右回りで参拝してくださいとありましたが、記事の順序はバラバラです。
境内の用地は約53,000㎡(1万6千余坪)あり、神域内には樹齢数百年を経た老杉が立ち並び、古来より「八幡山」と呼ばれ、親しまれています。
旧郷社。祭神は誉田別命、天照皇大神、天児屋根命、ほか10数神。
正門前には朱色の太鼓橋がかかっています。
池には河童が住んでいます。
正門は国指定重要文化財。
扉部分には当地では珍しい乳金具(乳房の形をした釘隠し)が付いており、本殿と同じ六葉の文様もあります。
南部氏の氏神・盛岡藩の総鎮守で、奥州二宮または南部一宮と呼ばれ(奥州一宮は宮城県の塩釜神社)、盛岡・八戸南部領随一の神社。八戸城の南西に位置し、根城の地(根城南部氏の本拠)へ通ずる国道104号(三戸街道)東側に所在。
仁安元年9月加賀美二郎遠光(南部氏遠祖)が甲斐国巨摩郡南部荘に新羅三郎義光を祀り八幡宮を創祀し、承久2年(1220)になって戦功によって奥州糠部郡を所領とした南部光行が家臣津島平治郎に命じて滝沢村(十和田市)に勧請、その後現在地に遷座したといいます。
「南部史要」は建久2年(1191)南部実光(光行の子)の勧請で、貞応元年(1222)櫛引村に移ったとします。また別伝では当初は三戸郡南部町の八幡宮(本三戸八幡宮)に勧請されたとするなど、創祀には未詳な点が多いです。南部氏と当地との関係は元弘3年(1333)根城南部氏4代師行の奥州下向に始まるとされ、その頃本領である甲斐国南部荘から勧請したとも考えられます。師行が祭祀を復興し、流鏑馬の神事を始めたと伝えるのもその反映かも知れません。
いずれにしましても、所在地からみて根城南部氏によって氏神として創祀されたことは確かです。なお、当社は四戸八幡宮とも称しますが、これは櫛引村を領していた光行の四男宗朝が四戸氏を称したためといいます。正平21年(1366)8月15日の四戸八幡宮神没注文案によりますと、この時には既に放生会に流鏑馬・相撲・競馬が行われ、「一番四戸、二番八戸、三番一戸」というように15番まで神役が定められています。
応永22年(1415)三戸南部氏13代守行が再興したといいます。このことは根城南部氏の努力が衰え、代わって傍流の三戸南部氏の勢力が強くなったことを示します。寛文4年(1664)の八戸藩設置以後も当社がある八幡村は八幡藩領に取り囲まれた盛岡藩の飛地になっており、盛岡藩設置直後からは藩の総鎮守として崇敬されたと考えられます。
別当は天台宗上野寛永寺末の普門院で、御許山神宮寺と号しました。衆徒は坂本坊・本覚坊・竹内坊・藤本坊・桜林坊・吉水坊の6坊があり、神主は松田左門と称し、他に神事の獅子役として禰宜1人、神楽男に社人5人、八乙女8人、宮仕人1人がいました。別当普門院は当初八幡氏、中世には赤沢氏、江戸末期から小笠原氏を称します。
拝殿、幣殿、本殿とあり、こちらは拝殿。
桁行15年・向拝3間・入母屋造・銅板葺。
昭和59年(1984)11月に竣工。
茅の輪がありました。
拝殿内。
3代藩主南部重直の本殿は正保2年(1645)に、釿立てをして、3年後に竣工。宝永2年(1705)及び延享年間(1744-1747)に大規模な修理を行ったと伝えます。もちろん国指定重要文化財。
三間社流造で、向拝や蟇股に唐獅子・動植物の極彩色の彫刻が施されています。江戸時代前期のものですが、桃山時代の遺風が察しられる名建築。
南部藩総鎮守に相応しく、当時の規矩にかなった正規の構造手法が認められるものであり、その構えは壮大かつ優美で、屋根の流れの曲線の美しさは特筆に値します。
手挟(桐に鳳凰)や木鼻(獅子)等の彫刻も素晴らしいです。
六葉。
御室です。櫛引八幡宮の七不思議の一つ。足下の横板に切られた栗の形に似たもので、悶破稲荷神社の稲荷大神の使いの白狐が祀られていると伝わります。
かつて八戸の街中が焼け落ちた八戸大火の際、白狐がここから出て本殿の周囲を廻り災いを伝えたと云われます。
本殿左の脇障子には鷹にメドツ(河童)。メドツの説明については、後日改めて詳しく紹介させて頂きます。
本殿右の脇障子には梅に鶏太鼓。一番鳥が一番太鼓に乗り、朝一番に鳴くという縁起のいい彫刻です。
祭礼は旧暦4月15日と旧暦8月14、15日で、4月15日には湊村場尻まで御浜入の御輿渡御がありましたが、根城南部氏時代には時々八太郎村の蓮沼明神への渡御があったともいいます。8月の例大祭では三戸、七戸、遠野の家中の士が流鏑馬を奉納。所在の農民が作った八幡馬はこの日境内で売られていたもので、郷土玩具として有名。お正月には初詣の参拝の方々が長蛇の列をつくり、新年を告げる大太鼓が打ち鳴らされると1年の幸せを願う人でごったがえします。
以下は櫛引八幡宮のHPより。
『櫛引八幡宮は南部家初代光行公の草創と伝えられる。南部家文書(八戸根城南部家・『八戸家系』、『八戸家傳記』)によると、文治5年(1189)平泉合戦に戦功をたてた光行公は源頼朝から糠部郡、岩手県北部・青森県東部の広大な地域)を拝領し、建久2年(1191)に入部、後に家士を遣わして甲斐南部郷の八幡宮御神体を奉持せしめ、霊地をトして櫛引村に 宮社を造営し武運長久を祈ったという。「櫛引八幡宮縁起旧記」によれば、このとき遣わされた家臣とは津島平次郎で、平次郎は宮地が決まるまで六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営んで奉祭した。また、甲斐から別当僧の宥鑁が供奉し、別当普門院の祖となったという。津島平次郎の子孫に当たる滝沢家は八幡宮の鍵守として、普門院とともに代々祭礼を取り仕切った。また、『櫛引八幡縁起』には、櫛引村に大同年間(806~810)に坂上田村麻呂が祀った八幡宮の小社があり、同神同体であるので瀧ノ沢の仮宮からこの地に遷座したとある。以後、櫛引八幡宮と称し、南部の総鎮守となったのである。』
櫛引八幡宮HP
以下は青森県神社庁HPより。
『南部家初代光行公の草創と伝えられる。文治の役(1189)世に云う平泉合戦にて戦功をたてた光行公は、源頼朝より糠部郡を拝領し、建久2年(1191)に入部したという。その後家臣津島平次郎と天台の僧沙門宥鑁に命じ、父信濃守遠光公(加賀美次郎)が甲斐国南部の郷に仁安元年(1166)に祀っていた八幡明神をこの地に勧請し、津島平次郎の所領六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営ませ、更に霊地を求めさせた。御神託により四戸の櫛引村に延暦・大同の頃(800年頃)に坂上田村麻呂が祭った八幡宮の小社があることがわかり、同神同体なので、社地をここに定め、貞応元年(1222)社殿を造営し遷宮鎮座した。これより櫛引八幡宮と称し、南部領総鎮守として尊崇される。』