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切田八幡神社 (十和田市)

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社号標裏面紀年銘(平成27年9月15日・願主氣田憲二)。
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二十三夜塔と三社託宣の碑。
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石灯籠一対(大正11年9月15日)。
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参道と鳥居。
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石灯籠一対(昭和12年3月5日)。
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切田八幡神社(境内案内板より)…『十和田市大字切田鎮座。御祭神:誉田別命(應神天皇)。例祭:9月15日。由緒:建久2年に南部光行公奥州下向に際し八幡宮を勧請諸所の崇拝を経て此地に鎮座せりと傳承する。後伊豆伊東氏の一族伊勢親安なる者由縁ありて切田上館に住し地名を冠して切田氏と改め別に氣田氏とも稱せしが彈正の時に至りて南部第13代守行公に随従武功高く切田中館に居住大に神社を恢弘する。神樂もささやかながら創建當時のものといわれる。切田神樂が年代の久しき時に盛衰あり一時大に衰退の兆あり天保年間南部小鳥谷の舞太夫松之助なるものを招き滞留数ヶ年殆ど切田の村民と斉しき生活を營みつつ神樂を傳うること実に七十五番各曲目の拍子舞様其の他悉く切田の村民に授けたり。昭和31年5月14日 南部切田神樂 五曲番 五方權現舞 三番叟 鳥舞 山神舞 女舞機織 県技芸の指定即ち青森県無形文化財第一号の指定を受ける。』
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慶応3年(1867)切田大火の際に八幡宮別当良善院宅類焼の厄に遭い、由緒縁起等一切の文献記録を焼失。昭和35年社殿建築。なお、神社の近くには切田館跡(上館遺跡・「鬼弾正」「鬼気田」の異名をとる気田弾正の居館跡)が残されています。
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三頭木。
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石灯籠一対(平成3年9月15日)。
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狛犬一対(明治39年8月15日)。
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石灯籠一対(大正6年9月15日)。
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見返り狛犬(昭和4年旧10月15日)。
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狛犬一対(昭和60年9月15日)。
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末社の不動尊。
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末社。
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社名は…う~ん…見えず。かつてはたくさんの末社があったようで、十和田市史か何かにすべて載っていたと思います。また、末社として1つは不動明王、1つは明神と書かれていた気がします。
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手水石。
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末社の八幡宮。
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末社八幡宮の両脇にあった石塔。状態はいいのですが立て掛けてあるため読めず。「享和二戌歳」「奉納八幡宮願主氣田親藏」「八月吉日別当良善院」などの文字が見えました。
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手水石。
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お待たせしました。
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切田八幡神社!
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かっこいいよね。屋上に櫓状の祠(2間4面)を設けており、主神がここから領内を見守り、加護を垂れるための場所とされています。
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向拝。
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拝殿内。
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本殿。
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本殿脇障子。
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瀧泉寺 ・ 目黒不動尊 ~其之壱 (東京都目黒区)

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目黒は江戸のリゾート!ってことで、目黒不動商店街を通って目黒不動尊(天台宗泰叡山護國院瀧泉寺)を目指します。
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乗り物はこれです。
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仁王門前。
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伏見稲荷大神。
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有名な比翼塚。
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その前の石碑には「新東京名勝選外十六景 目黒不動」とあります。
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『傾城に眞こと無いとは誰が云うた まことありやこそ今が世に目黒にのこる比翼塚』 
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権八・小紫の悲話伝える比翼塚…『処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲話は“後追い心中”として歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は、二人の来世での幸せを祈り建てられたという。』
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三福堂へ。
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池があり、橋を渡ります。
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池と茶屋。
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福銭洗い(金明湧水)。『三福神にお参りしてから、ご縁に導かれますように洗うお金に五円玉を添えて一緒に洗ってください。』
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江戸最初山手七福神(恵比壽神)。
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恵比寿神・弁財天・大黒天の三福神を筆頭に七福神すべてを祀ります。
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豊川稲荷神社(豊川枳尼真天)。商売繁盛の御神徳。
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福壽稲荷神社。開運招福・福徳円満。
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三福堂前にある野村宗十郎銅像。
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『君諱宗十郎安政四年五月四日出于長崎薩摩屋敷服部氏出嗣堅邦民少入新街新塾受活版術于昌造本木翁明治六年入東京大學予備門目病退十二年任大蔵省銀行局員尋轉主計局二十二年辞官入築地活版製造所四十年奉社長君之在社也晨起夜寐看社務遊千技嘗創九波回活字問諳収巽酉大阪博覧會九波因行乎巫于払也大正二年官賜藍綬褒章賞馬受又慨活字常軆紛乳如決決諮衆家出又省略點劃弘論評可讀不可讀其効力両啻於活版術也経任国語調査会委員焉十二年翕関東地震災起活版所帰烏有氏日夜黽勉圖厥復興胡兀兀天不假年俄然病歿大正十四年四月二十三日也特旨叙正七位 文学博士遠藤隆吉記 昭和五年六月互浣 堀進二作像 亀田雲鵬書』※自信ありません。間違っているかと思います。
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再び仁王門前へ。
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瀧泉寺(目黒不動尊)…『天台宗泰叡山龍泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。その昔、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。平成21年3月目黒区教育委員会』
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目黒不動と門前町…『「お不動さん」の名で親しまれる目黒不動。大同3年(808)、慈覚大師の創建と伝えられるが、寺が隆盛を極めるのは江戸時代に入ってから。3代将軍・家光以来、徳川幕府の厚い庇護を受け、荘厳華麗な大寺院に生まれ変わった。また周辺は門前町として発展。目黒名物の飴や餅を売る店が軒を連ね、活況を呈した。目黒不動には「独鈷の滝」「鷹居の松」など、慈覚と家光の2人に因んだ伝説や挿話も多く、興味が尽きない。』
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目黒不動堂(江戸名所図会より)。
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目黒行人坂富士(廣重筆・江戸自慢三十六点より)。
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仁王門。
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狛犬一対(平成11年)。
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石灯篭一対(東京日信講中・仁王門落慶記念)。
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仁王門は3間1戸の朱塗りの楼門。昭和37年(1962)再建の鉄筋コンクリート造。階上には韋駄天を祀ります。
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仁王像。開口(阿)那羅延金剛・閉口(吽)密迹金剛。
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『●仁王尊像の由来…第二次世界大戦の戦火は、目黒にも及び、昭和20年5月24日、目黒不動尊は、その一部の建物を残して灰塵に帰した。戦後の復興は、まず本堂の再建にはじまり、25年いちはやくその完成をみた。次は、由緒正しき仁王門ということになった。29年、ふるくから和菓子司として知られていた当地玉川屋主人小川雄一氏りよ女夫妻は、すすんで仁王尊像の寄進を青木大僧上に申しいで、その制作を、当時本邦木彫界の雄として知られていた後藤良氏に依嘱した。後藤氏はこれを快諾すると同時に、これによって昭和の男性美を永久に留めたいと考えて、モデルとして窪田登氏を選んだ。ことは順調に進み、高弟綿引司郎氏の協力をえて、32年早春三尺の原型が完成した。それと同時に、後藤氏は76才の生涯を突如として閉じたのであった。原型から木に写す作業は、綿引氏・門伝正征氏・吉田暁未氏の協力によって行われ、35年8月26日めでたく完成、のみ納め式が行われた。仁王門の完成をまって、36年4月2日落慶式が行われた。その前夜後藤夫人イク女は、重荷をおろしたかのように急逝したのであった。●狛犬の由来…この狛犬も後藤良氏の作品である。生前制作された石膏の原型は、転々ところをかえ、そのたびに破損していった。後藤氏の令孫安原喜武氏は、彫刻家としてこれを坐視するにしのびず、自らのアトリエに引きとって修理を行っていた。これを知った玉川屋の令息小川一隆氏らく女夫妻は、本年4月逝去した母堂りよ女の菩提をとむらうため、その寄進を吉田貫主に申しでた。53年7月2日その落慶式が行われたのである。昭和53年7月5日世話人代表亀谷了謹記』
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仁王門の狛犬一対(昭和53年)。
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手水舎。
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トイレ前のうすさま明王。台座には「棄貪瞋痴」。烏枢沙摩明王は炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰もあり、トイレと関連する不動明王です。トイレの神様。
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交通安全祈祷殿。
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交通安全のお不動さまを祀ります。
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鈴木久太夫碑(大日本農會會頭大勲位能久親王篆額)。種子土囲法を考案し、農器具を改良。農商務省の嘱託となり西洋種穀物や野菜を試作栽培した人。
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甘藷まつり開催中。甘藷先生と称された江戸時代の蘭学者である青木昆陽の墓が目黒不動の一角にあり、日本で初めて甘藷を栽培した昆陽の遺徳を偲んで毎年10月28日に開催。祭り当日は甘藷先生の墓前にサツマイモや花が供えられ、境内には露店が軒を連ね、懐かしい味わいの大学イモ等を頬張りながら歩く若い女性など多くの参詣人で賑わいます。
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阿弥陀堂。
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阿弥陀三尊(観音・勢至・阿弥陀)を祀っていました。
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観音堂。江戸三十三観音霊場の結願札所。聖観音・千手観音・十一面観音を祀っています。
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地蔵堂。地蔵尊(無仏時代の救世仏、女性や子供を守る)。
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春洞西川先生碑。西川春洞(弘化4年5月25日-大正4年8月10日)。江戸生まれの書家で明治、大正にかけて活躍。
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刷毛筆供養塚。
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精霊堂。
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西の河原地蔵菩薩和讃…『帰命 頂礼 地蔵尊 物の哀れのその中に西の河原の物がたり身に心の耐えがたき十より内の幼な子が広き河原に集まりて父を尋ねて立まわり母をこがれて歎ぬる余りの心の悲しさに石を集めて塔を組む一つ積んでは父を呼び二つ積んでは母恋し乳房を与え給えかし一口飲まば歎くまじ東に西に駆けまわり声を張上げ悶えても親と答うる声もなし暫し泣き居る有様を地蔵菩薩は御覧じて今より後は我を皆父とも母とも思べしわれもわれもと集りて大悲の仏に縋る子を抱え給うぞ有り難き』
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閻魔王像と奪衣婆像(葬頭河の婆)。
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Happy New Year

瀧泉寺 ・ 目黒不動尊 ~其之弐 (東京都目黒区)

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鈴懸の木(プラタナス)。
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宝篋印塔。
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御神木と馬頭観世音(大正9年)。
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薬師如来坐像。
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これ系は読めません(笑)
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三界萬霊塔。欲界・色界・無色界の精霊を供養します。
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北向六地蔵。地蔵菩薩の浄土「伽羅陀山」は南方にあり、南を向いて地蔵菩薩を祈れば、直ちに浄土を発し我々のいる北に向かって救いに来てくださるので北を向いています。
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北一輝先生碑・千家華塚。北一輝先生碑…『歴史は北一輝君を革命家として傳へるてあらう然し革命とは順逆不二の法門その理論は不立文字なりとせる北君は決して世の常の革命家てはない君の後半生二十有餘年は法華経誦持の宗教生活てあつたすてに幼少より煥發せる豊麗多彩なる諸の才能を深く内に封して唯た大音聲の讀經によつて一心不乱に慈悲折伏の本願成就を念し専ら其門を叩く一個半個の説得に心を籠めた北君は尋常人間界の縄墨を超越して佛魔一如の世界を融通無礙に往來して居たのてその文章も説話も総て精神全體の渾然たる表現てあつたそれ故に之を聴く者は魂の全體を擧けて共鳴したかくして北君は生前も死後も一貫して正に不朽てあらう昭和33年8月大川周明撰 玄林武田梅書』
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北一輝先生…『この碑は北一輝先生の顕彰碑で大川周明氏の文によるものです。先生は明治16年、佐渡ヶ島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代中国に渡り、中国革命を援助し又日本改造論を叫び、国家主義の頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟し多くの信奉者を得た。時適々満州事変前後より先生の思想はファシスト化し、遂に2・26事件を惹起する要因になった。勿論直接行動には参加しなかったが、首謀者として昭和12年銃殺刑に処せられた。然し先生の生涯をさゝえたものは奇くも法華経の信仰であったことは有名である。毎年8月19日の祥月命日には今も尚全国の有志が追悼法要を厳修している。当山』
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目黒不動尊の西側には三折坂があります。
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がっつり工事中だったので上るのはやめました。
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三折坂…『三つに折れ曲った形状から三折坂とよばれるようになった。また、目黒不動への参詣者が、この坂を降りていくので、「御降坂」とよんだともいわれる。』
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腰立不動(山不動)。
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立身出世のお不動様。
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腰立不動由来…『山不動。妙なる力におこされて 二度世に立不動尊 かめの祝の末広く 朝日ののぼるみごとさで 東都のつどい善男女 すくいとらすぞ妙なる力 昭和32年12月15日』
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本居長世の碑(十五夜お月さん楽譜)。
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『童謡は第一流の詩人が子供のために詩を書き第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本の児童文化財です。本居長世は音楽学校で中山晋平、弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送りました。ことに大正9年、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられました。本居はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜この寺の境内を散歩しながら想を練ったことでしょう。今ここに氏の曲の碑を建てて、氏の功績を記念したいと思います。本居長世を慕う会 童謡の里めぐろ保存会』
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宝篋印塔。
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勢至堂。
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宝形造の小堂。江戸時代中期の建築で、目黒区の有形文化財に指定。
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手水石。
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瀧泉寺勢至堂(区指定文化財・昭和59年3月31日指定・下目黒3-20-26)…『龍泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の龍泉寺の面影を残しています。向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立からそれほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが、昭和44年に行われた前不動堂の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、龍泉寺境内の優れた景観を形成しています。平成21年3月目黒区教育委員会』
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甘藷講碑と甘昆陽青木先生碑銘。
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『錦■(奚+隹)間祗候正三位勲一等男爵辻新次篆額 我邦洋学之盛実創于昆陽青木先生矣先生学在経済其開洋学植蕃藷皆出於開物成務之意云先生諱敦書字厚甫通称文蔵昆陽其号源姓青木氏其先摂州多田祠官飯倉権守末国後子孫住州之伝法村為農考諱末友称半右衛門移于江戸日本橋小田原街開魚肆称佃屋娶医村上宗伯女以元禄十一年五月十二日誕先生先生幼而好学後往京師受業東涯伊藤先生主躬行実践不屑詞章学成帰江戸下帷八町堀授徒享保十一年十月末友君病歿服喪三年越十五年十月村上氏亦病歿復服喪三年方考妣之在病也先生奉養看護無所不至其居喪自禁酒肉旦夕食粥人皆感其至孝家在町奉行与力加藤枝直邸内枝直視先生篤行具状町奉行大岡忠相忠相問先生所志先是先生以為官宥罪囚竄海島者在今保天寿而島中乏穀往往餓死若植蕃藷則可以救之因求其種子試植之下総馬加村且著蕃藷考示其培法効用至是出其書以呈町奉行供之大将軍之覧乃有命求蕃藷種於薩州植之小石川薬園使先生培養且官梓行其書并種子頒之伊豆七島八丈島佐渡島及諸州我邦殖蕃藷実始于此時享保二十年也忠相知先生可用命為司書吏且請特許覧官庫之書元文四年三月始挙賜俸十人口延享四年七月任評定所儒者賜廩米百五十苞為世禄明和四年二月昇任書物奉行初寛永中幕府厳禁舶齎洋書享保五年解禁当先生閲官庫書見中有和蘭書意謂得読之則必益於世方此時大将軍長天文之学一日覧和蘭天文図精緻曰図既如此其書之精妙可知侍臣啓曰青木文蔵嘗欲学之於是命先生攻和蘭書実寛保元年也和蘭甲必丹毎年従長崎来謁大将軍先生就其寓学延享元年遂往長崎就和蘭人刻苦学修長崎有和蘭象胥亦禁読其書聞先生受特命亦就請先生稟之幕府命許之象胥之得読洋書亦始于此先生東帰之後将大開洋学不幸会大将軍薨忠相亦逝然尚就甲必丹兀兀匪懈著和蘭文字略考和蘭話訳文訳等時有中津藩医前野良沢聞先生通和蘭書来学先生挙其所得悉授之時明和六年也而其十月十二日病歿年七十二有一女養幕府臣川口氏子三郎左衛門為嗣配以女七世孫泰吉今住静岡初元文寛保之間先生奉命巡歴武相甲信豆遠参七州採収民間遺書七十九部献之先生別所著経済纂要官職略記刑法国字訳国家食貨略国家金銀銭譜昆陽漫録草廬雑談等廿五部皆写献之官亦可以見其経済与博識矣先生墓在武州目黒不動堂背後小邱題曰甘藷先生墓都下販甘藷者結社修理数次馬加村民亦祠祀先生嗚呼先生欧学首唱之功終致今日邦家之隆運而其経世済時之効亦可謂■(門+雄の左)且遠矣明治四十年十一月十五日 朝廷褒先生功特贈正四位於是有志者胥謀将建碑於目黒不動堂前嘱銘文彦文彦王父玄沢実承先生学統者因謹録事蹟係銘曰 先生之学 躬践実施 志之所在 経世済時 始植蕃藷 覃施全国 流人不飢 貧民足食 慧眼一瞥 知欧学要 開鑿混沌 ■(足+流の右)通七竅 英俊継起 研鑽拡張 学術治法 煥乎発光 朝命贈位 名溢海宇 創業垂統 沢流千古 明治四十四年十月帝国学士院会員文学博士大槻文彦撰 錦■(奚+隹)間祗候正三位勲一等男爵野邨素介書』
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無事蛙。
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前不動堂へ。
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手水舎。
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狛犬。
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和犬系。
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社号標。
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独鈷の滝の左方にある宝形造朱塗りの小堂。江戸時代中期の建築で、東京都の有形文化財に指定。御本尊の写しを安置しており、将軍や大名などがお参りに来た時にでも庶民が参拝できるようになっています。
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瀧泉寺前不動堂(東京都指定有形文化財・昭和41年3月31日)…『泰叡山滝泉寺は、通称「目黒不動尊」と呼ばれており、大同3年(808)、慈覚大師円仁の創建と伝えられる天台宗の寺院です。境内にある前不動堂は、江戸時代中期の建築になり、「江戸名所図会」にも、現在地付近に「前不動」として図示されています。前不動堂は、滝泉寺本堂手前の男階段左下にある、独鈷の滝の左崖下に建立され、堂内には木造不動明王三尊立像等を安置してあります。江戸時代中期の仏堂建築として、比較的良く往時の姿を保っています。建造物と併せて、扁額「前不動」も附として指定されています。この扁額には「佐玄龍書」の署名があり、堂建立当時のものと推測されています。筆者の佐々木玄龍は、通称万二郎、池庵を号していました。慶安3年(1650)、江戸に生まれ、書風一家をなし、享保7年(1772)に亡くなり、墓標は青山霊園にあります。平成22年3月建設 東京都教育委員会』
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垢離堂。
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青竜大権現を祀ります。
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狛犬。
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独鈷の滝…『このお滝は今を去る1200年程前、当山をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したので之を独鈷の滝と名付けられた。それより今日迄どんなに旱天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。今日都内では大変珍しい名所である。』
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独鈷の滝。
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本堂へと登る石段下の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されています。この寺名の由来となった境内の独鈷の滝を浴びると病気が治癒するとの信仰があります。
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養老孝子像。
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池の向こうの斜面に不動明王や個性的な狛犬など、色々と置かれています。その中に、阿形はきちんと残されていますが、頭部のない吽形の狛犬があります。この頭部は行人坂の大円寺にあります。ちなみに男坂上の狛犬と同様に都内最古(承応3年)の狛犬になります。
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手水舎(天明8年・瀑場敷石・永代講中)。
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水かけ不動。
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『當山の開基は天台座主第三祖慈覚大師圓仁で、一千二百有余年前の大同3年(808)大師自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。天安2年、大師が法具 「獨鈷」を投じて堂宇造営の敷地を卜されたところ、泉が忽ち湧出。涸れることのないその瀧泉は「獨鈷の瀧」と称されました。大師はお堂の棟札に、「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と認め「瀧泉寺」と号され、「泰睿」の勅願を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花、夏瀧しぶき、秋紅葉、冬積もる雪と、関東最古の不動霊場は四季折折の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらします。「獨鈷の瀧」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩摩藩主島津斉彬公の當病平癒を祈願されました。「目黒不動尊御詠歌…清らけき 目黒の杜の獨鈷瀧 災厄難を除ける不動尊」。ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され、より清らかな心と身で目黒のお不動さまに参詣できることとなりました。合掌礼拝して「獨鈷の瀧」の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成就のご縁をお結びください。平成8年5月吉日目黒不動尊別當泰叡山瀧泉寺』
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瀧泉寺 ・ 目黒不動尊 ~其之参 (東京都目黒区)

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参道にはたくさんの石灯篭があります。その中で一際大きい石灯篭一対。
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狛犬(和犬系)一対。
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文久2年正月。
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男坂。
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男坂向かって左にいる狛犬。
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男坂下の酉(鶏とヒヨコ)。
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石蛙。
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男坂下の松(鷹居の松の何代か後のもの)。
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鷹居の松跡…『江戸幕府3代将軍徳川家光が寛永(1624-1644)の頃、目黒不動尊の近くで狩猟中に愛鷹が行方不明になりました。家光が目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまち境内の大きな松の枝に飛び戻ってきました。このことに家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と命名したといわれています。これ以後、家光は不動尊を深く信仰するようになり、火災によって焼失していた目黒不動尊の堂塔を次々と再建させ、寛永11年(1634)には諸堂末寺等を併せて50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。幕府の保護を受けて以来、歴代将軍が目黒不動尊へ参詣するようになると江戸庶民にも不動信仰が広がり、目黒不動尊は江戸近郊の有名な行楽地の一つとなり大変にぎわいました。尚、現在の松は「鷹居の松」の話から何代か後のものになります。平成21年3月目黒区教育委員会』
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女坂。
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女坂下にある鯱手水舎(※この湧水は飲料不適です)。
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銅造役行者倚像(神変大菩薩)。
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女坂にあります。
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銅造役行者倚像(区指定文化財・昭和59年3月31日指定)…『役の行者(役小角ともいう)は奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖として崇拝されている人物です。この像は寛政8年(1796)の作で、総高142.2cm、坐高92.7cmです。やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもとても巧みで江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品の一つです。表面は黒光りしており、これは鋳工の間でカラス銅と称される銅色です。頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖を、左手には巻子を持っています。また、像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や、神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることがわかります。平成21年3月目黒区教育委員会』
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宝剣塔(不動剣・城南講)。
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緑色の狛犬一対。
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目黒不動尊100回参拝記念碑(城南講)。
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力石。
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男坂上の百度石。
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大本堂前(男坂上)の狛犬一対。都内最古の狛犬。
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前回の記事で書いた独鈷の滝付近に安置されている狛犬と酷似するものです。
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胸部には「奉献 不動尊霊前 唐獅子二匹」、右前足に「亀岡久兵衛正俊」左前足に「承應三甲午三月廿二日」と彫られています。
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手水舎。
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青銅灯篭(第一區筒先)。
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火消の纏付。
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大本堂前石灯篭一対(寶暦3年正月吉祥日)。
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大本堂。
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入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂。昭和56年再建の鉄筋コンクリート造建築。
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傾斜地に建っているため、室生寺金堂や石山寺本堂のような懸造風の造りになっています。
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天井には日本画家、川端龍子の「波涛龍図」が描かれています。
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瀧泉寺は関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動の一つに上げられます。江戸三大不動・江戸五色不動・関東三十六不動霊場札所・江戸三十三観音霊場結願札所・山手七福神札所。御本尊は目黒不動明王(秘仏)。御本尊は12年に1度(酉年)御開帳。
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大同3年(西暦808)円仁(後の天台座主第三祖)が師の広智阿闍梨に伴われ、下野国から比叡山に赴く途中に目黒に立ち寄り、その夜の夢中にて、面色青黒く、右手に降魔の剣を提げ、左手に縛の縄を持ち、とても恐ろしい形相をした神人が枕の上に立ち現れ、「我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思うなり。来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん」と告げ、夢覚めた後その尊容を黙想し、自ら彫刻した不動明王を安置して創建。貞観2年(860)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、山号を泰叡山としました。元和元年(1615)本堂が火災で焼失。寛永7年(1630)寛永寺の子院護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子である生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受け、寛永11年(1634)50棟余におよぶ伽藍が復興し、目黒御殿と称されるほど華麗を極めました。文化9年(1812)には江戸の三富と呼ばれた富くじが行われました。富くじ興行は天保13年(1842)の天保の改革により中止。
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江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、江戸名所図会にも描かれています。門前町の名物として、当時目黒の名産品であった竹の子(江戸後期に薩摩藩より移植したものが商品作物として普及)を使った竹の子飯と棒状に伸ばした練飴(白玉飴)を包丁でトントン切っていく目黒飴が人気でした。また、餅花という細い竹にしんこ餅を付けた物や粟餅などもあったといいます。ちなみに落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台だとされています。明治時代になると西郷隆盛や東郷元帥等が篤い信仰を寄せられて祈願に訪れています。
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大本堂の裏へ。
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大日如来(不動明王の本地仏)。
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胎蔵界大日如来光背覆屋二十八宿図荘厳…『平成22年の大日如来像保存修復に続き、翌年には覆屋を復興し、光背を新設いたしました。雨水や落葉等から如来像を守る覆屋は、四方から礼拝できる開放的な建物です。屋根はアルミ鋳物を採用して軽量化の上、Vプロセス鋳造法により自然な曲面を持たせ、内側の梁には旋盤削出し銅材溶着、金色塗装にて描写した、二十八宿図が輝きます。光背はアルミ鋳物に金箔を押し、背後から光を取入れ、大いなる日輪を表現しました(清水建設株式会社)。大宇宙のほとけである大日如来の頭上に描かれた「二十八宿図」は、太陽・月・星の位置と動きを表し、生活の上では天文学、暦、占星術に古来より密接に関係します。西洋の星座(黄道十二星座)は、太陽の通り道(黄道)を十二箇月かけて通ります。それに対して「二十八宿」は、月の通り道(白道)に二十八の星座を作り、月が一日に一つ、この星の宿、星宿を訪ねて天空を旅します。また四方は七宿ごとにまとめられ、東方青龍、北方玄武、西方白虎、南方朱雀の四神に見たてられました。平成23年3月瀧泉寺』
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銅造大日如来坐像(区指定文化財・昭和59年3月31日指定)…『蓮華座に結跏趺坐しているこの坐像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られています。総高385cm、座高281.5cm、頭長は121cmで、体躯にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躯も衣文表現もよく整っています。現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の「目黒不動堂」の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧侶の歴名が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名が見えることから、大衆による造像だったことがうかがえます。また、刻銘から制作年の天和3年(1683)と、制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。平成21年3月目黒区教育委員会』
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大日如来遷座供養碑。
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持国天(東方の守護神)。
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多聞天(北方の守護神)。
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廣目天(西方の守護神)。
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増長天(南方の守護神)。
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地主神。
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大本堂前の鐘楼堂(鐘楼・梵鐘は昭和40年製)。朝6時、夕6時に時を告げます(大晦日は一般開放されます)。
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八大童子の山。不動明王、矜羯羅童子、制多迦童子、淨童子、慧光童子、制多迦童子、阿耨逹多童子、慧光童子、慧喜童子、阿耨達童子、指徳童子、烏倶婆伽童子、清浄比丘。
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八大童子の山前の狛犬一対と石灯篭。
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子守延命地蔵尊。
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本海・山海・暁海の木食三上人が願主となって鋳造。
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虚空蔵菩薩。智慧の佛。
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護衛不動尊。
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厄難消除・方災消除。
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石灯篭。
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微笑観世音菩薩。
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狛犬一対。一対ですが、1基は新しいもので、もう1基は天保11年。
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不動明王(天下泰平・日月清明、綿職講中)。
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意思不動尊。
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不動三尊です。両脇に馬頭観音と太郎坊・次郎坊(八天狗)石塔もあります。
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愛染明王。良縁成就。
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愛染明王の台座前で絵馬を両手にはさみ胸元で合掌し、男反時計回り、女は時計回りに心鎮めて回り、愛染明王前に戻ったら一礼して絵馬掛けに絵馬を奉納します。
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大鳥神社 (東京都目黒区)

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目黒総鎮守大鳥神社。
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手水舎。
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社殿。
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現在の社殿は昭和37年に完成したもの。
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土砂降りの中の参拝(笑)
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拝殿向拝下。扁額には「武州大鳥宮」とあります。
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拝殿から見た境内。
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本殿。
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大鳥神社由緒…『●主祭神:日本武尊(景行天皇の皇子で、熊襲討伐、東国の蝦夷を平定。)、相殿神:国常立尊(日本の国開きの神様)、弟橘媛命(日本武尊の妃)。●御由緒:例祭9月9日に近い日曜日。景行天皇の御代(71-130)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、東国の蝦夷を平定しました。この東夷征伐の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣で、現在当社の社宝となっております。東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て薨ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原、河内の舊市邑に留り、その後、天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い。鳥明神として祀る」とあり、大同元年(806)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳の紋を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。●酉の市(八つ頭と熊手の由来):当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年11月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討ちに遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから古来より、「八つ頭」は人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁盛開運招福の神様として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。』
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区内最古の大鳥神社…『江戸期には目黒不動、金比羅権現と並び"目黒の三社様"といわれた。天保の頃から伝わる太々神楽「剣の舞」「熊手の舞」は華麗で荘厳。毎年11月には酉の市が立つ。』
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大鳥神社…『この神社は、日本武尊の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806)創建された区内最古の神社です。江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に書かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもありました。祭神は日本武尊を主神とし国常立尊と弟橘媛命を合祀しています。毎年11月に開かれる酉の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在も都内では有数の賑いをみせています。この市のいわれは日本書紀に「十月己酉に日本武尊を遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊の出発日が酉の日であったことから、おこったと伝えられています。毎年9月の例大祭には、目黒通りに大小30余基の町みこしが勢揃いします。それとともに社殿では「太々神楽・剣の舞」が奉納されます。11月の酉の市には、「太々神楽・熊手の舞」が神前で舞われます。境内には、東京都の天然記念物に指定された「オオアカガシ」の老木や三猿だけの延宝塔、元禄時代(1688-1703)や宝永年間(1704-1710)の屋根付庚申塔など5基の石造物もあります。また、俗に切支丹燈籠といわれる「織部式燈籠」や、天保6年(1835)の酉の市に神楽を奉納した祈念碑などもあります。平成7年3月目黒区教育委員会』
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狛犬一対(大正5年9月吉日・溝口石工内藤慶雲)。
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神楽殿。
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社務所。
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授与所。
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脇参道鳥居。
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大鳥神社末社の目黒稲荷神社。
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目黒稲荷神社社殿。
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御祭神と御神徳…『倉稲魂命(福徳円満、商売繁盛、諸病平癒、農業諸産業の神)。素戔嗚尊(災難・疫病避けの神)。火産巣火神(火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く、火防開運の神)。水速女命(祈雨、上雨、子授け、安産、水の神)』
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目黒稲荷神社の横に石塔が並んでいます。
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向かって左から不明の石、驪鳥石(蜀山人書)、三猿だけの延宝塔(延宝3年)、神楽家という石碑、元禄元年の青面金剛、宝永元年の青面金剛、元禄元年の青面金剛。左の2基は力石かも知れません。
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御神木。
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櫛塚。
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「くし塚」由来と参拝のご利益…『日本では古来より「くし」は幸運のシンボルと考えられてきました。日本最古の歴史書「古事記」によると、神祖伊耶那岐命は愛する妻伊耶那美命の死を悲しみ「黄泉国(死の世界)」へ会いに行くと、何と身体は腐って、蛆がたかっているので、「この世」へ逃げ帰ります。暗闇の死の世界から逃げる為に髪に挿していた「竹のくし」を抜いて火をつけ、松明代わりに道を明るく照らし生還されました。又、大鳥神社の御祭神である日本武尊は妻弟橘姫命と東国へ渡る際、浦賀水道で風波が荒くなり海神の怒りを鎮める為、妃は海に身を投げ、身代わりとなった妃の「くし」は浜に流れついて、今も祭られています。「くし」はこのように人生の歩む道を照らし身代わりとなる力を持っています。「くし塚」に御参りをすると開運、無病息災、家内安全が得られます。特に目黒大鳥神社の御祭神は目の病、成人病、糖尿病、ボケにかからない為に、又お苦しみの方々をお救いする神様です。多勢の方々の御参拝をお待ちいたします。平成元年9月4日「くしの日」美容週間実行委員会奉納。』
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切支丹灯籠。
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切支丹灯籠…『下目黒の大鳥神社所蔵で、昭和38年、守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示していたものです。もとは千代が崎(現在の東京都教職員研修センター付近)の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が激しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられます。』
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都天然記念物大鳥神社のオオアカガシ標柱。
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大鳥神社のオオアカガシ(指定昭和38年3月19日・指定解除平成24年3月21日)『大鳥神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく、薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシより太く長く、苞や果実も大きいという特徴からアカガシの変種とみなされました。新変種命名の基準となった本樹は、学術上貴重な樹木として、昭和38年に東京都の天然記念物に指定されました。本樹の枝葉は、現在でもオオアカガシCyclobalnopsis acuta(Thunb.)Oerst.var.megaphylla Hayashi,var.nov.のタイプ標本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。指定時に樹高約16メートル、幹周り1.6メートルあった本樹は、生育環境の変化等により昭和50年代初め頃から樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが、平成14年枯死が確認されました。また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みましたが、成功せず、平成24年に指定解除となりました。ここに説明板を設置し、都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。平成24年3月建設東京都教育委員会』
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こちらはその形状から庚申塔かと思いましたが、よく見たら5種類の観音(3体坐像・2体立像)が線刻されている供養塔でした。紀年銘は寛文6年7月。
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雨がひどいので、すぐ近くにある目黒寄生虫館に行くことにしました。
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がっ!定休日(笑)
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住吉ハリギリ (弘前市高杉)

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住吉町会にある住吉身代地蔵尊。隣には公民館。
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高杉村は大道筋の西浜街道沿いに集落が発達し、昔から交通の要地でした。慶安2年道筋帳によりますと弘前城から1里半で弘前城下のすぐ次の宿継場であり、十腰内村まで3里。また、脇道として三世寺村から当村を抜けて八幡村へ至る道筋もありました。境内にあるハリギリが推定樹齢200年以上であることから、当地蔵尊の歴史もまた古いものと考えられます。
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扁額(昭和47年旧6月24日奉納・弘前市高杉字住吉、小野トスヱ敬白)。
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堂内。
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化粧地蔵です。とても綺麗にされています。
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身代地蔵尊堂の裏に見えるのがハリギリです。
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3本が合体したものとはいえ、とんでもない迫力と存在感でございます。
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どうなってるの?!って感じ(笑)
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そんな疑問が頭を過ぎり…
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誰しもが思わず一周してしまうと思います。
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どこまで枝伸びてんねん!って勢いで横方向にもこんな感じで伸びています。
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反対側も身代地蔵堂の屋根の上を越えて伸びています。管理も大変そうですね。
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ハリギリ(弘前市保存樹木、指定第24号・平成9年7月23日)…『青森県内にはハリギリの大木が多く、津軽地域にも珍しくない。しかし、ここのハリギリは三本が合体していると思われ、全体が極めて壮大で特異な樹形をしており、特に枝張りはハリギリの大木が多い青森県内でも最大級である。樹齢推定200年以上』
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「故江戸相模白瀧岩五郎之碑」(大正4年旧7月15日建立)。
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この近郊にあったものを集めたと思われる庚申塔がたくさんありました。紀年銘については少々読み取り辛いものもありましたが、すべて庚申塔です。
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庚申塔(昭和27年旧9月23日)。
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庚申塔(大正9年3月14日)。
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庚申塔(弘化2年7月朔日)。
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庚申塔(弘化3年)。
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庚申塔(安政2年6月19日)。
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庚申塔(安政4年)。
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庚申塔(慶應4年3月)。
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庚申塔(天保3年7月16日)。
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二十三夜塚(明治33年旧8月23日)。
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庚申塔(昭和55年8月15日)。
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安田水天宮 (青森市細越栄山)

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細越栄山の大きな沼から山道を歩いて行きます。
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入口に案内看板があります(入口前には駐車場もあります)。
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鎮座地は細越栄山ですが安田水天宮。
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雑草なども無く、参道は歩きやすいです。
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あれ?行き止まり!?
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って思ったら、ここから階段を下って行くようです。
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茂みから水の音が聞こえます。
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当湧水はとても古くから親しまれていたもので、昔は「てんがさの神様の水っこ」と呼ばれていました。昔ある殿様がこの湧水の噂を聞いて立ち寄り、水を飲んだ時に「天下一の水だ」と言った言葉が訛化して「てんがさ」となったらしいです。平内や弘前、深浦からも水を求めて訪れる人がいるそうです。
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こちらの祠は水天宮龍神堂・八大龍神とありました。
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昭和18年春、青森市安方在住の辻本菊二郎氏の母(神主)がこの地で修業していた時に竜神様を見て以来、お堂が建てられて水天宮として祀られました。
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水天宮。立派な碑です。
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私たちの名水認定書」(昭和61年3月20日)。
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結構大きめの地蔵様と神像(もしくは観音像)がありました。柵の中にあるので詳しくは見れませんでした。
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記…『ご信仰者の皆様にお知らせ申し上げます。この水天宮様を切り開いたことにつきましてここに記したいと思います。昭和18年春頃・辻本美代先生(元青森市在住)、大谷イマ先生(同青森市古川在住)、小田桐みゑ先生(五所川原市水野尾)、相馬徳蔵様ご夫妻(青森市安田近野)。多くのご信仰者の皆様のご協力によりきれいに整地し、その一角から清い湧水が噴出し神様からのご利益の湧水であることが分かり近辺は勿論のこと遠く深浦方面からも湧水を貰いに来ました。多くの信仰者の声により、水天宮様と諸々のご神体を奉納しご拝殿も皆様のご協力により建設奉納いたしました。その後、何ごともなく過してまいりましたが、平成17年冬の大雪の際運悪くご拝殿が倒壊してしまいました。そこで相談の結果、同年8月14日・15日の2日間にて解体整理をすることになり、当時分る信仰者の方々にご連絡いたしたところ当日は多数ご協力を頂き誠に有難くお礼を申し上げます。1日目は解体の作業を終了し、2日目は地主様のご承諾を受け諸々の神様のご神体を安置所にと取り掛かり、これも皆様のご協力によりまして無事完了いたしました。湧水の検査も異状がないとの事安心してご利用出来ます。新拝殿も完成し、ご協力を頂きました方々には心より厚くお礼申し上げます。平成19年8月吉日』
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花松神社 (七戸町)

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花松神社由緒…『慶長2年の建立で、宝暦年間の御領分社堂に「小川目花村観音堂二間三間本山派別当三光」とあり、寛政年間の「邦内郷村志」に「観音別当秀光十三石五斗給分」とある。当社の前身は観音堂で馬頭観音を祀り祭祀していたが、天明の大飢饉に農耕・食物・家畜の守護神である「保食命」を勧請し合祀したが明治の神仏分離令により、主祭神を保食とし、社名も花松神社と改め現在に至る。近郷には藩政期時代から牧があったため古くから馬頭観音信仰が盛で近郷近在から多くの人々が着飾った馬を曳いて参詣し絵馬を買い求めて奉納したり、買い求めた絵馬を御神前で神職に御祈祷してもらい、その絵馬を家畜の小屋の神棚に奉納し前年の絵馬は神社に奉納する風習がある(七戸の見町観音の南部小絵馬とは異なる形式のものである)。当社の社頭に「細枝四垂」(ほそえだしただれ)する美しい松があったと云われ、明治の初期頃までは絵馬舎(四尺四方)もあったと云う。又、一説によると、南北朝時代、南朝の長慶天皇(正平23年~弘和2年・1368~1382)が、この地に潜行され、北の牧の守護神として馬頭観音を勧請、堂舎を建立したのが当社の創始とも云われる。』
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お知らせ(注:2016年)。
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宮司自宅前の小屋。
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社号標(明治43年9月吉日)。家内安全・馬牛繁昌。
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参道。
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手水舎。
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手水舎横に占い場がありました。
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占場(こよりば)…『4月1日~11月30日。こよりを作って占なってみて下さい。まっすぐしずむと願いがかなうと言われています。』
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私の占い結果は微妙でした(笑)
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石灯籠一対(明治39年旧9月19日)。
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社殿前狛犬二対。
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狛犬一対(大正2年9月19日癸丑秋)。
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出雲型…では語弊があるかな…出雲構えです。
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狛犬一対(安政5午年4月19日)。
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社殿。
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向拝。
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唐破風懸魚。
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蟇股。
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木鼻。
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脇障子が素敵。
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神額は廣澤安任敬書!青森県生みの親とも呼ばれる偉人でございます。興味のある方はWikipediaでどうぞ(笑)
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拝殿内。馬の絵馬が立派です。
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本殿。本殿の脇障子も素敵でした。
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参籠所。
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社務所。
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馬だらけ。
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可愛い絵馬です。
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天満宮兼絵馬納め所。
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末社稲荷神社。
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花松伏見稲荷神社とありました。
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拝殿内。
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花松伏見稲荷の石祠。
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無造作に転がっていた石ですが、よく見ると「明治2年42才」「三十人目中居由三」などと彫られています。「メ」は貫です。30貫=112.5kg。特に案内板はありませんでしたが力石でしょう。
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焼納所。
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神楽殿。
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神楽殿内。権現舞・花松神社神楽保存会とありました。
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中央に獅子頭が2つ、その他にもお面や刀や法螺貝や衣装など色々ありました。
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神楽殿は閉まっていることが多いので、このようにいつでも見ることができるのは嬉しい配慮ですね。
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御神馬再建記念碑(総工費415万円・着工昭和54年4月19日・竣功昭和54年9月19日)。
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御神馬再建記念碑前の石祠には恵比寿様と大黒様がおりました。
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御神馬(黒龍号)。
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大変立派な御神馬でございます。
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御神馬台座碑文…『旧御神馬。昭和20年春県庁の命により太平洋戦争に献納せるも平和と神明の加護を祈る氏子の総意により神社の財産の一部を投じて旧台座に再建し黒龍号と命名す。昭和54年9月19日』。
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慰霊碑・招魂碑。
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慰霊碑・招魂碑前の石灯籠一対。
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関連記事:『花松観音(七戸町)
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花松観音 (七戸町)

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花松神社の境内・花松神社向かい(宮司自宅隣)にあります。
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鳥居をくぐって裏側に回ります。
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正面。
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石灯籠はほぼ崩壊していますが、紀年銘は残されています。天明元年かな。結構古いものですね。
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馬頭観世音(花松観音堂)。
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手水鉢。
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大きな布袋様。両脇には小さな大黒様と恵比寿様。
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(内御堂)第32番札所花松観音(現花松神社)…『鎮座地:上北郡天間林村大字花松。本尊:馬頭観音(明治以前の御縁日は毎月25日)。御鎮座:慶長2年(1597)。御詠歌:巡り来て其名をきけば花松の今宵の月は曇らざりけれ。由緒:慶長2年(1597)の建立で、宝暦年間(1751-64)の御領分社堂に「小川目花松村観音堂2間3間本山派別当三光」とあり、寛政年間(1789-1801)の「邦内郷村志」に「観音堂別当秀光十三石五斗給分」とある。当神社は明治以前迄は花松観音堂と呼ばれていたが、天明(1781-89)の大飢饉に農耕・食物・家畜の守護神である保食神を合祀したが、明治の廃仏毀釈により主祭神を保食命とし、社名も花松神社と改めた。明治初期頃迄は当社の社頭に「細枝四垂」する美しい松があり、境内に絵馬舎(四尺四方)があったと云う。一説によると南北朝時代、南朝の長慶天皇(1368-82)がこの地に潜行された時、北の牧の守護神として馬頭観音を勧請し、堂舎を建立したのが当社の創始とも云われる。当地方は藩政期時代から牧があり、馬頭観音信仰が盛んであり、絵馬を奉納する風習がある。南部三十三ケ所観音巡りより』
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木明馬頭神社 (野辺地町)

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野辺地湾に面しています。
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木明地区の馬頭神社。由緒等は不明です。ちなみに『北奥道中図部分』(江戸時代)には木明・古明・明前・蟹田・有戸に神社が見えません。
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再建の棟札には「奉再建想善神御堂成就之攸」「嘉永七甲寅歳四月十九日別當僧都大正院廣松●●」「願主當村氏子中」などの文字が見え、所謂蒼前信仰であり、嘉永7年(1854)以前の創建と考えられます。
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馬に胡坐で乗っています。
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隣には稲荷の祠もあります。
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福城稲荷神社 (六六稲荷 / 千葉県成田市)

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御祭神は宇迦之御魂神。創建不詳。かつての権現山の一部。通称は六六稲荷(ろくろくさま)。6月6日の大祭では成田駅職員も無事故を祈りに来るそうです。
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創建は成田山より古いと云われており、かつては当社を参拝してから成田山新勝寺に詣でたという情報をネットで見つけたものの、それ以外の詳細な由緒等は一切はわかりませんでした。神社自体はそんなに古い感じはしませんでしたが、何らかの形で古くから権現山に祀られていたのかも知れません。さすがに成田市立図書館まで調べに行く気はしません。
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6つの神が祀られているようです。『◆海神・希太樓辰神◆水神・三宝龍神◆伏白山主之神◆伏白大神・姫神◆福城稲荷◆祿ろく稲荷(六六稲荷)』
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三宝竜神。
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水神。
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細い参道。
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急勾配な石段。
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冒頭で由緒不明と申しましたが、ネットで色々と調べていたら唯一由緒について触れていたブログを見つけましたので、そちらを参考にして記事を書きたいと思います。sausalito様ありがとうございます。
参考ブログ:『成田に吹く風
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「尽誠堂病院物語」という小冊子に『一家の主である平野伸が亡くなった後、平野家の後継者である平野スマ子・マチ子が親子二代にわたって神山の麓に、社務所を建て換えて山の神を守った。現在それは「伏白神社」「福城稲荷」、「六六稲荷(通称)」と呼ばれているが、主である平野伸亡き後、平野親子が約七十年間守り続けて現在に至っている。』、『その平野伸だが、東京谷中時代、病気を助けた患者との縁で、現在、JR成田駅の広く線路区域になっている大きな神山(※)を、買わされる羽目となった。当時、一帯は囲護台という地名で九軒ほどの家しかなく、山の周りは閑散とした寂しい沼地だったという。(※神山=神の鎮座する山)』と書かれており、その山は権現山と呼ばれている成田駅東口一帯と繋がっており、西には大きな沼が広がり、山上には小さな石神様があったとのこと。
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大正時代初期には、成田駅は構内拡張に迫られ、平野家の山の一部を取得して工事を行いましたが、事故が頻発して、死者・怪我人が続出する事態となりました。そこで駅長が行者にお伺いを立てたところ、「工事にかまけてお山の神様を粗末に扱ったからだ」との託宣があり、打ち捨てられたようになっていた石神様を平野家の山に戻し、祠を建てて祀ったところ、工事は無事に終了し事故が起こらなくなったそうです。元来からの山の神・石神様についてはわかりませんが、明治以降の経緯は知ることができました。
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福城稲荷・祿ろく稻荷。
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狐一対。
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伏白大神。
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石灯篭一対。
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地主神。
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五輪塔(昭和42年・八幡四郎恒永元安外数十名之靈・平野スマ子建立)・地蔵・石祠(寛政3年)。
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五輪塔を建立した平野スマ子さんの母江栄さんは、平野夫婦に子が無かったため養女に迎えられた方で、とても霊感が強い方だったそうです。ある時から、鎧兜に身を固め、憤怒の表情をした武将の霊が江栄さんに取り付いたため、行者にお祓いをしてもらったところ、この霊は信じていた仲間に裏切られて落命したために強い怒りを持ち続けている武将の霊であると分かりましたが、いくら尋ねても自分の名前を明かしてはくれません。そこで娘のスマ子さんが、深い信仰心をもってこの武将の霊の怒りを和らげ、何とか八幡四郎の名を聞き出して五輪塔を建立したとのことです。
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手水石(昭和2年)。
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御眷属奉安所。
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境内からの眺望。
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境内のすぐ横には線路も見えます。
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曹洞宗 観音山 見道寺 (青森市新城)

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天狗館跡地。
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境内案内図。
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北国八十八ヶ所霊場63番札所。
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御詠歌「たまぼこのみちのく山を渡る風 み法讃へて天にひびかふ」
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駐車場まで車で行けます。当たり前か。
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開祖大寂見道。寺号開祖仏海全栄。草創不詳。
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はじめ梵珠千坊(高野千坊)の内から円宗阿闍梨が新城、山城山に小庵を結んだのが開基。慶長年間に新城村の西方の村端に移って延念坊と称しました。寛永年中、弘前藤先寺より見道和尚が来て、廃頽した小庵を新城村庵と号し再興。村人は新城村庵を見道庵と称し、藤先寺の末庵となりました。文化7年に黒石保福寺19世大淳和尚が来て住職となってから、現在の天狗館の地に移りました。天狗館は地勢高峻、眺望絶佳の地であり、檀徒も増えていきました。以って至芳大淳和尚は中興の祖といわれています。明治4年に寺檀徒が協力して庵寺を改築し、三十三観音を安置。明治8年に寺号を許可され観音山見道寺と公称し、常光寺末となります。
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龍天善神…『龍天とは難陀王をはじめ諸天善神のすべての事で曹洞宗では修道無難、道念増進を願い佛道修行の守護神としております。当山に還暦記念として龍天を安置し、山門鎮静と檀信徒の家門繁栄、身体堅固を祈願し建立しました。平成4年11月1日 見道七世忠宏合掌 龍神真言オンシャニカラマニソワカ』
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徳叉迦大龍王。
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不動明王。
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開山正栄和尚三百回忌・本堂新築記念碑。
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六地蔵。
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かつての天狗館の地とあって、高低差のある境内。
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本堂の屋根もこのアングルで見れます。
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景色もいいです。
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英霊碑・忠魂碑。
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淡島(阿波嶋)神社。
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御祭神は阿波嶋大明神。
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慈母観音。
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白衣聖観音堂。
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白衣聖観世音菩薩。平成6年7月18日建立。
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南無大慈大悲観世音菩薩(西國三十三所霊場納経塔)。
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頂上部分が慈光苑。平成16年11月に落慶式が行われた薬師堂や五百羅漢などがあります。
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三十三観音。観音山の謂れでもある三十三観音はこちらの三十三観音ではなく、本堂内に安置されています。梵珠山にあったのを移したものや、新潟から海路運んだものなど、三十三観音を揃えるには大変な苦労があったそうです。
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薬師堂前の十二支地蔵尊。
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薬師堂。
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五百羅漢の里。
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圧巻です。
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自分に似ている顔の羅漢を探してみてね。
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十和田神社 (五所川原市藻川)

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藻川保育園と沼の間の小高い松林の中に鎮座。
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明治18年2月に雪どけのため岩木川堤防が決壊。これまでの小さな沼が大沼となりました。治水神として祀ったものと考えられていますが、以下のような由来が残っています。
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藻川の一戸勘七氏の夢枕に現れた神のお告げにより、ここに社を建て十和田大神を祀りました。神主、山伏を頼んでの台神楽を近村はもちろん、外ヶ浜まで回した宣伝が効き、広く参詣者が集まるようになります。
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旧4月19日の例祭日には参詣者が沼にサンゴ(米と銭を入れた紙色)を投じて豊凶や身の上を占います。
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『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)には社号標の写真と共に次のような記述があります。「五所川原の川港の鎮守である湊の胸肩神社-弁天様があり、藻川の弁天宮は大沼の岸にあって堂内に十和田神社の小幕が奉納され、村の人は沼の主を祀るというが水神であることにまちがいない。」
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社号標紀年銘(大正6年4月19日建立)。
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社殿内。
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絵馬など。
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十和田神社50年紀年社殿改築の紀年銘が昭和9年戌旧正月拾貮日。
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昭和9年奉納の神額。
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本殿。
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舟打鉱山跡 (青森県)

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岩谷不動尊・大山祇大神を通り過ぎて、沢田神明宮の前を通って屏風岩(高さ100余りの岸壁が幅600mにわたり屹立するとともに、学術的にも価値の高い北地系の植物が生育し、すぐれた自然環境と景観を形成。)を横目に進みますと相馬ダムに着きます。
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相馬ダム周辺にはみずべゾーン(親水広場・屏風岩展望所)、いこいゾーン(ダム展望所・岩木山展望所)、ふれあいゾーン(四阿、ふれあいの広場、遊歩道)があります。
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相馬ダムの奥まで進み、ダム湖を渡るとそこから先は急激に道が悪くなります。
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ダート道をひたすら走り続けると舟打鉱山跡に到着します。案内看板や電波もないので結構不安になります。
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地図にも目印はありませんが、鴫ケ沢山のやや西、天狗森の東の渓流沿いに位置します。作沢林道。作沢川上流の萱萢地区。尾太鉱山跡地(排水処理や鉱害対策工事が継続されており立入禁止・撮影禁止)も今はほとんど何も残されていませんが、こちらもその痕跡は僅かです。
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江戸時代末期、安政年間に相馬村相馬の大黒谷万右衛門がこの萱萢の地を開拓。山畑を作っていたところ、鍬で切られた白光の石を発見。その石を持って村の庄屋中沢文作に届けました。庄屋文作は秋田の鉱山師に依頼し、秋田の鉱夫の指導と協力で掘ったところ、鉛・亜鉛・銅などが入り混じった鉱山であると判明。それから2年ほど掘り続けましたが、明治初期に中村有常という人に山の権利を売り渡し、その後は中村の山として鉱石が掘り出されました。明治41年には弘前の鈴木という人物に権利が移り、明治44年には東京の慈光寺泰仲(京都の公卿出身)が採鉱権を獲得して雷鉱山と命名。慈光寺泰仲は5年ほどでやめて、その後も4人の鉱業権者の手を経て、鉱石は次々と掘り出され、かますに詰められて牛馬によって弘前に運搬されました。昭和4年に日本曹達の所有となり、同8年頃には本格的な採掘に取り掛かりました。
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昭和10年に舟打部落を形成。同13年には相馬第二尋常小学校舟打分教場が発足。同年2月に鉱山従業員用施設を仮校舎としていた状態から新校舎を建設。同15年には独立して舟打鉱山尋常小学校と改称。同16年1月には新校舎落成式を挙行。校舎の近くには朝鮮長屋、診療所などもあったそう。同17年、18年頃は大東亜戦争のため増産を強いられ、全国の若人が奉国隊の名のもとに動員されて昼夜の別なく増産に励みました。同22年4月に新制中学校として産声をあげ、4年経った同26年1月1日にようやく舟打鉱山中学校を新築。
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昭和20年、終戦によって従業員数は減りましたが、昭和30年頃でも190世帯、約800人が生活していたそう。当時は日産70tの選鉱ができる選鉱場もあり、年産鉛1010t、亜鉛1964t、他にも銅や硫化鉄鉱が生産されていました。従業員は13都道府県から集まり、それぞれに言葉の違いがあったそう。この場所は山菜、栗、クルミ、キノコなどが豊富で、作沢川の畔には楽しい生活があったようです。しかしながら昭和36年に貿易自由化の波が国内の鉱業所を襲い、舟打鉱山も同37年9月に遂に閉山となり、27年という短い生涯を閉じました。最盛期には村の税収は舟打鉱山だけで約300万円という情況で、小中学校も児童数200名、教員数12名がいましたが、小中学校も閉山した翌年、昭和38年8月31日に閉校。当時の諸施設、事務所、住宅、校舎、土地等は競争入札で処分されました。これらの多くは本村の人たちが落札し、解体して運搬し去っていきました。現在の跡地には植林され、その木も生育し、当時の面影は偲び難い状態です。昭和57年以降、相馬村では跡地の一部を借用してキャンプ場を設営し、活用を図りましたが、そのキャンプ場も今は無いようです。
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『江戸時代の末期安政年間(1854-1859)相馬村の万右衛門によって白光の石が見つけられ、これが鉛、亜鉛、銅などの入りまじった鉱石であることがわかり、採鉱をはじめたのが舟打の鉱山の始めである。その後、山の権利は幾多の人々に次々と移ったが、本格的な採掘が昭和4年に日本曹達によって行なわれ、昭和10年には舟打部落を形成し、最盛期には約一千人の住民がこの谷に住み活気にあふれていた。第二次世界大戦中は増産につぐ増産に昼夜の別なく増産に励んだ。終戦と共に従業員の数も減ったとはいうものの、昭和30年頃でも日産70トンに達していた。然し、昭和36年の貿易自由化の波には抗し得ず、昭和37年9月閉山のやむなきに至った。』
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案内板の横には国有林分収造林標識があります。文字はほとんど消えていて読めません。
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舟打鉱山無縁佛。
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かなり状態はいいです。
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横には石。
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裏面には「昭和61年8月成田兼三郎」とあります。
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ちなみにお供えされていたカルピスウォーターの賞味期限が2016年10月29日でした。当時住んでいた人達が今も通っているのかな。
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舟打鉱山友之会碑。
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裏面には「平成7年10月15日 中郡相馬村字大助 成田兼三郎」とあります。舟打鉱山無縁佛碑の碑文と同じ方ですね。
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周囲の木には鳥の巣箱がいくつか設置されていました。
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何かがある雰囲気。
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僅かに道もありましたので行ってみました。
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鳥獣供養之塔がありました。
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「平成5年5月10■日相馬村ハンタークラブ建立」。
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その横には狛犬が一対。かつての神社跡ですね。
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阿型は台座から降りているものの、状態としてはとても良いです。
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台座。
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手水石。
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御神木。
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茂みの中に小祠があります。
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サッポロドラフトワン他、様々なドリンクがお供えされていました。
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狐が一対と中央に山の神。
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その後ろには大きくて立派な山の神。
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サッポロドラフトワン3本分くらいの大きさがあります。
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残念ながら右手は損傷しており、何を持っていたのかはわかりません。
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神社を後にして…
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近くを散策するも綺麗に整地されており、痕跡はわかりません。実は大きなカモシカに遭遇しており、次は大きな熊さんが出てきそうな雰囲気に包まれているのでほどほどに散策。
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人工的に木材が並べられている小さな渓流。
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自然の石とは思えないような形の石もいくつか。
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渓流沿いに少しだけ上ると道が二手に分かれていましたが、やはり熊さんに遭いそうなので引き返しました。携帯の電波がないと行動範囲が狭くなりますね。
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最初の案内板の位置は三叉路となっており、右の道を進めばこのような感じ。
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かなり綺麗に整地され、木材置場となっています。相馬村史などで見た学校の写真はこの場所にあったのかな。まったく痕跡がなくわかりません。
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一方、左は作沢林道。舟打鉱山から更に6kmほど奥の山頂(陣馬岳)には陣馬沼という小さいひょうたんの形をした沼と小祠があり、竜神には藍色の衣を着せてあるといいます。雨乞いの際には全村あげて村長を先頭に陣馬沼へ向かい、沼を竿でかき回すと雨が降ったといいます。興味はありますが、さすがにこれ以上山奥に行く気がしません。昔の人たちは凄いです。現代なら完全装備の登山です。
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少しだけ歩いてみました。
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右側は綺麗に石が積まれています。
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左は渓流。滝のような轟音が聞こえていましたが砂防ダムでした。
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古峯神社 (十和田市三本木)

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普通の田んぼの畦道を通っていきます。かなりわかりにくい場所ですね。
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当神社の由緒等はわかりませんでしたが、古峯信仰は栃木県鹿沼市草久古峯ヶ原に鎮座する古峯神社(総本社)に対する信仰です。
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御祭神の日本武尊を火防、海上安全、五穀豊穣、家内安全、村内安全などの神として広く信仰しており、近世以降は関東や東北一円に古峯ヶ原講が設けられ、現在も栃木県内はもちろんのこと、福島県内には約2100の講、山形、宮城、新潟、岩手、埼玉、千葉、茨城、秋田、群馬、神奈川などに多くの講組織が結成されています。青森県下では少ないとされますが、それは津軽に少ないということであり、南部藩領は別でしょうね。
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社殿。
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狛犬一対(昭和11年9月8日)。どちらも阿形。
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境内にあった石。
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1つには「奉納 昭和8年4月8日 大坂仁太郎 三十〆八百」とあります。三十〆八百いうと112.5kgの八百目で115.5kgということかな。だとしたら力石かも。こんなところに…。
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外黒山稲荷神社 (外ヶ浜町)

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東津軽郡外ヶ浜町蟹田外黒山に鎮座している稲荷神社。外黒山の麓に鎮座しており、こちらは所謂里宮で、外黒山の頂上に奥宮があるそうです。残念ながら登山道はわかりませんでした。でも御神体は里宮にあるそうです。御祭神は保食神。例祭日は10月8日。建立不詳。享保20年再建。明治6年に蟹田八幡宮へ合祀されるも翌7年12月復社。由緒も不詳ですが、文政5年頃に原始河川の蟹田川の氾濫により、現外黒山98番地付近に鎮座していた古社が民有秣場であった現在地に押し流され、そのまま同地に座ったという記録があります。
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社号標(昭和15年旧9月10日建立)が左向きです。
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参道。
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神社の横に出ます。
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右に社殿。
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左に狐など。社号標同様に石燈篭や狐、そして社殿も左向き。つまり本来の参道はこちらだったんですね。現在は草木に埋もれて歩くことができません。
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狐一対。
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結構個性的です。
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紀年銘は読み取れず。
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石灯篭一対(大正9年旧3月8日)。
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社殿。
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蟇股と木鼻。
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社殿内。
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境内に転がっていた石。読み取れず。
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茂みの中にも石塔が見えました。
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何基かあるようですが近寄れません(笑)遠くから確認できるのは4基。
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一番大きな石塔は猿田彦の文字が見ました。恐らくすべて庚申塔の類かと思います。
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天台宗 大聖院 (東京都目黒区)

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天台宗 松輝山生運寺 大聖院。大鳥神社元別当。大鳥神社隣。本尊回顧阿弥陀如来。
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弘治3年、貞順によって開創されたと伝え、目黒不動瀧泉寺の末寺でした。本尊は京都永観堂本尊の写しとされる回顧の阿弥陀如来で、他に十一面観世音菩薩・不動明王像を安置していました。元和年中に生運和尚中興し、旧目黒村総鎮守大鳥神社の別当寺でした。寛政10年に真性和尚が本堂・庫裏を再建するも、その後長らく無住の時代があり堂宇は荒廃。
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13世良詮師は終生を寺門の復興に委ね、昭和2年4月本堂の大修理・庫裏の改築が完成。昭和20年5月の空襲により本尊並びに堂宇を焼失。直ちに仮本堂を建築して類焼を免れた十一面観世音菩薩を本尊として奉安。現在は天台宗開宗1200年記念事業として再刻された回顧の阿弥陀如来が安置されています。
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昭和42年14世良勤師の代に現在の鉄筋2階建ての本堂・書院を新築。同56年本堂再建15周年記念事業として無縁塔を兼ねた納骨堂を建立。平成7年に天台大師1400年御遠忌に際して庫裏を兼ねた3階建て斎場・客殿を建築。
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普照堂。
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宝篋印塔。
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石。
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延命地蔵尊(文化13年)。
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本尊阿弥陀如来碑と母子地蔵尊。母子地蔵尊は母子5人が焼死したことを哀れに思った周囲の人が供養のために造立。
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笠付型の道標は旧丹方町と仲町の丁字路にあったもので、その碑面に銘記されているみがへり阿弥陀佛は戦災で焼失。
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切支丹燈籠。
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切支丹燈籠…『この3基の燈籠は、切支丹燈籠とか織部式燈籠と呼ばれています。もと、三田千代が崎の旧島原藩主松平主殿頭(とのものかみ)の下屋敷(後の大村伯邸)林泉中の小祠内にありましたが、大正15年10月大聖院に移したものです。中央のもっとも高い1基の棹石には変形T字クルスとキリスト像とおもわれる形状が、また左右面に、漢詩が刻まれています。この燈籠は徳川幕府の弾圧を受けた隠れ切支丹が庭園の祠等に礼拝物として秘そかに置かれていたものだと言われています。歴史的に文化的価値が高く、全国的にも数少ない燈籠です。平成4年3月目黒区教育委員会』
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稲荷神社 (野辺地町小沢平)

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小高い山の中腹に鎮座。
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参道は細いので右側に滑り落ちないように注意してください。
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社殿。
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社殿内。
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由緒は不明です。
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大正4年旧6月2日建立。屋号かな…神主並びに建立者として「上北郡野辺地町大字有戸∧一(山一)農場」とあります。
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昭和47年●月●日新築。
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平成11年8月26日新築。
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杉山神社 (弘前市百沢)

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上弥生と同じく戦後の開拓。第二次世界大戦後、敗戦により食糧増産が急務となり、耕地開拓は国家的事業となり、岩木山麓では杉山、上弥生、羽黒、瑞穂、小森山、平和などの地区が開拓されて開拓集落となりました。つまりその後の創建と考えられます。
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弘前市常盤野の瑞穂神社や弘前市弥生の保食神社のように昭和に入って入植者により開拓された地区には産土神としての神社が祀られています。案内板がある大山祇神社の由緒からその背景が伺えるかと思います。
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ちなみに杉山神社といえば神奈川県を中心に多く存在しますが、その杉山神社とは異なり、この地区の名前から命名されたものと思われます。
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手水石。
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境内にあった石。
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注連縄がかけられ磐座のようです。
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本殿。
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