幸畑熊野宮。社号標紀年銘は昭和9年3月31日。御祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命。
かつての桑畑村で享保11年(1726)頃に幸畑村に改称(境内由緒では宝暦年間)。熊野宮の創建は不詳。
寛永8年(1631)に村中安全のため再建。当初は新山宮とも熊野大権現とも称しており、貞享元年の神社書上帳によりますと、新山権現宮50間に30間(五反歩)、御宮一間四方、別当和泉太夫とあります。貞享4年検地水帳によりますと熊野堂地、権現堂地が見えます。安政2年神社書上帳にも寛永8年再建の新山宮がみえます。
明治3年に神仏分離により仏体を廃して熊野宮に改称。安政2年神社書上帳に見える白山権現や稲荷宮は神仏分離に際して熊野宮に合祀されて廃堂。明治6年3月筒井村稲荷神社と共に横内村大星神社へ合祀、同8年2月復社、同9年12月村社。
境内由緒板より…『春季例祭4月14日、大祭8月14日、秋季例祭11月14日。境内…二反一畝七歩(明治44年更に三反四畝)。由緒…本社は勧請年月日不詳であるが古伝によれば延暦11年(792年)蝦夷の宮崎村に酋長甲田丸の領地甲田村があった。天正13年津軽為信公の外浜一統後、其の領土に屈し独立した一村を形成し、上深持、中深持、下深持の三枝村となった。貞享以前に畑に桑を植え、養蚕を生業としてあったので桑畑村となり、宝暦年間に現今の幸畑村になったようである。酋長甲田丸の鎭護の祈願所として創建され、後に熊野大権現として五穀豊穣の守護神として寛永8年(1631年)村中にて再建、更に明治10年改築、昭和29年4月に新築幸畑村中の守護神として広く崇敬をうけ現在に至っている。御神徳…「蟻の熊野宮詣」といわれるように常世の國・永遠の安楽世界を具現してくれる神である。更には産業発展の守護神でもある。昭和62年4月14日』
幸畑在郷軍人鳥居寄附人名碑(大正13年旧7月14日)。
境内に小川が流れています。
石灯篭一対(昭和59年8月14日)。
狛犬一対。
台座紀年銘、昭和5年旧7月14日。
奉納馬(昭和27年旧7月14日)。
かつての手水鉢。
四基の石。左の2基は猿田彦大神と青面金剛像。右2基は不明。
社殿。
向拝。
社殿内。
本殿覆屋。
境内末社の稲荷神社。
由緒にあるように、恐らく神仏分離に際して熊野宮に合祀された稲荷宮。
本殿裏手は鎮守の杜。森の奥、境内の隅(道路沿い)にも石碑が見えます。綺麗に草刈りされていますが、途中に細い水路があったので足元に気を付けて(橋あり)。
正面の5基は猿田彦大神と馬頭観音碑でした。一番左の碑に「猿田彦大神移転碑」(昭和58年11月14日)とあるので、近郊から集められたものでしょう。大体そういうものですが(笑)真ん中の馬頭観音碑(昭和37年11月17日)の文字は「馬堂観音」でした。その隣の猿田彦大神碑には「天鈿女尊」とも刻まれています。
御神馬もおります。
紀年銘は昭和27年旧7月14日。
甲田丸碑(昭和58年11月14日)。
裏面には「甲田丸旧蹟について」と題し、郷土史家の説明が書かれていますが、この石碑が光を反射してとても見辛かったので読みませんでした。上記の由緒にも出てくる蝦夷の宮崎村の酋長甲田丸の領地について書かれているのでしょう。甲田丸についてネットで少し調べてみようと思いましたが、「八甲田丸」と「真田丸」ばかり出てきたのでやめました(笑)興味のある方は現地でこの碑を読んで下さい。状態はいいので十分読み取れます。