平内町東田沢横峰。椿山海水浴場、椿山キャンプ場付近に鎮座。天保郷帳には下田沢村と見えます。青森にも田沢村があったために、東部に位置する当地は東田沢に改称。文化年間に異国船の渡来に備えて臨時の番所が設置されており、足軽鉄砲隊が編成されて警備に当たっていました。
文治の初め頃(1185年頃)、椿山にまつわる伝説の祠があり、天正年間(1573-1593)は椿崎大明神と称していました。明暦年中(1655-1657)より椿大明神を祀ります。初めは鳥居だけが建立されておりましたが、藩主の命により社殿建立。創立は元禄11(1698)4月3日。椿宮女人を神霊とし、別当日光院六世山造法印、施主新十郎、吉兵衛外村中にて建立。日光院神社記録としては、元禄11年、横峰嘉兵衛なる者の女房に神が乗り移り御託宣によりこの地に守護神を祀ることになったということです。椿山伝説のお玉も魂(御霊・精霊椿姫)のことではないかと考えてしまいますが、伝説はあくまでも伝説であり、この伝説が神社の歴史とどのように関わっているのか気になりますね。安永2年(1773)再建、安政2年(1855)椿神社と改称。明治6年3月23日村社となり猿田彦神を祀ります。同9年社殿再建。昭和46年拝殿修築、旧鎮座地から馬頭観音堂を境内地に移転遷座、更にこの際、石灯篭一対、狛犬一対、社号石標も奉納されています。
御祭神は猿田彦大神・天鈿女命(猿女君)。三重県の猿田彦大本宮椿大神社と同じですね。三重県鈴鹿市、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山入道ヶ嶽、短山椿ヶ嶽を天然の社として古くから猿田彦大神を祀る椿大神社は、昭和10年に全国約2000社の猿田彦大神を祀る神社の総本社地祗猿田彦大本宮とされましたが、椿大神社と実際に関係のあるものは少数であり、一方で椿大明神を祀る椿神社は全国各地に存在しているといいます。同じく鈴鹿市にある都波岐神社も猿田彦大神を祀っていますが、こちらは海に近い場所にあります。また、猿田彦大神は興玉神、船玉神、そして椿大明神とも呼ばれます。ちなみに椿神社で猿田彦大神を祀ったのは明治6年3月に村社に列せられた時からです。
椿神社沿革…『一.御祭神…猿田彦大神・天鈿女命(猿女君)。一.例祭日…5月3日。一.境内地…4,639坪。一.由緒…文治(1185年頃)の初め椿山にまつわる伝説の祠があった。天正年間(1573-91)には椿崎大明神と称した。明暦(1655-57)年中より椿大明神を祀る。創立は元禄11(1698)4月3日椿宮女人を神霊として建立した。安永2年(1773)椿神社と改称し、明治6年(1873)村社と列せられ、猿田彦大神を祀る。昭和26年(1951)境内地(官有地)が大蔵大臣名をもって無償譲与があり、昭和27年(1952)12月2日宗教法人設立登記する。昭和46年(1971)馬頭観音堂を境内地に移転遷座する。昭和51年(1976)神楽殿兼社務所を新設する。昭和61年(1986)社殿を改築する。一.祈願…豊漁、豊作、海上安全、交通安全、魔除の神として信仰される。一.特記事項…横峰嘉平と玉女の悲恋物語の伝説がある。鰐口2個蔵している。その1個には次のような銘がある。「奉寄進椿崎大明神諸願成就子孫繁昌上総国小糸城主里見豊前守源義次四代之孫里見萢左衛門尉源敏啓元禄九丙子年(1696)五月吉日」。また1個は延享3年(1746)年8月田沢邑の小十郎が寄進している。平成18年5月吉日椿神社宮司佐々木光清』
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手水舎。
石灯篭一対(明治29年9月3日)。
神楽殿兼社務所。
神楽殿兼社務所前の松。
参道。
狛犬一対(昭和46年5月3日)。
不明の石。
社殿前の石灯篭一対(昭和47年5月3日)。
社殿。
迫力があってかっこいいですね。
蟇股・木鼻等。
向拝。
社殿内。御祭神でもある天宇受賣命と猿田毘古神の面などもありました。
本殿鞘堂。
社殿から見た参道。
蒼前神社。
馬頭観音堂のことです。
手書きの案内看板…『この地は精霊椿と椿姫が眠る唯一の神秘なる鎮守の社椿神社です。眩いばかりの美しさの青いカスリ姿の女人が出現した場所です。木に春とかく椿は、日本独自の花武士の花と言われます。武士である日本人が好む「ワビ・サビ」の世界にその鮮やかな紅色(しんく)のヤブ椿を一輪さしただけで、見ごと表現する花は他にあるだろうか!!ここ椿山に訪ずれた人は、精霊椿とされる椿に手を回して、よりそいながらお願いして健全なる気をもらって下さい…。因みに椿明神は寛政9(1797)年に記された工藤白龍の「津軽俗説選」田沢村椿宮は縁結びの神なりといふ…そして悩みを封じるとも…。春を待つ薄紅(くれない)燃(もゆ)る侘芯(わびしん)があなた恋しや今雪と咲く。椿神社宮司佐々木光大。侘芯椿…ヤブ椿の一種でこの世でこの地にだけ咲く。花として花粉を持たない椿のこと。』
椿神社造営記念碑(昭和61年10月5日)。
記念碑。
表面碑文…『「天使たちの海」星野哲郎…ほたては天使の掌 しあわせをわれらに恵む 白鳥は天使の歌篭 やすらぎの曲をはこぶ やぶつばきは天使のえくぼ おだやかな憩を誘う 天使住むむつの海 このふるさとの海を守り ほたてに感謝を われら心こめて 石に刻む』
裏面碑文…『「資源有限漁業無限」。「東田沢漁港整備記念」を契機として、我々は海洋の恵みを受けて生活している事に謙虚に「感謝と供養」の思いを深くし人々の「海上安全」を乞い願い、協同組合運動精神による和を以って、子々孫々への持続可能な漁業の継続を誓い、我が国、演歌作詞界の巨匠で有り、青年期を独行船で昼夜を分かたぬ海での生活に挑んだ星野哲郎先生に詩を託し幾百年の老松と真紅の椿の花を に伝え、村人の誇りと敬虔の念を深くする椿神社境内に碑を建立するものである。平成九年五月吉日平内町漁業協同組合・東田沢支所組合員一同(以下、記念碑協賛会会長名、建立実行委員長名等々は省略)』
台座碑文…『「漁業協同組合沿革史」…水産業協同組合法が、昭和23年12月15日公布された事により、東田沢漁業協同組合を設立すべく有志22名による発起人会(代表植村金次郎)が発足した。小湊漁業会(旧)は解散し、設立認可申請を行い、昭和24年6月14日認可を受け120名の組合員で設立された。当地域は、むつ湾の中央部に位置し好漁場であったが、乱獲等による資源の枯渇を招き、生計を出稼ぎに依存する一時期、村は閑散とした。ホタテガイは古来より10年前後を周期として自然発生し漁村を潤した事に鑑み「つくり育てる漁業」を目指した山本護太郎博士の指導を得て、ラーバの採苗と中間育成が平内町管内で成功したのを受け、昭和43年より地播放流を主体として成果を挙げる事が出来た。(旧)東田沢漁業協同組合(昭和24年7月~同45年2月まで)初代組合長田中助蔵、二代田中常作、三代・五代笹原文蔵、四代笹原榮八。「漁協の合併」…昭和45年3月1日、時代の趨勢として平内町漁業協同組合が誕生、東田沢支所として漁業権漁場は従来通りとした。地播による増殖形態から、籠・耳づりの養殖形態に大きく変化した。又、斃死・貝毒・小型化の脱却のため運命共同体の海利用について、ホタテガイ養殖の原点に返る事こそ肝要である。昭和49年4月区画漁場の大幅な拡張要請による免許更新が行われた。以後生産基盤確立のため数年に及ぶ漁場整理を実施し現在に至っている。「漁村漁業の近代化」…合併以来、諸施設の整備近代化は家族労働を可能とした。以前は出漁途中で気象急変により海岸での漁船の損壊、ひいては人命にかかわる事故、北東の波にさらされる海辺の家々は床下を洗われ家財を失い、道路は激浪に遮断される有様であった。「人命を守る漁港づくり」を求め、先人達は政治行政の理解を得るため努力を続けた時恰も熊谷義雄代議士の強力な支援のもと昭和38年より年次計画による本格着工と相成り、漁村の夜明けに欣喜雀躍の思いであった。その後も30有余年の間漁協行政一丸となって促進に力を尽し30億余の巨費が投入され「漁港整備」が施行された。平内町管内初の供用開始は、新たなホタテ養殖漁業等の一層の推進と高齢化時代における作業の安全と効率化に役立ち他の「集落毎の港づくり」を促進させ、国民的食糧生産と明るい漁村づくりの礎となり、その価値は悠久である。』
なぎさ百選「椿山海岸」の碑(平成8年7月20日・日本の渚百選中央委員会認定)。