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Channel: くぐる鳥居は鬼ばかり
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田中舘愛橘博士ゆかりの家 (二戸市)

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田中舘愛橘博士ゆかりの家。岩手県二戸市福岡字五日町。
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近くの久府坂祖霊社(田中舘愛橘博士の墓)があります。
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田中舘愛橘(1856-1952)は陸奥国二戸郡福岡の南部藩士の家に生まれました。相馬大作の姉の子孫。南部藩の藩校で学んだ後、一家で東京に移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。在学中は菊池大麓、山川健次郎に師事し、ユーイング(英語版)に電磁気学、メンデンホールに地球物理学を学び、富士山頂での重力測定を手伝います。エジソンのフォノグラフが発表されるとその試作を行いました。明治15年に東京大学理科物理学科を第1期生として卒業し準助教授に就任。明治16年に助教授となり、電磁方位計を考案。明治21年にイギリス・グラスゴー大学のケルビン卿のもとに留学。ベルリン大学での受講を経て、明治24年にアメリカ経由で帰国し東京帝国大学理科大学教授就任。明治24年10月に発生した濃尾地震で震源地の岐阜・根尾谷の断層を発見・調査し、この経験を元に地震研究の必要性を訴え、明治25年に設立された日本初の地震研究組織である文部省震災予防調査会に委員として参加。同26年から29年にかけては日本全国の地磁気を調査測量。また岩手県水沢に緯度観測所(現在の国立天文台水沢VLBI観測所)を設立。明治37年には日露戦争の影響で気球の軍事利用研究に参加。これをきっかけに航空に関する研究に取り組みます。明治42年、フランス人海軍士官ル・プリウール、相原四郎海軍大尉によるグライダー製作に協力、同機は上野の不忍池畔で有人飛行に成功し、動力がないとはいえ日本で最初の近代的航空機となりました。
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明治40年にメートル条約によって設立された理事機関・国際度量衡委員会の委員(日本人初)となり、メートル法普及のための啓蒙的な活動を行ないました。大正5年の還暦祝いの会合にて退職を希望し、これが60歳定年制ができるきっかけとなります。大正6年6月22日に東京帝国大学名誉教授となり、その後大正14年10月から昭和22年5月まで貴族院議員(帝国学士院会員議員)を務めました。
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ローマ字論者であり、明治18年に英語の発音に準拠したヘボン式ローマ字の表記法を改めて五十音図に基づいた日本式ローマ字を考案。帝国大学の弟子で物理学者の田丸卓郎らとともにローマ字の普及に努めています。貴族院ではローマ字国字論の演説をおこなうことで有名で、メモなどはもとより、漢詩すらもローマ字で作る徹底振りでした。ちなみに当ゆかりの家の門の表札もローマ字でした。
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案内板より…『この家は、昭和23年に福岡町(現二戸市)の有志が田中舘愛橘博士のために寄贈したものである。博士は、東京の雑司ヶ谷に住んでいたが、昭和20年3月の東京大空襲に遭い、郷里福岡町に疎開して向かいの小保内樺之介氏宅に身を寄せていた。戦後になって再び東京に居を構えたが、この家が贈られてからは、毎年夏になるとこの家に避暑に訪れ、地域の人々との交流を楽しんでいた。向かって左側の洋間からは、博士の打つタイプライターの音がよく聞こえていたものだが、昭和26年の夏が博士の最後の滞在となった。平成14年、この家は、土地と共に遺族の松浦明氏から二戸市に寄贈された。』
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