三戸町二日町。初めは二日町旧東北電力三戸出張所の場所に建っていました。創建不詳。明和4年の二日町屋敷書上帳には毘沙門社として記されています。文化13年に同毘沙門屋敷を他へ売却してしまいました。しかし御堂はそのまま建っており、天保9年4月16日の火事で焼失。二日町町内の松尾紋左衛門、種市和蔵(土橋酒屋)、伊勢屋与七郎、同五兵衛(五九酒屋)、同新右衛門、若松屋庄助の6人で、銭五十貫文を負担して焼けた屋敷を買い戻しました。別当は東学院(現三戸大神宮山崎家の先祖)、本尊は土橋酒屋(松屋寿氏先祖)の寄進。土橋酒屋の別家狩野尾家にも火災に遭って損傷したと思われる毘沙門天が保存されていますが、これは前記天保の大火のとき破損したもので、土橋家で新像を納めたとき旧像は狩野尾家で保管することになったものであろうといわれます。
この毘沙門天も明治の神仏混淆禁止によって廃社となり、屋敷地は再び売却されました。売却代金の額は明らかではありませんが、戸長が保管していて、明治19年のコレラ流行のときなどに予防費に流用したといわれます。売却した敷地に御堂をそのまま置くわけにもいかず、桐萩の川守田家宅地の一部を借り受け移転しましたが、5~6年で桐萩が貸座敷免許地となり、また移転することとなり、梅内の共有地域子山(八戸公共職業安定所三戸出張所付近)に御堂を移しました。このとき小原半七(金文家先祖)らが大いに尽力したといいます。その後、二日町、在府小路の人たちが毘沙門講を組織し、御堂の維持にあたりましたが、長くは続きませんでした。山本善吉夫妻が堂守として長年奉仕し、屋根替えなども募金して取り運んでいました。
また、いつの頃からか沼尻の子安尊の分霊を得て堂内に祀っていました。昭和4年頃、上在府小路の青年会で子安尊の御堂を新築する時、毘沙門天も併せ祀りたいと交渉がありましたが、二日町では応じず、城子山から引き上げることとし、さしあたり、下在府小路にある若庄家の宅地の一部を借り受け仮堂を建て、内御堂もそのまま移しました。昭和10年、久保豊治家より宅地一部120坪を建物付き1千50円で買い取り、町内の共有としました。ここに毘沙門天が移ったのは昭和22年と記されています(小笠原庄助手記)。
隣の建物。こちらは子安尊なのかな。
社殿の前にあった石。何となく子安地蔵尊に見えてきますね。
社殿内。
うん?あれは恐らく金精様ですね。かつての遊郭からも近い場所ですが、遊郭の一角にはコンセイサマを祀る小祠があり根清大神と呼ばれているらしいです。かなりの数(20本以上)の男根(金勢大神)と女陰石があるそうです。この根清大神は現在も程近い梅内桐萩・梅内城ノ下付近にあります。同心町の熊野神社にも立派な金勢様がありますね。