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荏柄天神社 (神奈川県鎌倉市)

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御祭神は菅原道真公。『相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起』によりますと、長治元年(1104)8月25日創建。一天俄かに掻き曇り、雷雨と共に黒袍の束帯姿の天神画像が天降り、里人がこの神験を恐れて降臨の地に社殿を建ててその画像を納め崇拝し、銀杏の木を植え神木としたとあります。荏柄の社号は奈良時代の天平7年(735)の『相模国封戸租交易帳』や『倭名類聚抄』の相模国鎌倉郡にみえる「荏草郷」の「エガヤ」が転じて「エガラ」となり「荏柄」と表記されたと考えられています。
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治承4年(1180)、源頼朝は大蔵御所鬼門の鎮守として社殿造営。歴代の将軍家をはじめ幕府の崇敬社でした。建仁2年(1202)9月11日、将軍頼家は御祭神菅原道真公の御神忌三百年祭に大江広元を奉幣使として派遣。建保元年(1213)2月25日、渋河兼守が冤罪を訴えて当社に献じた和歌十首が源實朝の知るところとなって罪を許された話は有名であり、「兼守虚名を愁へ篇什を奉りて、すでに天神の利生に預り、また将軍の恩化を蒙る。およそ鬼神を感ぜしむる、ただ和歌にあるものか。」と評しており、天神信仰の一端を示し和歌の徳を語るもの。『鎌倉年中行事』によると、室町期には鎌倉公方は毎年正月23日、25日に参詣して千句の催しがあり、また、2月23日から25日まで参籠するのを慣例としていました。
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康正元年(1455)6月16日、今川範忠は公方足利成氏を攻めて鎌倉へ入り、社壇は破られ御神体は駿河国へ持ち去られましたが、後に御神体は自ら当社へ戻ったと云い、『鎌倉大日記』ではこの御神体を天神自筆の画像と伝えます。天文17年(1548)、小田原城主北条氏康は社殿造営のため、金沢道に関所を設けて通行の人馬から関銭を徴収。今もその地には関取場跡があります。『小田原衆所領役帳』に荏柄天神領「廿一貫百文鎌倉社地之内」とみえます。天正18年(1590)4月、豊臣秀吉より二階堂郷中の六ヶ所の一つとして禁制をうけ、同19年、徳川家康は「小坂郡鎌倉之内」より十九貫二百文の地を寄進し近世に至りました。
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明治6年、二階堂村の鎮守として村内の熊野社を合祀して村社に列格。社宝として、弘長元年(1261)銘の木造天神坐像及び木造天神立像ほか多数存し、世に知られている「荏柄天神縁起」や「庖丁正宗」も元当社に伝来したものであったそう。平成17年7月14日に境内は国指定史跡、本殿は国指定重要文化財に指定。元和8年(1622)に始まる鶴岡八幡宮の造営に際し、若宮の社殿(鎌倉時代末の建築)を当社へ移築したのが現在の本殿と考えられています。以来、鶴岡八幡宮の造営の際にはその古材をもって当社を修営することが慣例。明治維新の神仏分離まで別当一乗院(古義真言宗)が当社を管掌し社地下の参道東側の地にありましたが現在は住宅地。なお、拝殿と幣殿は鶴岡八幡宮の関東大震災復興工事の際に仮殿を移したもの。
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荏柄天神由緒碑…『倭名鈔當郡ニ荏草ト記セル郷名アリ今其名ヲ失スレドモ當社附近ノ舊称ナリシガ如シ草ニかやノ古訓アレバ江がらハ江がやノ轉訛ナルヲ後文字ヲサヘ今ノ如ク改メシモノカ社前ノ松並木ヲ古来馬場ト稱ス本社ハ元中央ニ菅公束帯ノ坐像右方ニ天拜山祈誓ノ立像左方ニ本地佛十一面観音ノ像ヲ安置セシモ勸請ノ年代ヲ傳ヘズ頼朝公初メテ大藏ノ地ニ幕府ヲ設ケシ時當社ヲ以テ鬼門ノ鎮神トナス爾来歴代將軍ノ尊奉セシ所天文年間北條氏康社前ニ關ヲ置キ關銭ヲ取リテ社料ニ共セシメシ事アリ徳川氏ノ世ニハ鶴岡八幡宮造營ノ節毎ニ其ノ餘材残木ヲ受ケテ本社修造ニ抵ツルヲ例トセシト云フ昭和四年十二月鎌倉町青年團』
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『古くは柄柄山天満宮とも称し、福岡の大宰府天満宮、京都の北野天満宮と並び、日本三天神の一つに数えられて来ました。平安時代中頃、雷雨と共に天神の姿絵が降りてきたのを里人が敬い、そこに神社を建てて祀ったのが始まりとされます。源頼朝が大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に幕府を開くと、その鬼門を守護する神社として崇められました。境内は国の史跡、本殿は国の重要文化財に指定されています。』
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菅公一千年祭記念碑。
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石段を上ると神門の向こうにすぐ社殿が見えます。
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振り返ると結構高さがありますね。
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手水舎。
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拝殿の両脇には寒紅梅(鎌倉一の早咲き)と古代青軸が植えられており、見頃(1月上旬から2月上旬頃)になればより美しい景観を楽しむことができます。
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拝殿横の絵馬の数々。
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本殿。
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国指定史跡荏柄天神社境内(平成17年7月14日指定)・国指定重要文化財荏柄天神社本殿(平成17年7月22日指定)…『荏柄天神社は長治元年(1104)の創建と伝え、太宰府天満宮・北野天満宮と並ぶ日本三古天神の一つです。祭神は菅原道真(845-903)。治承4年(1180)源頼朝が鎌倉に入り大倉に幕府を開くと、その鬼門の鎮守とされたと伝えられています。鶴岡八幡宮と共に武家政権の守護神として、また東国における天神信仰や詩歌信仰の中心となりました。社殿奥に建つ本殿は国指定重要文化財(建造物)に指定されています。この本殿は、正和5年(1316)再建の鶴岡八幡宮若宮を、元和8年(1622)に始まる鶴岡八幡宮の造営に際し移築したものと考えられています。門の東側には天神が降った場所とされる位置に大銀杏があり、鎌倉市の天然記念物に指定されています。平成19年3月鎌倉市教育委員会』
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拝殿から見た境内。
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社務所。
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授与所・社務所前の御神木。
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由緒にも出てくる樹齢900年以上の銀杏。
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尾崎迷堂句碑。荏柄天満天神献詠。「鎌倉右大臣実朝の忌なりけり」、裏面「大慈咲き大悲さきたるさくらかな」。
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尾崎迷堂句碑…『尾崎迷堂(明治24-昭和45 1891-1970)。僧侶で本名を光三郎、法名を暢光という。山口市に生まれ、僧の修業をした後、寺の住職を勤めるかたわら、俳句の道に精進した。特に、鎌倉二階堂の杉本寺住職と、大磯の慶覚院住職の時代がよく知られている。俳句は、高浜虚子が選者を担当した「国民新聞」の投句から始まり、大正4年(1915)に松根東洋城が創刊した「渋柿」の同人となり、その後「あら野」を経て、昭和11年(1936)に「えがら」を創刊して活動し、最後は「ぬなは」を拠点として活躍した。その作風は、高雅繊細で、しかも気魂を持っていたといわれる。迷堂は、大正14年から昭和17年まで、杉本寺の住職として土地の人々と俳句を通して交流を深め、昭和45年3月に住職をしていた大磯の高麗山慶覚院で亡くなった。句集には「孤輪」(昭和16年)・「雨滴」(同26年)・「芙渠(ふきよ)」(同41年)などがある。「雨滴」の中から、鎌倉に関する句を抄出する。歳旦「初鶏や谷合奥の十二所」。春・英勝寺一句「尼寺のチューリップなど長閑かな」。春・荏柄天神社一句「古ルの絵は磴すぐ下の春田かな」。春・八幡宮実朝忌句会一句「実朝忌ここもと山の松寒し」。平成3年3月鎌倉市教育委員会・鎌倉文学館』
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熊野権現社へ。
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石灯篭。
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少し石段を上って…
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熊野権現社。
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社号標。
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山の洞穴内に鎮座。
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奥に熊野権現の石祠があります。御祭神は熊野三柱神(伊邪那岐命・伊邪那美命・天宇受売命)。
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荏柄天神社神輿庫。
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荏柄天神社社殿横の道へ。
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古神札納め所。
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かっぱ筆塚。清水崑氏の河童の絵と川端康成による「かっぱ筆塚」の揮毫。
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かっぱ筆塚・絵筆塚…『手前に佇むのが、河童の漫画を描き続けた清水崑氏が愛用の絵筆を供養し、昭和46年に建てた「かっぱ筆塚」です。大きな筆を担いだ河童の姿がレリーフされています。奥にそびえるのが、清水氏の遺志を継いで、横山隆一氏らが平成元年に建立した「絵筆塚」です。当時、日本漫画家協会に所属していた漫画家有志がそれぞれのキャラクターを河童のモチーフで描き、それらの作品154枚がレリーフされています。毎年10月には、清水崑氏を偲び讃え感謝の真心を込めて古筆を供養する絵筆塚祭が執り行われております。』
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石段を少し上って奥へ…
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絵筆塚。
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絵筆塚建立碑(平成元年10月22日)。
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小島功、手塚治虫、やなせたかし、藤子・F・不二雄ほか、私でも知っている有名な名前がたくさん。
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見ていて飽きません。
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こちらは荏柄天神社から少し西に行った場所にある東御門碑…『大藏幕府二四門アリ方位ヲ以テ名ヅク其東ニアルモノヲ東御門ト謂フ今轉ジテ地名トナル法華堂ノ東方一帯ノ地即チ是ナリ 大正15年3月建鎌倉町青年團』
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その横には子供(清泉小学校の生徒さん?)の字かな。手書きで東御門の説明と地図がありました。『東御門とは、大蔵幕府の東側にあった幕府の門です。東御門の近くには、やぐらがありました。このやぐらは、東御門の近くの山をくずしている時にぐう然見つけられた物です。やぐらの中には沢山の五輪塔がありました。東御門には清泉小学校にそって小さな流れがあります。この流れは、大蔵幕府を守っていた堀かもしれないと言われています。今は、東御門のこの石碑だけが残っていて、地名は西御門と呼ばれています。』
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小学生相手に大人気無いけど、土地勘も知識もまったくない私は最後の一文に素直に頷けない(笑)ってことで調べてみたのですが鎌倉期から戦国期には東御門という地名がやはりあります。江戸期には二階堂村の小名に東御門があり、いつの頃からか二階堂、西御門、浄明寺、十二所が同じ大倉の谷に在ることから谷合四ケ村と称され、その後、二階堂は明治22年に東鎌倉村の大字、明治27年に鎌倉町、昭和14年に鎌倉市の大字となっています。小名として東御門の名を残していたようですが、現在はその地名も無くなり、鎌倉市西御門2丁目になっているようです。碑はちょうど西御門2丁目と二階堂の境に建てられていますが、かつての東御門が名前を変えて西御門という住所に含まれているってわかりにくいですね。東御門コーポという物件がありますが、住所は西御門なわけです。清泉小学校の皆さんの地図が一番わかりやすいね。※北御門や南御門の名も残っていません。
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