食事を司る神。食物神。御祭神:建御名方刀美神。別神名:建御名方神。御神徳:天孫降臨に際し、高天原から派遣された建御雷神と力競べをした後、国譲りを約束した神。御祭神:小碓命。御神徳:日本武尊の別名。熊襲・蝦夷平定の為に活躍した。』
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天祖・諏訪神社の御神域(パンフレットより)…『都会の慌しい環境から、一歩足を踏み入れると、そこは天照大御神様の暖かい神気が満ち満ちた場所となります。暖かい日差しが本殿を照らし、とても清清しい気持ちになります。また、境内には厳島神社をお祀りしており、その周りの池には大きな鯉が悠然と泳いでいますので、どうぞお近くにお越しの際には、ご参拝下さいませ。※御神域とは、神社の境内または神が宿る場所のこと、神気とは神様の気のことです。』
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社殿。
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社殿内。
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左大臣・右大臣。
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狛犬一対(慶應3年夏6月吉祥日)。
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不明の石。
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日露戦役記念碑。
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社務所。さし石(力石)あり。
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神輿庫。
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境内末社。厳島神社(パンフレットより)…『御祭神:市杵島姫命。御神徳:水の神、海上の安全を守る神として崇められています。』
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大雨のため写真ブレブレ。さし石(力石)あり。写真はなし…傘を持っているので精一杯じゃー!
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手水石。
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七重石塔。
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池。
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境内末社。稲荷神社(パンフレットより)…『御祭神:宇迦之御魂神。穀物の神、農耕の神、商工業の神として崇められています。』社殿横に鎮座。大雨に心が折れて写真なし。天照大御神様ー!
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弁天橋。
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立会川。
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浜川砲台跡 ・ 泪橋 (東京都品川区)

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北浜川児童遊園内にある坂本龍馬像。
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浜川砲台跡から敷石の一部が発見されたことを記念し、平成16年に高知市から寄贈され(強化プラスチック製)、その後平成21年に新たにブロンズ像の龍馬像が建てられたようです。つまり二代目龍馬像。
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一応現代版と比較してみる。
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立会川二十歳の龍馬像…『嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬(1835-1867)は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護にあたります。当地は後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言えます。地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、近頃の時代の閉塞感とあいまって、龍馬の事績に思いを致す人々の、ブロンズ像であればとの強い願いを受けて、東京京浜ロータリークラブは関係者と密に語らい議って、二十歳の龍馬像としてこれをここに建立したものです。なお、この像には、平成11年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。平成22年11月15日。』
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黒船。
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浜川砲台について…『立会川駅から、旧東海道浜川橋(涙橋)より海沿いの地域は、江戸時代土佐藩の鮫洲抱屋敷のあった場所です。1854年の黒船来航に際し、防衛のため土佐藩もこの屋敷内に砲台を築きました。2004年3月、その砲台の礎石が発見され、2015年11月、品川龍馬会や民意の力で砲台が完成致しました。実際は八門の大砲を備えておりましたが、中でも一番大きかった大砲(六貫目ホーイッスル砲)を再現。坂本龍馬もここで「幕末の動乱」を目撃し、日本の洗濯に奔走していったのです。龍馬像より砲台まで200m。』
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龍馬が世界と出会ったまち品川…『ペリーが初めて来航した嘉永6年(1853)、19歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修業中でした。土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警備のため、江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わりました。同年9月には「異国船処々来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り…」と、父親に手紙を書いています。品川での黒船警固から、龍馬の幕末は出発したのです。』
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立会川。
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浜川橋…『立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋は、昭和9年(1934)に架け替えられたものです。』涙橋の由来…『慶安4年(1651)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。平成13年3月30日品川区教育委員会』…結構コアな内容の由来でした。
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浜川砲台跡を目指して川沿いを歩いていきます。
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龍馬がいました。
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今日は黒船来航していないようです。助かったー!
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浜川砲台跡。
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浜川砲台。
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浜川砲台の大砲…『嘉永6年(1853)6月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる4艘の艦隊を日本に派遣して、開国を迫った。国書を幕府に渡すと、来春、再来航するとしてペリーは去った。日本側は、次回は戦争になると想定して、江戸湾の防備に力を入れることになる。土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。嘉永7年(1854)1月、ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藩が造ったのが、浜川砲台である。六貫目ホーイッスル砲一門(復元)・一貫目ホーイッスル砲二門・鉄製五貫目砲五門。計八門を配備した砲台だった。ここに復元したのは六貫目ホーイッスル砲である。実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような狂歌も作られている。「品川の固めの出しのよくきくは下地もうまくなれし土佐武士」(品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ)。これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも、上手くできる土佐ぶし(鰹節)だからだという意味である。この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬がいたのである。』
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く、黒船じゃー!
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なんちゅうでかさじゃ!なんちゅう高さじゃ!
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く、くじらじゃー!
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なんちゅうでかさじゃ!なんちゅう高さじゃ!
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親山神社 (東北町)

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上北郡東北町大浦中久根下。小川原駅・小川原郵便局の付近。
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由緒等は不明。新山神社(新山大権現)なのかな。
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蟇股。十拳剣を持って八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治する須佐之男命?に見えます。やっぱり漢字は違えど新山神社かも。
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木鼻。
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海老虹梁と手挟。
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社殿内。
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中央には観世音菩薩像がありました。神仏混淆ですね。
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外観は完全に神社ですが、中に入ると完全にお寺気分です。
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横に小さなお宮もあります。
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獅子頭。小川原神楽連中保存会による権現舞に使用されるのでしょう。
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小川原神楽連中保存会の木札(新畳寄贈記念・昭和61年3月吉日)より…『誌、郷土に培われていた無形文化財神楽の伝承も有志の宿願により新たに誕生し今日にいたる。因みに家内安全、五穀豊穣祈願はもとより、地域住民の融和と有志の親睦団結を図り、より一層の発展と技術の向上を祈念し、守護神の新装を発願し、新畳を寄贈するものなり。』
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御神木。
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日露戦役記念碑。
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社殿の裏手。中々高低差がありました。
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松巳稲荷神社 (東京都大田区羽田)

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小さい社です。
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蟇股や木鼻はなかなか立派でした。
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境内に転がっていた石。恐らく「昭和8年6月」。何かはわからず。
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その他にも石がゴロゴロ。由緒によると最初は石で塚を造ったそうなので、その名残りかも知れません。
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松巳稲荷の由来…う~ん下部分がほぼ消えてます…かなり厳しいけど一応。
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『一 家主安藤銀藏八十四才私の知ったこと思たこと及び見たことを記録しておきます。昔明治時代、ここの曲り角には享保年間より安藤家の松の大木が道路に突き出て枝を●●●●●田歩の上に出て居り道行く人々はこれ言うとなく西町と内の眷五所●曲り松と申して有名になってをりました。其の松の木の幹の中の空間に多数のヘビが住んで居ました。そして大正年間の末期に近所大火で松の木の枝が焼けて追々枝がかれて来て太いみきだけとなり、その中の空かんに昔より住んで居りし多数のヘビ数百匹が全部外に出て近所の木の枝や、山クス木高さ十五米枝にむらがり出て二匹す●でたわ●れ●●●●しく多数の人々が見物に集まり警察から注意を受け私も非常にこまりました。その内私は不思ぎな夢めを見ました。その夢の●●のうらてに数千匹のヘビがむらがり出て居り南側の縁の下に●●の白ヘビがたわむれて居り私わヘビに向いおまえ等の眷属がうらに出て居るから外部へ出るように申すと不思ぎなことに●●●●ヘビが一匹のこらず消へてしまい、●●の心で思うよう●かれ等の追だすと住むところが、なくなるためだと思って早速く石材で塚をつくり社の●●を造り社を建設してお●●●●●●●お祈りを致しました●●●と不思ぎ●二、三日の内に外に出て居り●●●●●石材の内側や社の基礎●●●●●む●になり、そのとき私●●●●●の、ヌケがらが社の基礎●●●●●●た。ヘビは全部この基礎の内側●●●●●●年の●●で社●●辺の●●焼けて●●内側のヘビは全部焼けて●●●となりて現在に至るものなり。このヘビ●●●●●と称して永久に保存して行き安藤家●●●家々の守護神としてお祈りしていくものなり。昭和五十六年七月吉日 家主安藤銀藏』
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昔ここにあった松の大木の空洞に住んでいた蛇を祀ったものとのこと…まさに松蛇。由緒からすると恐らく大正末期頃~昭和初期頃に建設したのかな。もしかしたら石に彫られていた昭和8年6月が創建日かも知れませんね。
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白龍大権現大神 ・ 稲蒼魂大神 (十和田市深持)

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十和田市深持長下。何も書かれていない&貼られていない掲示板みたいのが気になり、その裏に回ってみたら鳥居がありました。気比神社&桂水大明神のすぐ近くです。
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白龍大権現大神。
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由緒等はわかりませんでした。中には不思議な石が祀られています。顔のようにも見えます。
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っていうか周囲にはたくさんの石が転がっています!
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一体何なんだろう…。
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こちらは隣にある稲蒼魂大神。白龍大権現大神と同じ鳥居ですね。
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所謂稲荷神社でしょう。
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こちらも由緒等はわかりません。
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祠の後方には巨木。
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里見稲荷神社 (青森市)

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里見村の地名の由来は開発者窪田家の先祖が源義家の曽孫義俊の後裔で、義俊が大新田太郎里見と号し、また、その後数代が安房上総を領し里見太郎と称したことによるものと考えられます。青森町の窪田三郎右衛門が、元禄年間の大凶作で荒廃していた青森平野南部の水田復興を計画し、宝永元年に藩の許可を得て荒川(堤川)から取水する里見新堰を掘り、浦町・堤・勝田・浜田・荒川・沖館・大野の7ヶ村にわたる105町5反余の里見新田を完成させ、後にこの功により知行30石を賜った当村はこの里見新田の開発の後、元文年間に窪田家が開墾した新田といいます。なお、明治初年の国誌には村名が見えず、それ以前に廃村状況となり、浦町村に吸収されたと考えられます。
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さて、里見村は浦町組に属しており、神社として浦町組里見村稲荷神社がありました。草創は不詳。元文2年(1737)村中にて再建(窪田三郎右衛門が新田開発成就を祈願し再建)。
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明治初年には一時浦町村神明宮に合祀するも後に復社。
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棟札(寛政7年・文化元年・文化4年・天保6年)があるそうです。同社の別社に遍照堂があり、浦町・横内両組で五穀成就の御守社を奉納したといいますが、明治初年神仏分離に際し大島神社に改めることを願い出るも許可されず廃堂となりました。
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また、安政2年神社書上帳によりますと、末社として文政11年勧請の弘法大師堂が見えますが、これは今述べた遍照堂と同じものと思われます。
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稲荷神社 (外ヶ浜町三厩六條間)

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左の石段がまるで女坂のように見えますが、神社に辿り着かないので注意です(笑)
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かなり急ですが正面石段を上りましょう。
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六条間稲荷神社。三厩六條間鎮座。創建不詳。御祭神は保食神。
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貞享4年検地水帳に稲荷社が見えます。文政7年神社書上帳に六丁間稲荷宮が見えます。安政2年の神社微細書上帖には六条ノ間村稲荷宮が見えます。社地は変わらず。大正12年に建て替えをしています。
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末社。左の祠は十和田大神白龍神。右の小さな祠は龍宮姫龍神。
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境内からの景色。
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天間舘神社 (七戸町小田平)

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御祭神は高おかみ神。
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創建不詳。
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青森県神社HPによりますと、『里人は村名天間舘と呼び旧より祭るにより神名を負せたるなりと云う、北は天間と伝る村名ありて神社を後に建立し、村名に唱祀なるべし、此例他村に多くあり。天間舘村の伝承として「此村の西、北の側は蝦夷の巨壁の巣屈にして此辺を押領し、土人服せさるときは幻術を以て狂感す。因て国中大に恐怖せしかは南部の守この蝦夷を遂却せしと云う。土人この墟を後、天魔舘と呼ひ、終部落をなして一邑の名称とせしか、後魔の字を忌避けて間の字に換しなりと云う。或云当村に古来何の頃よりか天間明神と云ふ叢祀あり。舘その辺にありし故天間舘と呼なり。今に天間舘神社あり」 と地名の由来を述べている。 』とあります。
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『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)によりますと、村人は竜神様で諸願成就を祈願するといいますが、社前の長沼に竜神の祠があり、サンゴを打って豊作を祈るといいます。昔の伝えに毎年9月上旬頃、この沼から天間舘神社に竜燈を供するといわれ、人々は大変畏れ、崇敬しているといいます。
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社殿の横にあるこちらの案内板は…『ここ天間舘神社は、トウヨウヒナコウモリの貴重な繁殖地です。このトウヨウヒナコウモリは、本州中部地方以北の森林に生息していますが、妊娠した雌が子を産み、育てるために大きな繁殖集団をつくる事が知られています。ここ天間舘神社には、数年来我が国最大の集団がつくられているのです。つまり毎年4月10日頃から集まりはじめた数千頭の雌が7月初旬に2頭ずつの子を産み、哺育し、9月初旬に飛び去るまでこの周辺で生活しているのです。夕方ここを出たコウモリたちは、早朝まで水田や山林の上を飛びながらたくさんの虫を食べていますので、農林業上大変役立っています。ところが最初神社の天井裏に住みついたものですから、多量の糞がまきちらされ、その悪臭や後始末に困っていました。幸い天間林村や県民有志の温かい援助をいただいて、昭和52年4月、コウモリ小舎が設置され、専門家たちの指導によって昭和52年8月26日、コウモリ小舎への移動に成功したものです。現在その生活について未知の問題がたくさんありますし学術的にも貴重な繁殖集団ですから大切に保護するよう御協力と御理解をお願いします。昭和52年10月1日』…神社の由緒ではありませんでした。
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拝殿。
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唐破風懸魚に天女がおりました。
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蟇股には龍。
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木鼻は…ちょっと怖い(笑)
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拝殿横のステージ。
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拝殿内。
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本殿。
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本殿の蟇股や木鼻も素敵です。
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手水舎。
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猿田彦大神。
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石灯篭一対。
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狛犬一対(昭和7年旧7月19日建立)。
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皇紀2600年記念植林碑。
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その近くで豪快に倒木。
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末社。中身は空。
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不明の建物。たぶん倉庫。
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御神木。なかなかの巨木揃い。
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蝙蝠小舎(昭和52年6月20日建築)。
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中にはヒナコウモリがたくさんいるようです。害虫を餌として食べてくれるので、人間にとっては有益な動物です。
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天間舘神社のヒナコウモリ…『天間舘神社の境内は、日本最大のヒナコウモリ繁殖地である。当初、天間舘神社の天井裏に4000頭を越えるヒナコウモリが住み着いていたが、昭和52年4月に蝙蝠小舎を建て、同年8月26日に人為的に強制移住させることに成功した。この事例は世界初で、人間との共生も珍しく、天間舘神社が「コウモリ神社」と愛称で呼ばれるようになった。毎年5月から7月上旬にかけて2000頭余の雌が集まり、出産のためのコロニーを形成し、2頭ずつ生まれた幼獣は1か月ほどで自立する。ヒナコウモリは、環境省のレッドデータブックで絶滅危惧Ⅱ類に指定されている希少動物であり、全長10cm強、体重20g、広げた翼の長さ30cm前後の大きさの哺乳類動物に属し、夜行性で昆虫を食べ、農林業にとっては益獣である。生態については未知の問題がたくさんあり、学術的価値も高い。平成16年12月30日』
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注意事項。
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中を見る勇気はありません。一匹なら可愛いんですけどね…
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何より決め手はこれです!こちらは一匹でも可愛くないからね!
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蝙蝠小舎の前にも小祠がありました。
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稲荷宮のようですが向拝及び祠内中央には次のようにありました。
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紀年銘は昭和63年6月6日です。
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白魚稲荷神社 (東京都大田区羽田)

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ブラタモリでこの神社とその横の路地について放送していました。
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羽田の回です。ブラタモリを見てからこの付近を散策すれば3倍楽しめます。
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羽田七福いなりめぐり(無病息災)の鷹取白魚稲荷神社。
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御祭神は宇迦之御魂命。
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武蔵国風土記によりますと、「漁士白魚を初めて得しときは、まず此の社に供ふる。故にかく云へり」と社名の起源が記されています。つまり漁師が漁で得た白魚を奉納する慣わしから白魚稲荷神社と称されるようになったということです。創立年月は不詳ですが江戸時代初期以降に創建されたものと考えられています。
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多摩川の砂利砂採取が行われるようになった頃に、この事業に従事する人たちの信仰を受けて社頭は大いに盛んでした。昔、この附近には藁葺き屋根が多く、漁師町特有の建て込んだ家並みから、火事が起らないように祈願する人も多く火伏せの神様としても信仰があり、戦火も免れています。
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社殿内。
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白魚設立記念之碑…『当神社の創立年月は不詳なれども古社と伝えられる。明治時代安田屋の先祖により境内地として当地を奉納され現在に至るも当時の社殿老朽したるにより社殿新築し昭和42年6月11日落成遷宮祭を斉行す。昭和53年4月28日、東京都知事より宗教法人設立の認証を得たるによりこれを記念し、ここに碑を建立す。昭和53年12月吉日宗教法人白魚稲荷神社』
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手水舎。
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紀元2600年記念碑(大東青年団)。
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「寄附境内地四畝歩安田松之助・砂寄附連名人」(明治40年12月建立)。
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ブラユキ写真館 part16

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一見何でもないものがYUKIさんの目を通すと面白く見えてくるブラユキ写真館のお時間です。長年続けてきましたが、偶然見つけたものばかりなので、正直ネタ切れです。ご勘弁ください(笑)

まずはこちら。
「伝統的工芸品を育くむ大館曲げわっぱの森」まで7kmという立派な看板。
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是非行ってみてください!とアピールしたいのか…それとも行くべきではない!と言いたいのか。
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せっかくなので向かってみました。200m進んで残り6.8km地点の看板。
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「…看板と高齢級の秋田杉だけです」…悲観的過ぎる!やっぱり行くのやめておこう!
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これ懐かしいなぁ。ここから旗を取って横断歩道渡るんだよね。
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でも顔はちょっと怖かった。
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看板の造りに昭和を感じます。
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いい感じ。
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青森県内で2番目においしいラーメン店は…
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味より建物の造りに驚きます。
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旧松の湯にあった注意書き看板。「他県の人に笑われます」…衛生面の問題よりも、他県の人にバカにされるからダメ!って言ってるみたいな(笑)
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何屋さん?面白そう!って思ったけど個人宅みたい(笑)
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こちらも個人宅かな。
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キティちゃんにドラえもんにアンパンマンにミッキーにピカチュウ…子供心を鷲掴み!
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ピカチュウゲット!GO!GO!
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ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと~♪
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その北のはずれにある食堂の名は…
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ミッキー食堂!県内唯一のディズニーストア。
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こちらは道路沿いにあった…説明できないもの。
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名前も付けられています。
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風車みたいのもいっぱいあり…
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飛行機やらロボットやら…
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とある稲荷神社の看板です。お狐さん、最近食欲ないみたい。
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絵に味のある看板。会ったことないけど絶対本人に似ている気がする。
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服には革感なし。
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男性用かつら!人毛より人工毛の方が安いんですね。しかも女性用の方が安いんですね。
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写真は毛量あり過ぎです。国籍は不明。
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目黒区下目黒にある「蔵処立乃」さん…は閉店して、現在は「ワイン居酒屋下目(SHIMOME)」になっているようですが外観はそのまま。
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様々なレトロな看板があるのですが…
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随所に鉄道マニア感が出ています。
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1階が「お好み焼き もんじゃ焼き 鉄板焼 ニューマリーン」で、2階が「すなっく おばん倶楽部」。
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ニューマリーンの方がスナックっぽい名前。おばん倶楽部のレポは空白さんに期待しています。
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地図にも掲載されている神社ですが…どうやって参拝したらいいのか全くわからず。窓から入ればいいの?
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変な形をした木。
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どの角度から見ても不思議な形をしています。
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藤崎稲荷神社 (東京都大田区羽田)

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羽田付近を散策。
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たまたま辿り着いた藤崎稲荷大明神。中国料理店「太陸」さんのすぐ近くです。
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この付近には古くから続く稲荷神社がとても多く、「羽田七福いなりめぐり」(所要時間約2時間・御朱印は1月1日-1月5日)という企画も行われています。
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が、この藤崎稲荷神社は七福稲荷めぐりには含まれていません。
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江戸後期に建立されたと伝えており、明治19年の太郎兵衛火事や昭和20年の空襲などでも類焼を免れており、火伏の稲荷として代々守られてきたそうです。
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七戸天満宮 (七戸町)

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御祭神は菅原道真公。
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決して大きい神社ではありませんが、現在でも学問の神様として地元住民の崇敬が大変篤いようで、たくさんの絵馬がありました。
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特に地元町内会の川友会では毎年受験合格祈願祭を行っているようで、合格パンなるものが振る舞われるそう。御縁日は旧暦1月25日。 
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新撰陸奥国誌によりますと「天満宮旧は支村向町に祭る所なり、同時に遷し祭る」とありますが、これは川向の誤植。明治6年神明宮に摂合併祀した祭神の中に「菅原道真卿天満宮」とあり、郷土誌ではその解説として「天満宮ノ神体ハ旧盛岡城主従四位南部大膳大夫利敬常ニ敬神ノ志厚ク、殊ニ天満宮ヲ信仰アリ、此ノ神像ヲ居間ニ奉置シ、後末家従五位南部信誉ニ譲リ、維新ノ際当七戸ヲ賜ハリ、従五位南部信方ヨリ明治五年当社ヘ合祭」とあります。
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川向天神林にあり、社殿は東向き、三間×二間の切妻造りトタン葺きで、向拝の蟇股に朱塗の梅鉢紋が彫られています。
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案内板より…って自分が調べた内容とまったく同じでした…一応(笑)…『明治6年神明宮に摂合併祀した祭神の中に「菅原道真卿・天満宮」と書き記し、その解説に「天満宮の神体は旧盛岡城主四位南部大膳大夫利敬常に敬神の志厚く、殊に天満宮を信仰あり。この神像を居間に奉置し、後末家従五位南部信誉に譲り、維新の際当七戸を賜わり、従五位南部信方より明治五年、当社へ合祭」と解説している。川向天神林にあり、社殿は東向き、3間に2間の規模で切妻づくりトタンぶきである。向拝の蟇股に朱塗の梅鉢紋が彫られている。天満宮の額をかかげ、三方に廻廊を設けている。』
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社殿の周囲にはいくつかの石がありましたが何なのかはわかりませんでした。
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蛸薬師 成就院 (東京都目黒区)

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慈覚大師円仁は比叡山に登り、学問修行に励まれました。承和5年(832)唐に渡り、同14年帰国されるまで苦学して、唐各地をまわり、たくさんの仏法を伝えて帰国。
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大師は若い時から眼病を患い、40歳の時に自ら薬師様の小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れ、その御持仏を海神に献じて危急を逃れ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。
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その後、諸国巡化のみぎり、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、海神に捧げられた薬師様のお像が蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせび給い、その後東国を巡り天安2年(858)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木に刻み、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえ祀られました。
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タコと成就院…『別名「蛸(多幸)薬師」。創建は慈覚大師。本尊の蓮華座を三匹の蛸が支えている。これは、大師が海に投じた薬師像が蛸に乗り漂着した故事に由来し、蛸薬師の名もここから付いた。』
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成就院(天台宗)…『天安2年(858)慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗る薬師如来像です。俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人々にあがめられています。この寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752-1815)筆の歌舞伎十八番の一の出し物を描いた「矢の根五郎」の額がありますが、国の重要美術品に認定され国立博物館に保管されています。境内には、徳川2代将軍秀忠の側室、お静の方がわが子保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「お静地蔵」が建てられ、また、3代将軍家光が遠州の秋葉大権現を勧請した「秋葉大権現」が併祀されています。この他に江戸時代の地蔵尊や庚申塔が建っています。平成3年3月目黒区教育委員会』
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本堂は昭和31年再建。
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「霊験蛸薬師如来。おなで石、虫封じ、六三よけ。秋葉三尺坊大権現」
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「ありがたや福をすいよせるたこ薬師」。
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お静地蔵尊。
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お静地蔵尊・由来記…『右:准胝観音・聖観音・十一面観音。中:阿弥陀如来。左:金剛願地蔵・金剛幡地蔵・金剛宝地蔵。この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室、お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願がかない慶長16年(1611)に男子「幸松麿」を授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢を畏れながらもその恙無いご成育を祈り三体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いかない、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩の際、当寺に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩23万石の城主となり、会津松平家の祖となります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。平成15年道文記之』
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御水屋。
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こちらは秋葉大権現?…と思ったけど中は…だるま堂?!
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庚申塔、橋和屋地蔵など。
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秋葉講記念碑など。
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ハチ公神社 ・ 大館駅 (大館市)

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大館駅。
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駅名の由来…『元慶の乱(878年)の頃、当地一帯は火内(比内)と呼ばれていました。当時火内を治めていた公家が大きな館を築き、この地方を守ったことから大楯と呼ばれ、のちに大館と書かれるようになりました。また、峠の大杉に矢を納めて、津軽との国境を確認したことから「矢立峠」と呼ばれるようになりました。秋田杉、曲げわっぱ、きりたんぽなど名物が数多くあるほか、十和田八幡平国立公園の玄関口ともなっています。また、東京・渋谷駅にある銅像・忠犬ハチ公が生まれた、秋田犬のふる里でもあります。』
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プラットホーム。
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ハチ公神社。
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創建は平成元年春。
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御祭神はハチ公。映画「ハチ公物語」公開を記念し、大館商工会議所が発泡スチロール製のハチ公像(高さ・奥行約2m)を作成して大館駅に寄贈。現在のものはブロンズ製像で、平成21年のハチ公神社再建時に制作・設置されたもの。高さ85cm、幅40cm、奥行90cm。台座及び額束は十和田石。賽銭箱は大館曲げわっぱ。
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案内板より…『忠犬ハチ公が応えてくれます。未来への縁結び…忠犬ハチ公が、誠の愛で幸せを祈っています。大館駅を出発する人へ、大館駅に帰って来た人へ、人々の様々な願いへ、神社でお祈りする想いに、鳴き声で心を伝えます。忠犬ハチ公生誕90周年記念事業として、お賽銭を入れると、「わんわん」と応えてくれる賽銭箱を、地域の技能を結集して作成しました。●株式会社大館工芸社…まげわっぱの賽銭箱作成。●有限会社石川建築…秋田杉の台座作成。●東北職業能力開発大学校附属、秋田職業能力開発短期大学校…装置作成。お客さまの安全をお祈りし、大館駅構内で働く社員が心を込めて注連縄を作り込みました。2013年10月13日』。是非ともお賽銭をあげてみてください。
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大館駅前。
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忠犬ハチ公像(昭和62年11月。初代は昭和10年7月に建設されるも太平洋戦争にて回収)。
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秋田犬の像(昭和39年5月)。
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大館駅前…『初代銅像は1935年に完成しましたが、戦時中の1944年に金属類回収令により供出されてしまいました。主をなくした台座は、秋田犬会館前の「望郷のハチ公像」の台座となり今も残されています。1987年に現在の二代目銅像が完成し、その除幕式の際にはハチ公のはく製との対面を果たしました。若い頃のハチ公がモデルとなっていて、両耳がピンと立っています。』。
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渋谷駅前…『初代銅像は1934年に完成し、その除幕式にはハチ公自身も参列しましたが、戦時中の1944年に金属類回収令により1984年に現在の二代目銅像が再建されました。晩年のハチ公がモデルとなっていて、左耳が垂れ下がっています。』
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ハチ公号。
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駅では本物の秋田犬が出迎えてくれます。
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ガヤルダーハチが現れました!(笑)
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花善の鶏めし!
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お弁当なら青森でもGETできるのですが、やっぱり食べちゃうよね。
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親子丼。鶏肉がたっぷり入っていました。
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新商品「比内地鶏の鶏めし弁当」(10/1~11/30限定販売)。
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カトリック十和田教会 (十和田市)

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Merry Christmas!!
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十和田カトリック教会は昭和7年(1932)建築。スイスのマックス・ヒンデルが手掛け、ヒンデルが日本に滞在した16年間に設計した約30棟の内の1つであり、カトリック教会建築としては4棟しか確認されていない内の1棟。 
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カトリック十和田教会(国登録有形文化財(建造物)第02-100号、平成27年8月4日登録)※案内板に7がない…
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1.文化財の種別:登録有形文化財(建造物)
2.名称及び員数:カトリック十和田教会1棟
3.所在地:十和田市稲生町162
4.建築年代:昭和7年(1932年)
5.登録基準:造形の規範となっているもの
6.構造・形式:木造二階建、鉄板葺、建築面積165㎡
8.創造、創始由緒及び沿革:カトリック十和田教会は、昭和7(1932)年に稲生町の現在地に二代目の教会として新たに建設された。前身は大正2(1913)年に建設された三本木教会である。昭和30(1955)年には当時の三本木町が十和田市と改称するのに伴い、当時の名称であった三本木カトリック教会からカトリック十和田教会へと改めた。昭和39(1964)年には教会堂を曳家により南東へ数メートル移築し、その後補修等を行い現在に至っている。
9.特徴・評価:戦前に日本に16年滞在し、学校や宗教施設などの多くの建築設計を行ったスイス人のマックス・ヒンデルが設計した木造教会であり、正面の切妻屋根に鐘楼を戴き、切妻の玄関を張出し、外壁下見板張にアーチ窓を配する。内部は三廊式で側廊上部を回廊とし、身廊両側に円柱を並べて柱頭飾を載せ、連続アーチを架ける。西洋のロマネスク様式を模している。市街のランドマークとなる清楚な教会建築である。以上の理由から「造形の規範となっているもの」という基準により登録文化財として評価された。所有者カトリック仙台司教区。平成28年9月十和田市教育委員会。
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カトリック十和田教会の歩み。
明治17(1884)…フォリー神父により最初の洗礼式が行われる。
昭和3年(1928)11月19日…聖テレジア幼稚園創立。
昭和7年(1932)8月4日…教会堂・司祭館・幼稚園新築落成式。
昭和33年(1958)…三本木カトリック教会をカトリック十和田教会に、聖テレジア幼稚園を十和田カトリック幼稚園に改称。
昭和53年(1980)…十和田カトリック幼稚園創立50周年。
昭和59年(1984)…カトリック十和田教会創立100周年。
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建物内部。
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天地創造
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神に背くアダムとエバ
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人類の堕落と希望
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アブラハムへの三つの約束
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民を約束地へ導くモーゼ
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予言者から予告された救い主
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聖母マリアへのお告げ
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キリストの誕生
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盲人を救うキリスト
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キリストと子供たち
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最後の晩餐
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オリーブ山の祈り
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十字架の道行
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神の憐れみ
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キリストの復活
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約束された聖霊
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信徒館。
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マリア像。
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新舘神社 (東北町)

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南部藩創建、上北八幡宮・七戸新舘八幡宮こと新舘神社。新舘八幡神社流鏑馬は大変有名なもので、昭和41年まで行われていたそう。幕末期に流鏑馬神事に参加する者は当八幡様で禊をし、八戸の櫛引八幡宮に参拝してから乗馬したと伝えます。また、宝暦年間に刻まれた権現様が伝わり、神楽舞も継承されています。なお、青岩寺の仁王像は明治6年に神仏分離によって新舘八幡宮から移したものです。
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正治元年創建。源頼朝の臣、南部光行が藤原征討の功により糠部五郡を加封され三戸に城を築き、三男の三郎朝清を七戸に配置。朝清は正治元年に糠部滝沢から八幡神形を七戸に遷座。当時の名称は七戸八幡宮。以後、歴代七戸藩主の崇敬を受け、数次にわたる社殿修復等の棟札及び古文書等が残されています。徳川時代には、北辺警備の要衝七戸城を巡察する盛岡南部藩主が当神社に奉幣して鎮護の祈願をするのを恒例としており、その歳の古文書及び奉納された武具等が現存しているそうです。明治6年村社。明治14年郷社。明治34年に新嘗祭新穀献納が許されており、新栗が宮内省に献納されました。
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境内案内板より…『●一、創建…当神社の創建は正治元年(西暦1199年)といわれています。南部藩の祖、南部三郎光行が藤原征討の功績により南部地方を鎌倉幕府から許され、その三男南部三郎朝清を七戸に配置した。その朝清が甲州南部庄から、八幡宮を此の地に遷座したのが当神社の創祀とされています。●二、御祭神…御祭神は誉田別尊といわれる第15代応神天皇をおまつりしています。応神天皇は古代日本を全国統一された後、各地を巡り農業、畜産、工業を指導奨励された天皇として知られています。●三、御神徳…農業、産業、畜産の隆盛。商売繁盛、家内安全、交通安全、厄除、安産、病気平癒、学業成就、大願成就。●四、例祭…毎年9月15日例大祭。』
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石灯籠一対(安政3年8月15日)。
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石灯籠一対。
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白石号(昭和7年5月15日建立。生産者白石松太郎)。
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新舘財産區記念碑(昭和40年4月)。
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裏面に新舘財産区の由縁が彫られています。読んでいません。すいません。
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手水舎。
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嘉永元年8月15日。
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狛犬一対。
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紀年銘は安政3年8月15日で、最初の石灯籠と同日です。
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社殿横にも入口があります。
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なかなか趣のある鳥居で、石灯籠も両脇にあります。もしかして元の一之鳥居かな。
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石灯籠一対(文化8年8月15日)。
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征清凱旋紀念碑(明治29年旧8月15日)。
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うん?よく見るとこちらの社殿横の鳥居のちょうど向かいにも、更に社殿らしき建物がありました。むしろそのための入口に感じます。
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裏に回ってみました。
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穴から中を覗いてみると眩しいくらいに輝く観音様や不動明王。
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大変立派なものでした。
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両脇には狛犬までおられます。
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戻りまして…
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社殿横の立派な建物。神楽殿でしょうか。
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社殿。
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向拝神額。
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唐破風。
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唐破風懸魚。
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蟇股。
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木鼻。
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拝殿の脇障子。
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拝殿内。
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色々と奉納されていました。
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本殿。
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本殿裏の森の中にあった鳥居と祠。
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馬頭観音(蒼前様)でしょうか。
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中には愛嬌のある赤い馬。
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その近くにあるイチョウ(天然記念物)。
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『幹周囲9.2m。樹高約30m。樹齢800年(推定)。所有者新館節郎。新舘神社の創建は、鎌倉時代初期正治元年(1199年)と伝えられる。このいちょうは、おそらく天狗杉(現在、町歴史民俗資料館で保存)と同時代に植えられたと思われるが、由来等については定かではない。以前は、気根が大きく垂れさがり「子安いちょう」「乳もらいの木」として母乳不足の婦人達から広く信仰された時代もあった。いちょうは寿命が長く縁起がよいところから「町の木」として指定されている。平成8年11月1日東北町教育委員会』
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近くで見たら結構でかいっ!樹齢800年だもんね。
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七座神社 (能代市二ツ井町)

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大鳥居と大鳥居改修記念碑(創業80周年記念・昭和36年5月)。ここからそこそこ距離があります(歩ける距離です)。
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別名「天神七座神社」「七座山天神宮」。当地方の受験の神様として有名。
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御祭神は國常立尊、國狭槌尊、豊斟渟尊、伊奘諾尊、伊奘冉尊、菅原道眞尊。
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今から約1300年前の斉明天皇4年(658)、阿倍比羅夫が水軍を率い、蝦夷征伐のためこの地まで赴きました。この軍に対し、齶田(アギタ)・渟代(ヌシロ)・肉入籠(シシリコ)の蝦夷は「私たちは弓矢を持っていても決して敵対するものではない。齶田の浦神(七座山天神宮)に誓って申し上げる」と許しを乞いました。首長である恩荷(オガ)のこの言葉に、比羅夫は彼等の降伏を認め、馳走してねぎらい、七座神社には船一艘と五色の綵帛を奉納し、この地域の平和と発展を祈願したと云います(日本書紀)。
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また、天正18年に豊臣秀吉が北條氏を討ち果した際、故あって織田信雄公が秋田に流されました。その時、家臣浜田与衛門が主君のため一心に七座天神宮に祈願してその御加護によって無事帰ることができたと伝えられています。藩主佐竹公もまた、代々七座神社を信奉し、巡国のたびに詣で、掛軸や刀剣類を奉納し、社殿の造営にも多額の募財を献じています。
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天明8年(1788)、古川古松軒は七座神社を訪れ神社の縁起を聞き『東遊雑記』にその内容を記録しており、当時の別当は「斉明天皇が開基で、それ以外に由緒は知らない」と答えたそう。七座神社は七座山を祀っていましたが、古川古松軒はこの態度に「昔は神と言っても、古墳や山や海を祀っていたことは古書に記されているが、今では社などを美々しく建設し仏教を真似て祀っている。昔は明鏡を信仰の対象としていても、今ではそれに納得せず色々飾り物を並べて、不思議を信じるものなのに、この別当の態度は殊勝だ」と書いています。
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大正13年(1924)には、坊沢村の神明社司官の長男で、坊沢小学校校長、水沢小学校校長、宮城県師範学校教諭、陸軍幼年学校教授、帝国女子専門学校主幹等を歴任した嶺脇及多が七座神社の社司となり社殿の建築を行ないました。明治15年県社。例祭日は5月8日。
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手水舎。
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社務所。
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神楽殿。
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石灯篭三対(順に昭和14年5月・昭和33年11月8日・■■4年■月21日)。
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狛犬一対。
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七座神社と米代川を挟んだ対岸には七座山があります。境内から米代川原に通ずる石段を上り下りしての参拝だったのは、阿倍比羅夫が船を繋いだという故事によるものであり、今なおその古ぼけた43段のきだはしは信心の篤い崇敬者の参道となっています。
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七座には三湖伝説が残されており、七座神社の七座山に向かっている鳥居付近から米代川を眺めると、川の中に巨石があり、これが八郎太郎が投げた石だという伝承が残っています。八郎太郎はこの地でダムを造り住んでいましたが、神々が八郎を追い出そうとして白鼠をつかわしたという。鼠は土手に穴を掘り始めたがこの鼠を襲おうと猫たちが集まってきたので、神々は猫をつないでこれを防ぎました。そのため昔はこの地を猫繋といったそう。後に短くなり小繋になったと云います。小繋には禁鼠大明神の祠があり、七座神社で鼠除けの札をわけているのもここからきています。
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七座神社境内林(指定昭和62年4月1日)…『七座神社、斉明天皇4年(658年)阿倍比羅夫の来航やそれ以前の伝承を持つ古社で、祭神は天神七代、のちに菅原道真を祀る。江戸時代には領主佐竹氏の崇敬を受けた。米代川に沿って七座山と相対し、境内にはうっそうとした林が形成されている。この境内林には大木(樹木)類30科48種、草本類39科126種が生育しており、クロビイタヤ、オオメシタモドキ、エゾエノキ、フジカンゾウなど分布上注目すべき植物が含まれているほか、樹齢200年というフジ、樹齢300年以上のオンコ、樹齢500年を超えるケヤキは二ツ井町の古木名木に選ばれている。平地において貴重なものが多いことから、保護すべき文化財であるとして昭和62年4月1日旧二ツ井町の天然記念物に指定された。平成25年10月1日能代市教育委員会』
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境内林の樹木。
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記念碑に立て掛けてあった「三湖物語 八郎太郎伝説の地 七座天神」標柱。
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『十和田湖や鹿角で敗れた八郎太郎は、安住の場をこの地に求め、米代川を堰き止めたが、これに反対する天神様との力くらべに負け、川を下って立ち去った。川を堰き止めた堤は、天神様の使いである白ネズミが穴をあけて破った。このとき猫をつないだ所をコツナギ(小繋)という。』
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不明の石祠。
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七座山石鳥居寄附人名碑。
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こちらは破損した地蔵様…
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ほとんど首なし(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
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忠魂碑。
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慰霊碑(昭和36年3月8日・天神地区遺族一同建立)。
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七座山神社碑。
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大石神社 (弘前市)

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詳細は以前の記事も参照ください。
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案内地図。
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赤倉霊場案内略図。
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大石神社(下宮)からの地図。
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以前は無かった鳥居。
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鳥居の昇龍&降龍。
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平成26年8月5日(旧7月10日)奉納。
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かっこいいですね。
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鳥居を潜って行きます。
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参道両脇には記念碑や石灯篭もたくさんございます。
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一基崩壊していました。
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小さな池。
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水子観世音堂。
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大石神社の湧水。
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大変人気の水ですが、珍しく人がいませんでした。
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瀬織津姫かな。
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龍神御鎮座所と大石川。
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川の水がありませんでした。
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近くにあった石。
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面白い形をしていますが何なのかは不明。
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社殿。
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社殿前に色々あります。
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古い石灯篭や扇形の手水鉢。
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こちらの観音像の石版には「教岳院台丸谷教全」とあります。
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こちらは馬頭観世音でしょうか。馬に跨っています。
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狛犬一対。
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台座…『須藤三右エ門』『慶應元年七月十日』
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台座より…『この「こまいぬ」は、二代目須藤三右門が孫衛士が生まれた時病弱な為、無病息災を祈願して慶応元年旧七月十日に奉納したものである。右の通り証明し奉納する。平成九年八月十二日(旧七月十日)(1997年)六代須藤賢一70才・七代長男公基49才・八大公輔22才。参考[系図](生年月日)初代須藤山三郎(不明)・二代三右門(文政14年8月15日)・三代代次郎(天保12年4月7日)・四代衛士(慶応元年5月5日)・五代昌義(明治29年3月31日)・六代賢一(昭和2年4月28日)・七代公基(昭和23年10月25日)・八代公輔(昭和50年9月19日)以上』
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向拝下。
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絵馬。
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拝殿にはたくさんの絵馬が奉納されており、子授け安産の神、縁結びの神、農耕神や牛馬の守護神、竜神、水神としても信仰されており、住民の生活に密接に関わってきたと考えられます。
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社殿横の建物。額束の紀年銘は昭和39年8月9日。
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社殿横にあるたくさんの厩。
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この馬に乗って淡島神(女性に関するあらゆることに霊験のある神)がやってくるのでしょう。
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本殿。
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本殿前狛犬一対。ピントずれてる。
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昭和59年度厄年者による奉納。紀年銘は同年4月3日。
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石造の獅子頭(4月8日)。
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本殿裏手にある磐座。千曳岩。千引大明神。古事記では黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂といい、葦原中国と繋がっているとされるます。伊邪那岐命は亡くなった妻の伊邪那美命を追ってこの道を通り、黄泉国に入ります。変わり果てた伊邪那美命の姿を目撃した伊邪那岐命が、黄泉国から逃げ帰る場面において、追いすがる妻や手下の黄泉の醜女たちを退けるため、最後に黄泉路を塞いだ大石を道反大神といいますが、この大石は千人の力でしか動かせない千曳岩であり、これをもって悪霊の出入りを禁じました。このことから大石神社(千曳岩)は霊界である赤倉の入口、岩木山登拝口の赤倉山霊界に鎮座した境界石(番人石)とも捉えることができそうです。
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本殿横の石祠。
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御神木の五本杉。
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何やら不思議な形をした松があります。
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行ってみましょう。
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一本の枝だけが不思議な形をしております。金精神…いや、不思議な形の枝です!
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枝の周囲には毛のように枯木が絡まり、枝の下には銀の鈴が二つ付けられています。この二つの鈴を鳴らしてお参りするようです。
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どの角度から見ても不思議な形をしています。
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木の下には不思議な形をした賽銭箱もあります。
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紀年銘は平成24年旧7月10日です。
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大石神社からの眺望。
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赤倉大神神社 (弘前市高杉)

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弘前市高杉牧野に鎮座。
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赤倉信仰については説明を省略します。
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社殿内。
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鳥居の扁額(平成7年旧9月19日・信者一同敬白)。
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社号標「赤倉大神」(昭和15年旧12月19日)。
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社号標「山神大神」(皇軍武運長久祈願・昭和15年旧12月19日・東目屋村三上耕一)。
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初代神女「小野サト」。
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二十三夜塚(昭和32年旧3月19日)・石灯篭(昭和15年旧12月19日)。
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庚申塚(昭和21年旧9月18日)・石灯篭(昭和15年旧12月19日)。
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庚申塚(昭和22年旧3月19日)。
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狛犬一対(昭和15年旧12月19日・皇紀2600年記念)。
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