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田名部神社 (むつ市)

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青森県むつ市田名部町。本州最北下北半島總鎮守田名部神社。
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御祭神は昧耜高彦根命、誉田別尊、宇曽利山大山祇大神、管下神社大神。
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恒例祭1月1日・8月20日。例祭(田名部まつり)は8月18日から3日間(かつては旧暦7月18-20日。明治3年より現在の日程。)行われ、市民はもちろん下北郡下の夏祭として盛大に催されています(下北最大の祭り)。北前船によって伝えられた京都祇園祭の流れを汲むもので、「北のみやび」とも称され、お囃子と共に豪華絢爛な山車が市内を練り歩きます。期間中は「おしまこ流し踊り」や「樽みこし」も披露されます。20日の深夜、5台の山車が一堂に会して樽酒を酌み交わし、来年の再会を誓う「五車別れ」でクライマックスを迎えます。
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歴代南部公を始め庶民の崇敬が篤く、大祭には南部公代参としての田名部代官参社のもとに祭典が執行され、祭典の開始と終了は早馬で盛岡の本藩まで報告されました。田名部通り本村三十三ヶ村からは、それぞれの町名を記した燈篭が献燈され、大畑町は延享元年(1744)、川内町は安永6年(1777)に町名を許されていました。この大畑と川内の大燈篭は三十三燈篭の双排といわれました。なお、菅江真澄の「牧の朝露」によりますと、寛政5年には既に現在の運行形態に近い状態であったことがわかります。『(前略)夜明けから、きょうの神楽の準備をして、しめなわをひきわたし、津々村々から奉った灯籠をかざり、神前を清らかにして、たくさんの机のようなものに小さい神輿を奉ってある。(中略)祭を見ようと、めかりかつきの女や、木こりの女房などが出でまじっている姿をみれば、赤い手拭のようなもので頭をつつみ、あるいは黒い絹の布のかぶりものをし、裏のあけむらさきの衿を外に折りかえし、目ばかり出して、また薄いひとえを着て前垂れをし、脛をあらわにだしている。そして声高く人をよんだり、また臆して自分の言いたいことをも言い得ないでいる人もあり、子供たちは、うれしげにはしゃいでしまっておしゃべりしたり、また思いがけなく会った人にむかっては、久しぶりと声をながめてあいさつしている。さきばらいの声で道路の人をはらいながら、祭の行列がおごそかにねりあるき通り過ぎた。山車にはそれぞれの人形をつくってのせて、紅白のまんまくを引き、四つの車輪をとどろかせ、笛太鼓ではやして、そのあとにみこしが出てきた。こうして一日じゅう、はやしたてねりあるいていく行列に、信心ぶかい家の主人は土に塩をまき、おみき徳利に酒をついで、神前に高くささげ出て、みこしを拝み、ぬかずいていた。日が暮れると例の灯籠を軒ごとにかけて、道のここかしこに山車をとめると、まだ暑さがあるうちは盆踊ものこっているのだといって、太鼓をうち、男は女に変装し、女は男の姿をまねて、とりどりに声をあげ、たわむれ踊っている。連日の踊も今日が最後だと思うのだろう、声をはりあげて、「そろうたそろうた稲の出穂よりなおそろた」とうたっている。それを「おどれおどれ、踊は豊年にするためのあそびなのだ」と、老婆がさしのぞいて言った。』
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大鳥居奉納記念碑。
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寛政12年に大坂通功丸堺屋兵助・田名部熊谷又兵衛・山本理左衛門・山本市郎兵衛・熊谷与兵衛の5人で寄進した鳥居があるそうですが、社号標(熱田神宮宮司篠田康雄謹書)の横にあるこの鳥居のことかな。額束には「惣鎮守」とありました。
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石鳥居脇の石灯籠。
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石鳥居裏付近の石灯籠など。
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末社。
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田名部神社は旧郷社。御祭神は味耜高比古根命・誉田別尊。旧来、示現太郎大明神と称し、旧城門の東門外東北の方館の内にありました。後に明神町の八幡宮の地に遷座。旧明神町に位置しており町名の由来となっています。元和年間の田名部の火災で古記録を焼失しており縁起は不明ですが、康永4年銘の鰐口がありそれ以前の創祀と考えられています。往古大平荒川の一本松に勧請と伝え、菊池某は一本松から奉遷の際、御神体を背負って来ました。また、一説には菊池氏の前に芦野藤兵衛なる者が、明神の社殿を寄進。社伝には、神代の小笠原氏は甲州の人で兄弟4人。1人は八戸南部家に仕え、他の1人は遠野南部弥六郎に仕えました。その後、小笠原出雲が、栃木県宇都宮市に鎮座する二荒山神社の分霊を戴いて守護したといいます。宝暦年間の御領分社堂には「正一位大明神宮」と見え、治郎右衛門が俗別当を務めていました。寛政年間の邦内郷村志には「大明神堂」とあり、近世末期の南部領寺社鑑写には「示現太郎大明神」と記されています。元和9年・寛文元年・元禄6年・享保17年の棟札が残っていたそうです。近世期には田名部通の総鎮守といわれ、田名部代官所より祭事係が出張して宰領。神輿渡御は5,000石の格式で行列を整え、先乗後乗の騎馬及び鉄砲10人、立弓5人、槍・薙刀・挟箱・伊達道具・鎧武者・徒士同心らを供奉して荘厳を極めました。山車は横迎町の稲荷山・小川町の猩山・柳町の大黒山・本町の蛭子山・新町の香炉峰と5町内から繰り出し、その様式や囃子は京都祇園祭に倣ったそうです。祭典の開始と終了は早馬で盛岡まで報告したといわれています。明治6年田名部館跡にあった八幡宮に合祀され、後に共に現社地へ遷座して同9年に現社名に改めました。
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青森県神社庁には『海辺総鎮守、北郡総鎮守、田名部大明神当神社の創立年代は元和二年(1616)社殿記録等火災のため焼失し不明であるが、康永4年(興国2年、1341)の鰐口と年代不詳の古鏡が残されている。当神社の祭典は江戸末期まで田名部五千石の格式で執行されていた。「元和九年暢月吉日別当丹後の棟札あり、味租高比古根命、社号示現太郎大明神と称す。本来関東宇都宮より万民守護のため宇曾利山へ御飛来候寄特の御宮にて、神領百石被行其時私先代小笠原丹後神主被候より私代まで十八代別当仕候。尤も神領百石は当国主へ被引上申候。寛永十九年五月、俗別当宮内治左門」、南部藩参考諸家系図によれば三十二代社司小笠原磐美の祖、勝盛は宮田と称し射術の達人で、南部二十九世重直公、八戸南部始祖直房公の御弓の師範であった。小笠原の子孫は代々当神社に奉仕している。』とあります。
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田名部神社HPによりますと、『当下北半島總鎮守田名部神社の創立年代は元和2年(1616)の類焼のために不明であるが、康永4年(興国2年・1341)の鰐口が残されている。寛永12年(1635)盛岡城事務日記によれば、当大明神は関東宇都宮二荒山より万民守護のため宇曾利山に御飛来、大平村荒川一本松に鎮座のところ、二十二代先別当小笠原丹後霊夢により田名部村に動座し、神領百石を有し海辺總鎮守・北郡總鎮守・田名部大明神と尊稱され、柳町の高台に鎮座していたが、元和2年に社殿記録等を焼失し明神町に動座している。下北半島は平安鎌倉時代より明治11年明治政府により郡制が施行され奥州南部北郡が上北・下北の二群に分離されるまで、田名部や田名部通と稱していた。慶仁のころから天下はおおいに乱れ、北郡各地には南部氏にされるまで、小笠原・蠣崎・菊池・工藤・安宅・新谷・広瀬の豪族がいたが、根城南部氏の統治により蠣崎氏は松前に移り、工藤氏は根城南部氏の籍に入り、安宅・広瀬氏は藩命により三戸の切谷村に転じ、小笠原氏は民に帰し現在に至った。小笠原には、宮内・宮田・坂本・菊池・葦谷・赤星等の一族郎党がいた。 宮田勝盛は小笠原磐美の祖で、射術の達人で、南部二十九世重信公、八戸南部始祖長房公の御弓の御師範であった。』とあります。
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鉄筋コンクリート造の拝殿。向拝神額。
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向拝は「たなぶ星まつり」ver。
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七夕飾りが素敵です。
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拝殿内。
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社殿横。
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幣殿・本殿覆屋。
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手水舎。
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その他手水石。
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拝殿前石灯籠一対(昭和43年8月)。
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拝殿前狛犬一対(昭和49年8月吉日)。
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社殿横へ。
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神楽殿。
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社務所。
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社務所前・本殿横。
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手水石。
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忠魂碑(正三位子爵伊東祐亨書・初代連合艦隊司令長官)。
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忠魂碑(山縣有朋書)。
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殉國碑。
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こちらはよく見えず。
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齊地三司君碑かな…違ってると思いますが。
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田名部戦没者招魂の像。
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田名部戦没者招魂像の狛犬一対。
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狩猟鳥獣慰霊之碑(昭和50年9月吉日)。
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夜の田名部神社は妖艶でした。
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田名部まつり(田名部神社例大祭)を紹介できなかった代わりに、居酒屋に飾ってあった稲荷山(むつ市横迎町・先山)の山車(ヤマ)と、ホテルに飾ってあったむつライオンズクラブの神輿を紹介します。
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以下田名部村についてのメモです。長いのでスルーして下さい。
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「たなふ」は鎌倉期から見える地名。田名部は古くは田鍋・田南部と書いたそうです。西部には屏風山・釜臥山がそびえ、田名部川と新田名部川が沖積平野の中央部を貫流して南の陸奥湾に注ぎます。地名の由来は、長い川の湾曲した中の地の意味から起こったといいます。地内には縄文前期の女館貝塚(土地造成により消滅)や縄文後期の最花貝塚などがあります。また、建武年間南部師行の目代赤星氏の館跡もあります。後に九州菊池氏の一族菊池正興がここに拠ったといいます。なお、西方の恐山中にある宇曽利山湖及びその周辺の恐山温泉・地蔵堂などの地域は、むつ市の飛地であり、田名部の一部となっています。恐山は下北半島北部中央に噴出する円錐状の火山で、当地の飛地となっている北湖畔には数多くの硫気孔があり、日本三大霊場の1つとされる霊峰。地蔵堂は恐山の本堂で、慈覚大師開山伝説があり、享禄3年田名部円通寺の開山聚覚が再興にあたり山寺号を釜臥山菩提寺と改めたといわれ、本坊・宿坊などがあり、他に賽河原の地蔵堂、納骨堂などの堂塔があります。古くから南部地方では恐山は山中他界、即ち死者の山と考えられており、人が死ねば死霊は「お山」(恐山)に行くと信じられ、人が死んだことを隠語で「田名部へ行った」「恐山へ行った」などとも言いました。江戸期の田名部村は北郡のうちで田名部町ともいいます。盛岡藩領。田名部通に属します。村高は「正保郷村帳」442石余(田408石余・畑34石余)、「貞享高辻帳」553石余、「邦内郷村志」979石余(うち給地187石余)、「天保郷帳」1,108石余、「天保8年御蔵給所書上帳」813石余(御蔵高641石余・給所高152石余・御免地高18石余)、「安政高辻帳」888石余、「旧高旧領」859石余。「仮名付帳」では新町・本町・柳町があり、枝村として関根村・烏沢村が見えます。「邦内郷村志」では、家数354、人数1,997、馬473、牛417、地船15。神社は八幡社・天神社・神明社・釜臥山大明神。寺院は曽洞宗吉祥山円通寺・浄土宗不退山常念寺・真言宗八峯山常楽寺・天台宗大悲山蓮華寺・浄土真宗齢香山徳玄寺・法華宗一乗山善宗寺と海洋山田名部常念寺末慈眼寺・釜臥山田名部円通寺末菩提寺、他愛宕堂・熊野堂が見えます。円通寺には八戸南部弥六郎の先祖の位牌があります。「本枝村付並位付」によりますと、位付は中の下、家数340、集落別内訳は新町55・本町41・柳町64・小河町28・横向へ町43・明神町29・金屋21・落ノ沢2・中山5・女館13・椛山15・栗山24。寛文13年には田名部代官所が設置され、田名部通34ヶ村を統治し、下北半島の行政上の中心でした。そのため下北半島一円を田名部と総称することもありました。江戸後期には北方警備の強化に伴い、田名部代官は七戸・三戸両代官に次いで重要視されます。また、寛文12年には従来の1の日の三斎市に6の日の三斎市が増設されており、古くから下北の物資の集散地として経済的にも中心的役割を果たしていました。このため江戸前期から村内に町場が形成されて田名部町と称し、田名部町には本町・新町・小川町・柳町・横向町が形成され、この5町は田名部五町と呼ばれました。田名部町は湊ではありませんでしたが、田名部大橋の手前に田名部橋前と呼ばれる舟着場があり、川舟が陸奥湾沿岸の大平・安渡の両湊との間を往来し、当地で陸揚げされた物資は陸路で大畑・野辺地など周辺村々に運ばれました。よって湊ではないのにもかかわらず廻船問屋が許され、享和2年には田名部七湊の問屋に田名部町の問屋を加えて問屋議定書を作成しています。享和元年の伊能忠敬「測量日記」には、当地は「奥北に稀なるところにて、寺院・医師其外表立し人々学問を好み詩歌を能くす」と記されており、同2年の「東案内記」には「船間改の番所有…舟ハ日々に津軽米など積込廻舟す。賑ふ繁花の片里なり。市日朔日十一日廿一日也造酒や其外諸商人大店向あまた有」とあります。寛政年間に菅江真澄も当地に滞留して「奥の手風俗」という紀行集を著し、その中でエブリスリを藤九郎と呼ぶことをあげ、民俗文化に関心を示しています。松浦武四郎も嘉永年間に「月六度の市を立て至て繁花の地なり。しかれども此近年領主より度々御用金を取らるゝ故に大に衰微せりと語りし」と記しています。田名部商人では佐藤庄左衛門・山本理左衛門・若山宇吉・渡辺安衛門・丸山理右衛門・木屋善蔵・島谷宗助・川口徳右衛門が活躍。佐藤庄左衛門と山本理左衛門の2店は、大坂廻船御用懸大問屋として田名部通七湊の問屋の総元締で知られます。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、明治4年青森県に所属。弘前藩の支配下では旧盛岡藩の領民が新管理者反対一揆を起こし、この結果黒羽藩の支配となっています。明治2年11月に旧会津藩が当地方に移ってきて斗南藩が立藩されますが、藩庁ははじめ三戸郡五戸に置かれた後、同3年当地へ移転。そして斗南移住者約2,800戸のうち約300戸が当地に来住。この斗南藩庁移転後には田名部町は斗南町と称されており、斗南町は明治初年には新町・横町・横向町・明神町・小川町・北小川町・城内町・上城内・本町・柳町・地蔵町・谷地町・御構町の13ヶ村。また明治初年の史料には金屋・落野沢・石上・中山・栗山・南樺山・斗南ケ岡・女館・北樺山・最花の諸村が枝村として見えます。金屋(金谷)は「草のところ」を意味するアイヌ語系の地名と考えられており、幕末期の東奥沿海日誌では「金屋村・■(金+色)屋村成べし。人家20軒斗」とあります。また明治初年の国誌では「家数24軒。北に山を負ひ南に大川に沿ふ」とあります。金屋には天明7年福岡呑香稲荷を分霊したといわれる針森稲荷と寛文2年創建の稲荷神社があります。落野沢は窪んだ地形に由来すると考えられ、国誌では「本村の西25丁にあり、家数3軒平地にあり、南中山まで5丁」とあり、創建年代不詳の呑香稲荷神社が見えます。神社の床柱には柴四郎・同五郎兄弟の和歌が残っているそうです。明治期のとある記録では、この落野沢は斗南藩士が一部入植した開拓村であり、「新田初五郎の家1軒と、それより50間ほど隔たりたる低き川辺に分家の1軒あるのみなり」とも記されています。石上は国誌では「本村の西北の方10丁にあり、5軒山に沿て住す」とあり、また康正2年南部政経が再営したといわれる北極星を御祭神とした北辰神社があります。中山については「本村の西23丁にあり、家数6軒平地に住す」とあります。明治11年下北郡に属し、郡役所が置かれます。同12年の「共武政表」によりますと戸数524・人口2,921(男1,396、女1,525)、牛311、馬656、船7、学校2、物産は稗・粟・大豆・蕎麦・薯蕷・馬鈴薯・檜材・杉材・松材・硫黄。明治6年木造2階屋の公立小学校が開校。同12年致道中学校初等中学科、同14年初等師範学校が開設。同22年町場の各町も含めて田名部村の大字となります。明治22年の戸数887、人口5,297。同24年の戸数526、人口4,945、厩302、学校4、水車16、船167。商業・農業ともに発達。明治30年頃には津軽地方から農家が移住して開墾に従事。また、宇曽利山(恐山)では、明治初期から硫黄の採掘が行われていましたが、同26年三井鉱山合名会社が宇曽利山鉱業を設けて採掘を開始し、同31年まで続けられました。この時、採掘のために三途川の落口が切り下げられ宇曽利山湖の水面が低下した結果、亜硫酸ガスの噴出量が増加して湖周辺の樹木が枯れてしまったといいます。田名部地内の本町は、商店・銀行・旅館などが軒を並べ、下北地方随一の繁華街として栄えました。大正10年国鉄大湊線が開通し田名部駅が開設。これに伴って田名部柳町を起点に田名部駅まで旅客貨物輸送を目的とし、田名部運輸軌道を同年設立。国鉄大畑線の開通直前(昭和14年)まで経営。田名部字川尻には大正7年大湊興業が設立され、田名部字海老川には昭和12年日本特殊鋼管大湊砂鉄製錬工場が設置され、下北産業開発の双璧といわれました。同14年大畑線が開通し本田名部駅(田名部駅)が開設。昭和5年田名部営林署を新築落成。同18年大湊海兵団が設置されます。
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