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Channel: くぐる鳥居は鬼ばかり
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豊良館跡 ・ 豊良八幡宮 (十和田市洞内)

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豊良八幡宮案内板より…『十和田市大字洞内字舘鎮座。●祭神:誉田別尊。誉田別尊にして、応神天皇の御名なり。御父君は仲哀天皇なり。御母君は息長帯姫命にして神功皇后なり。●由緒:豊良八幡宮の由来について、その年代不詳なるも古老の言い伝えによれば豊良村の西方約800米に位置する上豊良村の(わらど)の地に八幡宮が祭られたのがはじまりといわれ、その後同村三代の地に遷座し、更に霊地を求めこの舘の地へ慶長17年(西暦1612年)4月15日に遷宮鎮座されたと伝えられている。明治6年4月には、村社となり、洞内村一円を霞として広く鎮守し、尊崇されている。●例祭日:4月15日、9月15日。●建立趣旨:豊良八幡宮鳥居建立にあたり、時あたかも第125代天皇(平成天皇)ご即位の礼御大典の秋、これを記念すべく崇敬者により、神社境内に大鳥居建立奉納することを決意し、その実現をみるにいたりました。絶えることのない地域の人々の敬神の誠によって御神徳が高められ、八幡宮の興隆と地域の発展を祈念するものであります。併せて世界の平和と日本国の一層の繁栄を願い、永久に後世へ伝えるため建立するものであります。なお、神社に駐車場を取得整備し奉納いたしました。平成2年8月25日。(建設委員長名・委員名・寄進者名省略)』
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文献によっては慶長3年の創建といわれ、初め上豊良に建てられ、後下豊良に移り、3度目にして現在地になったと書かれています。豊良館跡に位置しており、館神として崇敬されてきたものと考えられます。新撰陸奥国誌によりますと「鎮座の年代不詳ならず、神官新館村八幡宮准祠掌新館正定司る。由来は新館村八幡社の条に見えたり」としており、その条には「七代立光院宗元明治二年三月復飾し新館時衛と改め神職となり、同六年三月孫旧恭敬院新館元義嗣ぎ洞内村八幡宮祠掌となり当社を兼勤し、九代は即新館正定にして当社を兼勤す」とあります。
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青森県神社庁HPによりますと、江戸期には修験道天台系本山派に属しており、宝暦5年(1755)地面堂社書上帳(多門院文書)には若宮八幡宮と見えます。延享3年(1746)霞小村割渡指置覚によりますと洞内、五拾貰田こぬきた、分豊良、豊良、中村、はだち、あしな沢、樽石の8ヶ村を霞場とし、宮元坊が別当を務めています。文化18年でも霞8ヶ村は変わりませんが、分豊良が小田になり別当は宝行院。
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祭りじゃー!って思ったけど、終わった後なのか、準備中なのか…
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社殿。
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唐破風懸魚。
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蟇股。
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木鼻。
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向拝神額。
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社殿内。
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手水舎。
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狛犬一対(大正9年旧4月15日)。
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石灯籠二対。
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本殿鞘堂。
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本殿裏手は館跡を思わせる崖。
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御神木。
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御神木(夫婦風)。
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神楽殿。
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豊良八幡宮碑(明治42年旧4月15日)。
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日露戦役紀念碑(明治39年4月15日)。
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手水石と不明の石。
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豊良館跡。
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『本館跡は舌状台地先端に位置し東・北・西の三面は深い谷に面している。館の規模、遺構、遺出物等については、本格的な調査がなされていないので正確なことは殆ど分かっていない。一説では、郭内の少し小高い所に二つの不正六角形のものがあり、それ故、「六角館」と呼ばれたというが、それについては他の場所だという説もある。元来この館は蝦夷館と思われているが、天正19年(1591年)におきた三戸と九戸の抗争(九戸の乱)のおりに、三戸側の豊良弾正が九戸側の七戸家国に急襲された所とも。また逆に、九戸側に加担して九戸城で最後を遂げた戸伊良監物(豊良監物)の居館であったともいわれているが、両者とも確かなことは分からない。殊に前者については、口伝の域をでないようである。しかし、何れにしても現段階では、武将たちが本館を利用した形跡は確認されていない。ここの東方に、本館より大きい100m×75mの向館と呼ばれる蝦夷館があるが、本拠地は本館のほうであったと推定されている。なお、本館とは直接関係ないが、館跡周辺には縄文時代の土器類が多数出土している。平成22年3月6日十和田市文化財保護協会』
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豊良館跡略図。
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神社の近くに「荒屋平開拓者・陰の功労者・中野留八」という案内看板が立っていました。
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『荒屋平の開拓は、県南地方三大開拓者の一人といわれる七戸町の工藤轍郎によって、明治14年(1881年)からその生涯を通して達成された一大事業である。17集落の放牧地の開墾の同意を取り付け、難工事の末成功へ導いたもので、開墾面積は豊良集落関係93町歩を含め約382町歩(約382㌶)、移住農民243人、付近集落の小作人214人に及ぶ。この偉大なる事業推進を陰で支えたのが中野留八である。留八は、明治元年11月4日洞内村豊良(現十和田市豊良)に生まれた。その頃地域には小学校が未だなく、文字を学ぶ機会がなかったが、早くから大工見習に入りその実力が認められていた。30歳頃には荒屋平の開拓に参加していたが、その名を高めたのはこの開拓の天王山というべき熊の沢用水・とりわけ757間(1463㍍)に及ぶ梅山トンネル開削の成功であった。監督を任された留八はトンネルの西側から、東京からきた技師は東側から掘削を始め、途中、接合点で約4尺(1.3㍍)の食い違えがあるなど工事は難航したが、ついに明治37年(1904年)に成功したのである。以後、留八は轍郎に「生涯の同志」と信頼され、陰になり日向になって工藤農場を支えていったが、昭和23年8月30日、79年の生涯を閉じた。平成22年3月6日十和田市文化財保護協会』
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神社との位置関係。
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