下北半島国立公園。大間崎は下北半島の西北に位置する本州の最北端の岬。
対岸の北海道の函館市汐首岬までは約17.5kmしか離れておらず、本州ー北海道との最短地点とされます。弁天島の向こうには渡島連峰をのぞむことができます。大間崎沖合い600m先には潮流の速い水道の「クキド瀬戸」を挟んで弁天島があり大間埼灯台が設置されています。大間漁港はマグロの一本釣りとしても有名で、季節になると津軽海峡にやってくる大マグロを求めて町中が活気づきます。
能町みね子さんの本(「逃北~つかれたときは北へ逃げます」)を読んだことがありますが、確かに大間町はたくさんのお店と観光客で結構賑っており、尻屋崎のトンガリの方が「北」を感じますね。
「青森県には何もねぇー!何もおもしぇぐねぇー!桜とねぶたと雪以外だっきゃ何もねじゃー!」と吉幾三さんのように連呼する人は確かに多いのですが、能町みね子さんの本を読んでからは、北の人特有の自虐的発言は一種の謙遜であり、実はプライドが高かったりして、こういうのもまた1つの魅力なんだなって思うようになりました。今ならこんなポスターで十分惹かれます。
余談が過ぎました。さて、大間に来たら必ず食べなくてはならないものがあります。
もちろんご存知ですよね…
そう!
たこ足の一夜干しです!!たこを食べながら大間崎を散歩。
一応こういう写真も載せておきます。
生うにの誘惑には勝てませんからね。
さて、大間崎といったらまずはこちらを紹介しなくてはなりません…そう!
老犬(北海道犬・アイヌ犬)のシロです。老犬なので近づかずそっとしておいてね。
弁天島です。昔ここで同じ風景を眺めている時、ちょうど大間崎沖合にヘリコプターが墜落したとの情報が入り、周囲がざわつき始めたのを思い出しました。
弁天島は周囲2.7kmの小さな島ですが、弁財天が祀られ、古くから漁師に信仰されています。
島には海抜37m、白と黒のストライプの大間崎灯台(日本の灯台50選)があります。
また、野鳥の宝庫としても知られています。
大間崎の先端には「こゝ本州最北端の地」の石碑が立っています。下部には「北緯41度32分・東経140度55分・青森県知事竹内俊吉」と刻まれます。裏面碑文…『昭和43年7月22日大間町町長金澤幹三建立』
周囲にも多くの石碑やモニュメントが建てられています。
足元には地図。
石川啄木歌碑。大間崎は石川啄木縁の地としても知られているそうです。『東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる』の歌について、地元では大間崎の沖合いにある弁天島を詠んだものであると考えられているそうです。
『大海にむかひて一人 七八日 泣きなむとすと家を出でにき』『東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる』『大といふ字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり』青森県知事木村守男書。
裏面碑文…『石川啄木の代表歌「東海」の歌の原風景はここだという風評は、函館にかれの墓ができたころからあった。大間の地蔵庵主が「啄木はしばらくここに滞在したが、そのときかれは大変おちこんでいた」と言ったという。それは、明治35年盛岡中学を中退するころで、同年10月の「明星」に次の歌が載っている。【血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋】。「東海」の歌は明治41年6月のノート「暇ナ時」に記されている。東京から北海道と長い流浪のあと上京して小説にいどんだが、小説は売れず眠れない夜がつづいたとき、以前に彷徨したこの小島が心をよぎったのだと思う。むつ市の鳴海健太郎は明治35年ころ隣村大畑にいた「明星」の歌人医師中山梟庵の歌集から啄木と会った証拠の歌を発見した。【啄木はよも忘れまじ青森県大畑にある正教寺内】梟庵。私たちは歌集「一握の砂」の中から、三首選んで、新しい明日を希いながら早世したかれの鎮魂をしたいと思う。1998年7月青森県啄木会川崎むつを』
日本海軍特務艦豊国丸戦死者忠霊碑(内閣総理大臣福田赳夫)・日本海軍特務艦豊国丸戦死者名簿碑。終戦間近の1945年(昭和20)7月14日、大間町沖の津軽海峡を航海中の海軍特務艦「豊国丸」(1274㌧)が米軍機の攻撃を受けて沈没し135人が戦死しました。平成30年7月14日忠霊祭が行われ、福島県や神奈川県などから遺族15人を含む約50人が参列し、今年改修された豊国丸戦死者忠霊碑が披露されました。翌日の新聞には「終戦間近大間沖で沈没「豊国丸」。悲劇風化させない。石碑改修戦没者氏名鮮明に」と題して大きく取り上げられていました。ニュースで見たばかりでしたので悲痛の思いが込み上げてきます。
「豊国丸は八戸港から大湊軍港へ物資輸送中、大間沖で米軍機に撃沈された。乗組員147人のうち、生き残ったのは12人のみで、船体は今も大間崎前の海に沈んでいる。遺族会が74年に発足し、77年に忠霊碑を建立。毎年慰霊祭を開いていたが、遺族の高齢化もあり、94年の50回忌を最後に解散、その後は一部の遺族が個別に忠霊碑を訪れていた。忠魂碑に刻まれた戦没者氏名が風化によって薄れてきたため、今年1月から3月まで、インターネットで資金を調達するクラウドファンディング「FAAVOしもきた」で資金を募り、94人から214万円が集まった。6月から忠魂碑の改修工事を行った。14日は、海上自衛隊大湊音楽隊の演奏で始まった。戦没者氏名が鮮明に刻まれた忠魂碑が披露され、遺族らは一人一人玉串を奉てんし、手を合わせた。」(翌日の新聞記事より一部抜粋)。
裏面碑文…『昭和二十年七月十四日午后二時三十六分米軍艦載機と交戰し、激斗のすえ乗員百三十五名の勇士、艦と共にこの海に眠る。英霊に捧ぐ 海を征き 海に散りたる つわものの 御霊よ永遠にあらかにあれ 詠寿山』
「本州縦断徒歩リレー出発の地」碑。
「東京私立聖学院中学校・高等学校 昭和54年7月22日午前6時」と刻まれています。
天童よしみ歌謡碑(昭和54年1月吉日建立・平成21年7月復刻)
「みちのく慕情」(瀧竜二作詩)。
お店をハシゴしていたら、川畑商店前に「会津斗南藩資料館」の看板があったので、再度、干したタコ足を買い込んで向かいました。※タコ足はその場で真空パックにしてくれます。
大間郵便局前の「リビングキムラ」2Fに「斗南藩資料館(向陽處)」があります。
写真は撮れますが掲載は禁止。斗南に移住した会津藩士の末裔が館長を務める貴重な資料館です。