神社入口にある明治天皇御茶の水。
社標(大正14年5月10日建立)と明治天皇御料茶水記念碑(大正元年10月18日)。蔵館村の菊池卯之助が現虎屋商店から菊池薬店付近に私費で行在所を新築して実現。詳細は大鰐町史下巻(二)P41~を参照してください。
宮嶋式四脚石鳥居と石段36段。
かつての神社は真下付近で崖を上る参道だったそう。
境内には昭和15年(皇紀2600年記念)の高野槙(社殿と菊池権左衛門君紀功碑の間)と昭和15年植樹のカツラ(菊池権左衛門君紀功碑と忠魂碑の間)があります。
狐一対(大正14年旧6月10日村中)。
拝殿と御神灯一対(昭和15年2月11日)。
御祭神は倉稲魂神、猿田彦神、大宮比売命(福徳神)。
創建不詳。慶安3年(1650)村中再建。明治3年蔵館村鎮守稲荷宮。明治5年(もしくは6年)に長利神官より氏子へ譲渡。明治41年村社。
江戸時代の蔵館村鎮守はずっと大日堂でしたが、明治3年の神仏分離令により稲荷宮が鎮守となり社を再建。
社殿下にいた狐一対。
社殿にあった看板…えー!?(笑)
本殿に行けるみたい。
本殿前石段下狐一対(明治42年旧6月10日)。
石段。
本殿前石段上狐一対。
本殿。
本殿の場所は大鰐町立蔵館小学校グラウンドに隣接。
グラウンド側から見た稲荷神社本殿。
蔵館の蔵は座(くら)のことで、山中の岩場とか断崖のある岩場という意味です。小学校がある台地は平川の洪水で浸食されて河岸が断崖となり、その下を平川が流れていたので「くら」と呼び、館を築くには最適の場所でした。蔵館の台地上には古館と館越の2つの館がありますが、それを合わせて蔵館になったといいます。また台地上からは縄文時代前期の円筒下層b式土器が出土しており、約5000年前から人々が生活していた場所と考えられています。
平川の河岸段丘で2つの郭からできているわけですが、東郭には小学校、西郭はりんご園と住宅地になっています。その間には大きな空堀があったそうですが、現在は埋め戻されています。なお、後方の神岡山には高伯寺跡が残っており、大きな礎石や池、松、楓などが当時のままに残されているそう。弘前大圓寺が末寺の蔵館高伯寺を合併し連光山大圓寺となり移転、後に潮海22世が神岡山大圓寺に改名。
さて、稲荷神社境内に戻って、右から忠魂碑(一戸兵衛書、大正13年11月3日)、秩父宮殿下御休息記念碑、同忠魂碑建設寄附者名簿碑。
秩父宮殿下御休息記念碑(昭和11年11月)。
『今茲二月二十二日秩父宮殿下矢捨山に於ける歩兵第三十一聯隊将校團須奇伊演習の御歸途其の一行と共に我が蔵館小學校に御立寄りありて御晩食を攝らせ給ふ村民一同感激恐懼措く所を知らず乃ち茲に碑を建てて此の光榮を後世に傳ふ歌にいはく…(下記写真)』
同忠魂碑建設寄附者名簿碑。
菊池権左衛門君紀功碑(昭和16年8月・伯爵津軽義孝篆額・恩田鐡満撰・高山松堂書)。
『君弱冠心を公益殖産に注ぎ居村蔵館の山間に僻存し(田+犬)畝(けんぽ)稀少民生困弊するを慨するや之が濟活を図り其の風土の苹果に適するを聞き明治十一年神岡の山を闢て園圃となし率先苹果栽培の業に従ひ辛苦経営能く之を蕃殖し種苗を附近に頒ち常に範を示して誘導甚だ努め終に四方に伝播す此より寒陬変じて豊郷となる君資性篤實名聞を求めず堅忍力を厚生利民の道に掲し終始一日の如し則■■地方に於ける傾斜地栽培薬剤撒布の普及自給肥料の増産及び組合の経営の如き皆君の指導に負ふ所多く村民永く其の恵澤を被る君栽培の術に精しく自園に優秀の果實を産し曽て之を高貴に献上し御嘉納の光栄を辱し又博覧會に出陳して金牌を受く君多年村政及び教化勧農の事業に参與し勞效?る多く地方振興の功を以て高松宮殿下より優錫を拝し尚ほ栽培事業に関して累次官■学會等より表彰せらる惟ふに君苹果を蔵舘に試植してより六十餘年今回青森苹果の名聲海内に喧傳せる君が不撓の努力と郷土愛の至情に頼ると云ふべく其の徳業は■■として永く無窮に垂るべし君安政五年十二月を以て生れ昭和十四年七月歿す享年八十二遠近悼情せらるはなし今茲八月故■相議り碑を建て君の功徳を顯揚せんとし文を余に請ふ余素より君の懿績を識る乃ち其の梗概を叙して永遠に傳へ後の人をして矜式する所あらしひ』。
難しくてあまり読めませんでした。菊池権左衛門については大鰐町史下巻(二)P166~を参照してください。簡単に説明すれば、菊池権左衛門さんは馬車屋からりんご大経営者になった人物で「りんごの町大鰐」は彼によるりんご栽培に始まるとのことで、つまりは若くしてとても頑張った偉い人なんです!OK?(笑)