馬仙峡公園 ・ 大崩崖
馬仙峡は馬淵川と安比川の合流点から下流の馬淵川の渓谷と、左岸の男神岩・女神岩、右岸の大崩崖一体が指定地となっています。二戸市の南の玄関口、馬淵川中流の清流を挟んでそびえ立つ景勝の地、馬仙峡は昭和25年頃、二戸市出身の故国分謙吉(岩手県初代民選知事)の命名(山梨県にある昇仙峡に似ていることから、馬淵川にある仙境という意味)によるもので、折爪岳とともに、昭和37年に県立自然公園に指定。馬淵川と安比側の合...
View Article丹内神社とイチョウ (二戸市)
岩手県二戸市石切所横長根。男神岩・女神岩(馬仙峡展望台)に行く途中です。車では行けません。奥にはマド岩があります。「タンナイ」様の上にある岩で、穴があいており、くぐることができるので窓岩の名が付いたと云われており、岩の上には山の神の石碑があります。丹内神社は非常にわかりにくい場所にありますが、目印はイチョウというしかありませんね。せめて紅葉していればわかりやすいかも知れません。奥山地区コミュニティセ...
View Article賽ノ神のエドヒガン (二戸市)
奥山と上里の境にある賽の神。村境を守る道祖神です。ちなみにGoogleMapでは「馬頭観音の祠と鳥居・賽の神のエドヒガン」と表示されます。男神岩・女神岩展望台に向かう途中にあります。正面奥に見える巨木は「賽の神のエドヒガン」として知られているようです。エドヒガンは樹齢約300年。市内2番目の太さ。4月下旬-5月上旬には毎年見事な花を咲かせるようです。季節外れですいません。案内板「エドヒガン(バラ科)...
View Article薬師堂 (二戸市石切所)
岩手県二戸市石切所横長根。途中小川を渡ります。跨げる幅ですが。奥山地区の水源となっている場所です。ちなみに薬師堂は男神岩・女神岩(馬仙峡展望台)に行く途中にあります。地図では薬師堂の先、コワ坂に蒼前様があるようですが見つけられませんでした。道幅が狭いので運転に集中していて見逃したのかも知れません。櫛引八幡宮第48代別当普門院小笠原健之助が奥山に住んでおり、相馬大作から兵書武術を学び、後に田中舘彦右衛...
View Article上里の山神 ・ 八幡宮 (二戸市)
岩手県二戸市石切所。鎮座地は小壁平。上里沢との境。参道入口(男神岩・女神岩登山道入口)付近に念佛供養塔があります。ダンヌ坂上。近くには二戸市消防団第四分団第四部屯所があります。ダンヌ坂下にはエゾの館跡「チャシ」と推測されている石切所館・蒼前館。その向こうには大崩崖も見えます。念仏供養塔の紀年銘は嘉永7年(1854)。天保の文字が見えます。天保の飢饉の餓死者供養のようです。「名勝男神岩・女神岩・歩道入...
View Article男神岩 ・ 女神岩 (馬仙峡展望台)
岩手県二戸市石切所。実は何度も挑戦しようと思いながらも、高所恐怖症のため、行くことができませんでした。せめて柵があればね。恐らくあそこに余裕で立てるのは船越英一郎さんぐらいです。結構登っている方はいるようですが。男神岩の頂上をズーム。祠が見えます。この風景を見て、ふとブラタモリ(京都・東山)の京都の比叡山・大文字山を思い出しました。タモリさんみたく、さらっと「う~ん…泥岩ですかね…変成を受けてますね...
View Article釈迦内サンフラワープロジェクトのひまわり畑
秋田県大館市釈迦内高館下。高館公園テニスコート近くのひまわり畑特設会場。7月末から8月上旬頃に「ひまわりフェスティバル」が開催され、ひまわりアイスやオリジナル商品の販売が行われます。私はお盆も過ぎた頃にたまたま通りかかって見つけたので、残念ながらひまわりはほとんど下を向いておりました。釈迦内地区において、昔から地域に根ざした言葉である「向陽」と歴史的関わりが深いことや、「向陽学校=釈迦内小学校の前身...
View Article稲荷神社 (大館市鉄砲場)
秋田県大館市鉄砲場。御祭神は倉稲魂命。例祭日は8月24日。創立年月日不詳。拝殿神額(昭和56年6月10日)。拝殿内。よく見えませんでしたが、左右にも観音様か何かの像が祀られていました。
View Article大館神明社
秋田県大館市中神明町。神社前にある「羽州街道(大館)」より…『江戸時代の初め、国内の交通路は幕府の命令によりすべて江戸を中心に整備が進められました。そもそも参勤交代や領内巡視、鷹狩りなど"公用"に使うためのもので、住民や旅人の往来は制限され、藩境に設けられた関所・番所で取り締りが行われていました。羽前(現山形県)と羽後(現秋田県)の領内を縦断していたところからその名がついた羽州街道は、仙台藩桑折(現...
View Article大館神明社 ~ 其之弐
『大館神明社』からの続き。拝殿内。幣殿・本殿。拝殿横の絵馬。絵馬。猿田彦太神(大舘總願主・安永4年7月)・田代山。猿田彦大神。庚申塔。椿神社。貯蓄紀念碑(維持明治25年11月3日設立)。神明社寶物殿記念碑(明治20年生同年會)。碑文省略。石川孫市碑(正三位勲四等侯爵佐竹義春篆額・大正2年10月4日建・鹽谷時敏書字)…『君名孫市幼名宇之助石川氏自祖至父皆稱孫市母竹田氏以寛政五年正月十六日生其先常陸國...
View Article茂内神社 (大館市)
秋田県大館市茂内膳棚下。私の地図では「龍神社」とありました。かつての茂内村。慶長8年村高40石余と推定。元和年間に諏訪台を中心に大茂内(新田)村を分出、天和3年には東方の長木川上流域部をも雪沢(新田)村として分出。正保国絵図、元禄7郡絵図では郷形を現在の小茂内付近に図示。それでも両絵図とも長木川上流部の茂内屋敷村を茂内村枝郷と注記するも、享保郡邑記以後この枝郷も雪沢村枝郷となります。長木沢八百八沢と...
View Article実相寺 (一戸町)
岩手県二戸郡一戸町一戸大沢。盛岡藩領。享保20年より福岡通に属します。邦内郷村志によりますと神社は八幡社・神明社・稲荷社、寺院に曹洞宗広全寺・浄土宗実相寺・黄檗宗吉王寺が見えます。南無阿弥陀佛。山門前の石塔。「不許五辛酥肉入門」「庚申塔(文政10年正月吉日)」。こちらは墓碑・庚申供養塔。廃仏毀釈の絡みか中央の仏像は首なし。六地蔵。山門。さて、実相寺のイチョウという看板がやたらと目についたので急遽やっ...
View Article田名部神社 (むつ市)
青森県むつ市田名部町。本州最北下北半島總鎮守田名部神社。御祭神は昧耜高彦根命、誉田別尊、宇曽利山大山祇大神、管下神社大神。恒例祭1月1日・8月20日。例祭(田名部まつり)は8月18日から3日間(かつては旧暦7月18-20日。明治3年より現在の日程。)行われ、市民はもちろん下北郡下の夏祭として盛大に催されています(下北最大の祭り)。北前船によって伝えられた京都祇園祭の流れを汲むもので、「北のみやび」と...
View Article松下村塾跡 (竹村記念公園)
大館神明社裏手、神明児童公園隣り。竹村記念公園と松下村塾について…『竹村記念公園は、竹村吉右衛門(1900-1984)が、萩市の松下村塾と原寸たがわずに摸築した場所にあたる。本市に生まれた吉右衛門は、大館鳳鳴高等学校の前身、大館中学校を経て、東京商科大学卒業後、安田銀行に入行。昭和18年本店営業本部長、昭和28年安田生命保険相互会社取締役社長を歴任した。晩年、安田生命(現明治安田生命)相談役にあった...
View Article桜木神社 (大館市)
秋田県大館市花岡町姥沢。花岡桜町。かつての花岡村。寛永元年開村という繋村以下、神山・姥沢・栩内(鳥内)・土目内・新山(二井山)・大森の7ヶ村を枝郷に擁し、下内川流域の寄郷12ヶ村の親郷に指定されています。昭和30年に矢立村と合併して花矢町となり、昭和42年から大館市の大字。市立花岡体育館の裏の桜町會館裏手。かつてここには岐美二柱稲荷神社が建っていたそうですが、地盤沈下により花岡町字神山に移転。隣りに...
View Article六日町田んぼアート (十和田市)
今年も話題の田んぼアート。皆さんはもうご覧になりましたか?うん?田舎館村田んぼアート?!何ですかそれ?青森県内で田んぼアートといったら普通はこれでしょう…六日町地区癒し系田んぼアート!!(※田舎館村田んぼアート関係者の皆様。華麗にスルーして下さい。)十和田市相坂。六日町地区保全管理委員会。田んぼアート自体は六日町地区ではなく、相坂字箕輪川原です。え~っと…向って左から…たけのこ!熊!竹!う~ん…臼!...
View Article若宮八幡宮 (十和田市沢田)
十和田市沢田田屋。十和田市立沢田小学校隣。陸奥沢田郵便局裏手。かつての沢田村。沢田氏系図に「(盛岡藩主)利直公、慶長16年10月12日付八百石、其実797石8斗9升5合也を賜ふ、御黒印あり」と見えるように、江戸初期は沢田氏の知行地でした(その後知行地は失われています)。当村は地勢に恵まれ、生内川を利用して早くから開拓されています。寺院として五戸高雲寺末沢田山東光寺(寛文4年僧逸暁開山)、また三日市に...
View Articleほたて観音 ・ ほたて供養塔
ほたて供養塔(高さ約6m・周囲約5m。自然石)。昭和59年7月17日に青森市港町に建立されたもの。毎年6月には「ほたて供養祭」も執り行ってきましたが、平成17年3月に平内町土屋地区に「ほたて広場」が完成する運びとなったことから、同地において永くほたて貝を供養すべく移設。台座碑文…『むつ湾産のほたての歴史は古く明治以前にさかのぼる。然し十年近い周期での自然発生の恩恵のみのため毎年生産する方途をさぐるべ...
View Article土屋御番所 ・ ほたて広場
ほたて広場(青森県東津軽郡平内町土屋鍵懸)です。かつての土屋村で、はじめ弘前藩領、明暦2年分家黒石領、文化6年黒石藩領。黒石藩領と弘前藩領の境界に位置するため口留番所が設置されました。嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」には「下りて浜路暫く行て土屋村番所。此処にて出入の往来切手の裏判をする由也。側に漁家壱弐軒。又少行人家三軒」とあります。土屋御番所由来…『この土屋御番所は、明暦2年(1656年)に、...
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