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Channel: くぐる鳥居は鬼ばかり
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砥鹿神社 (三戸町泉山)

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馬淵川に架かる梅泉橋(梅内と泉山間を結ぶ渡し場)の近く。余談ですが、馬淵川には留と呼ぶ魚簗が設けられ、鮭・鮎・鯰などが捕獲されていました。大留は泉山村と梅内村の間に設けられ、初鮭は藩主に献上される慣習でした。船場姓は梅内村に限られることから、大留は梅内村と泉山村の組合で経営していたものと考えられます。
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砥鹿(とが)神社。砥鹿神社といえば、愛知県豊川市の砥鹿神社(延喜式内社。三河国一之宮。旧社格国幣小社。現別表神社)が有名ですね。近くには藩の祈願所とされていた月山神社もあります。ちなみに地図や鳥居には「砥鹿神社」とありましたが、拝殿神額及び社号標は「宗善社」でした。社殿内の神額は「砥鹿神社」。資料等には「砥鹿神社(宗前)」とありました。
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社号標。
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手水石。
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狛犬一対(昭和16年旧8月21日)。
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狛犬の台座。
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社殿内。
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本殿。
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向って右に十和田社。十和田社の前に獅子頭があります
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向って左にも小祠があります。何かはわからず。宗善社なのかな。
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その上に「龍ヶ池宗善社縁起略」がありました。
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「龍ヶ池宗善社縁起略」…『第56代清和天皇貞觀13年4月京都綾小路關白として名高き藤原是實公は讒者の毒舌に觸し妻子を伴ひ人つてもなき陸奥地方をさして放浪の旅を續け気仙の岡に辿り假の舎殿を造營し暫時の住家とせるに間もなく是實公他界せられ其の嫡子是行公の代となり奥方と共に糠部馬渕川の邊まで来られ霊験觀音の御堂へ着かる別當藤原式部と會い兄弟の契りを結び名を宗善と改めたり後一子南祖丸を生む南祖丸十和田湖の主となる宗善公は奥方没後馬を数多牧し餘生を暮したり然るに不思議なることは如何なる悍馬も宗善の厩に入れば直ちに悪癖が直り名馬となる里人之を奇とし宗善の没後に其霊を祀りて一宇を建立し馬頭觀音を稱へ其の徳を偲ぶ之れ南部地方の宗善社の起源なり後世南部藩祖光行公糠部に封せらるや代々馬産を奨励し池月慴墨太夫黒等の名馬を産して今に尚馬産を以て全國に名あり。名久井岳天神下龍ヶ池に祠を建てしは源義家公奥州征伐の時代なりと云ふ後世里人龍ヶ池を馬に因みて駒池と稱す 昭和九年六月龍ヶ池宗善社建立に付 阿保親徳誌 祠堂守藤川直太郎謹白』
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これですね(名久井岳登山マップより)。
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初藤号顕彰奉納蹄鉄。
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鳥居奉納(昭和24年2月11日)の由来が書かれた文にも「宗善神社」とありますね。
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その他絵馬など。
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