創建は治承4年(1180)以前の平安時代。
御祭神は宇迦之御魂神、宇気母智之神、和久産巣日神。江戸時代は神仏習合にて、絵図には『倉稲魂命、聖観世音、薬師如来、陀枳尼天 別當金輪寺」とあります。
大変立派な門ですが…
なぜか「いなり幼稚園」の敷地になっていて通れません(休園日には通れるみたいです)。
幼稚園内に市杵島神社(弁天様)が…。
遠くから眺めるだけ(笑)
位置的にかつては手水舎だったと思われるのですが…現在は幼稚園の砂場…こんな立派な砂場見たことない…いや、砂場に屋根必要!?(笑)
門前に額面著色鬼女図の説明板がありました。
『日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真作の額面著色鬼女図は、天保11年(1840)2月初午に、江戸住吉の砂糖商人の同業組合である明徳講が、商権の拡大を願って奉納した絵馬です。絵馬は、凡そ縦190cm、横245cmの大きさで、画面いっぱいには、酒呑童子の家来茨城童子が化けた鬼女の姿が描かれています。源頼光の家臣渡辺綱は、女に化けた茨木童子の退治に出かけ、その女の片腕を切り取ってしまいました。六日後のこと、鬼女は、切り取られた腕を取り返すべく、渡辺綱の伯母に化けて、綱の屋敷を訪れます。鬼女は、腕を取り返すや否や、伯母から変して目を怒らせ、口を開き、疾風のごとく空中に飛び去りました。この画の麗美な衣装とグロテスクな面貌との対照が場面の凄みを高め、人々を慄然とさせ、是真の名を世に知らしめる契機となったと伝えられます。』
正面参道は諦めて、稲荷坂の途中から境内へ。
狐様がいっぱい。
何て穏やかな表情でしょう。
史料館。
史料館前にあった石燈籠。
千種庵霜解歌碑。
神楽殿。
手水盤。
今回通れなかった参道…こちらにも柵があります…幼稚園め(笑)
参道石段上の狛犬。
かつての荒川流域は広く、その岸に鎮座していたことから古くは岸稲荷と呼ばれていました。
康平年中(1058-1064)、征夷大将軍源頼義により関東稲荷総司の称号を得ます。
元亨2年(1322)、領主豊島氏が紀州熊野神を勧請し、王子神社を祀ったことから王子という地名となり、合わせて当社も王子稲荷神社と称するようになったそう。
小田原北条氏に次いで、徳川将軍家代々の祈願所となり篤く崇敬されます。
現在の社殿は11代将軍徳川家斉公により文政5年(1822)新規寄進されたもの。
本殿は戦災により失われ、昭和35年に再建。
社務所前から更に奥へと進みます。
石燈籠や歌碑などがありました。
本宮。
本宮前の稲荷狐。
本宮から更に奥へと進みます。
摂末社。
亀山稲荷神社。
嬉野森稲荷神社。
北村稲荷神社。
御石様。
願い事を念じながらお石様を持ち上げ、予想した重さよりも軽く感じたら願い事が叶いやすく、重く感じたら叶いづらいので努力が必要とのこと。
石油王になれますように…。
さて、更に奥へと…
っていうか少し上へと上っていきます。
到着。
石祠。
落語「王子の狐」で有名な狐の穴跡。