国道102号線沿い。広瀬橋の近く(中掫の船渡場(江戸~明治)跡付近)。
一の鳥居の横の石。
一の鳥居の横に十和田山の碑。
「安政6己未年8月吉日・江渡音藏」。
十和田山の碑…『南部盛岡藩士・新渡戸傳は三本木原開拓を決意し安政2年(1855年)4月、開拓願書を藩に提出した。8月に許可され三本木新田御用掛となり工事に着手した。稲生川用水の掘削中は中掫の江渡屋忠兵衛宅が宿舎兼開拓事務所となり、矢神にも飯場が建てられた。用水工事の技術者(現岩手県北上市)である吉助・力蔵・理作・理吉たちは経験から大地を切り開く工事の難しさを知り尽くしており、山の神の信仰者であった。また、花巻から三本木原開拓のために傳の供として当地に来た音蔵(乙蔵)は、江渡屋忠兵衛の婿養子となった。音蔵は稲生川上水成就は、「山の神・十和田山」のご加護によるものと考え、安政6年(1859年)5月4日の上水成功後、8月にこの「十和田山の碑」を建立した。音蔵は翌年の万延元年(1860年)7月17日、中掫で病死した。』
当馬頭神社の由緒等については調べていません。
三本木村は寛政5年の「北行日録」にもあるように昔から放牧地でもありました。馬と縁の深い地です。近くには十和田乗馬倶楽部もあります。
社殿向拝。
社殿内。
手洗鉢(昭和5年旧6月15日・田中馬之助)。
石灯篭一対(大正3年旧8月15日)。
狛犬一対(阿形:昭和13年12月31日・日支事変凱戦記念。吽形:昭和14年旧3月15日)。
末社。
石が奉納されています。