諏訪堂村。天文年間(1532-1555)の津軽郡中名字に『戦藤すはどう須和堂、諏訪堂とも書ク』とあります。
天正13年(1585)大浦為信の津軽統一最後の戦い(田舎館攻撃)の際、『諏訪堂村に垣上を構られ』と為信の本陣が築かれました。
津軽諸城の研究によりますと、この館は諏訪堂の北東小流に臨む小型の館であり、元は大光寺の安東氏に関連するものであろうと考えられています。
貞享4年検地水帳によりますと稲荷社2社が見えます。
川口の旧村社稲荷神社の御祭神は猿田彦大神、倉稲魂命、大宮姫命。
新撰陸奥国誌によりますと『旧来諏訪大明神を祭りしに寛喜中飛去て所在を失ひしかは天福元年に大乗坊当神を勧請』とあります。
明治6年に大根子村の愛宕神社の相殿となり後に復社。
青森県神社庁HPによりますと天福元年(1233)建立。
明暦3年(1657)、二本柳孫右衛門が再建し諏訪堂の産土神社として崇敬。
元禄年中(1688-1704)より田舎舘組田中部落も氏子となります。
明治42年8月27日村社に列せられ、昭和21年6月26日神社本庁に所属し宗教法人令に依る稲荷神社に。
昭和25年1月31日、国有境内地250坪1合8勺、定着物195石4斗4升を宗教活動上必要な物として譲与されて今日に至ります。
こちらの建物(まんじ様)には石碑が祀られていました。
暗くてよく読み取れませんでしたがかなり歴史を感じる石碑。
力士諏訪の森鉄男隠退記念碑。
力士今緑貞吉碑。
馬頭観音。
末社稲荷宮。
力石群。
説明板は見難かったです。
よく見ると一つ一つに重量が彫られています。
二俵。
一石。
六斗。
忠魂碑。
こちらはおしら様でした。これまで何度も紹介していますが、せっかくなので今回は菅江真澄遊覧記の後述から抜粋して説明します。
『オシラ神は東北地方の民家に祀られている二体一対の神で、桑の木で作ってあるものが多い。このオシラ神が不要になると、神社や岩屋などに捨てることがあり、それをそこに祀ることもあれば、拾っていって家に祀るものもあった。「谷をへだてて、むきあって生える桑の木を伐って、陰陽二柱を作り、その頭を綿をもって包み、布ぎれでくくり秘めかくして、もののけなどを払うとき、これに祈る。三月十六日に、いたくみこといって、盲巫女がこれを左右の手に握って、膝の上でおどらせながら、のりとごとを唱え、その年の農作の豊凶をうらなう。これをオシラアソビとかオシラヲホログという」と菅江真澄は図絵をつけて説明している。早瀬野村から喜助~腹切岩~ひき石のある草むらから坂を左手にはるばるとのぼった場所にある小さな岩屋におしら神を祭っていたのを菅江真澄は記している。』