御祭神…主座:八幡宮(應神天皇)、配座:天祖社(天照大神)・白山社(白山媛神)。
別宮…稲荷社(豊受大神)、榛名社(日本武尊)、天神社(菅原道真公)。
末社…稲荷社(出世稲荷大明神)。
例祭日…宵宮祭9月22日、例大祭9月23日。
御由緒…『当社は、鎌倉時代の初め、建暦2年(西暦1212年)9月23日に、鎌倉幕府第2代将軍源頼家公にかかわる遺臣荒井外記智明によって創建された。智明は、頼家公が伊豆の修善寺で非業の最期を遂げられてからこの代々木の地に隠棲され、名も宗祐と改めて、日夜亡き主君らの冥福を祈っていたが、ある夜夢の中に故郷鎌倉の八幡宮から宝珠のごとき鏡を感得された。これによって小祠を営み、八幡宮を勧請されたのがはじまりである。』
二の鳥居。
代々木八幡神社の森林。
『代々木八幡神社にはシイやカシなど常緑樹の林が見られます。この林は小高い丘の上にあって、まわりがまだ田畑と雑木林に被われていた時代から、人々の生活を見守り続けてきました。もともとこの林はアカガシとスダジイの混じった照葉樹林で、太古の昔には関東平野の沿岸部の大地を広く被っていたものと考えられていますが、今では林床が刈り払われたり庭木なども植えられ、人手の入った林となっています。また、社殿の裏側の方にはイヌシデやコナラ、ミズキなどの落葉樹が林をつくり、かつての雑木林の面影をとどめています。これらの林の中には約130種もの植物が生育しており、住宅やビルの多い都心にあって、古くから多くの人々の手によってはぐくまれ、守られてきた貴重な自然です。』
女坂。
代々木八幡遺跡…『代々木ハ幡宮は標高約32mの台地上にあって、その境内から石器時代の遺物が発見されていました。昭和25年(1950)、渋谷区でここを発掘したところ多数の遺物とともに、ロームを浅く掘りくぼめた住居と、その中に掘られた柱穴を発見しました。ここから出土した加曽利E式土器によって、この住居には約4500年まえに人が住んでいたと推定されます。渋谷区では、この住居跡にたてられてあった古代住居を復原して、その保存につとめております。』
代々木八幡遺跡復元竪穴住居。
拝殿前参道敷玉石奉献碑。
参道狛犬一対(天明5年9月)と御大典紀念碑。
訣別の碑。
『この一対の燈篭は、明治42年、代々木の源(現在の代々木公園)に陸軍練兵場が設けられたとき、移転を余儀なくされた住民がこの地との別れを惜しんで奉納したものである。訣別の言葉は竿石部分にあり、拝殿に向かって左側には、「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」・続けて右側には「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ想ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設 良曠拝書」とあり、この下段に奉納者の17名の名前が刻まれている。』
草創七百年祭奉賛者の碑。
御創建八百年祭記念碑。
手水舎。
絵馬「代々木八幡縁起絵」…『区指定有形民俗文化財平成4年10月1日指定。代々木八幡宮社伝によると、源頼家の家臣、近藤三郎是茂の家人荒井外記智明は、頼家が修善寺で殺害された後に名を「宗友」と改めて代々木に引きこもり、建暦2年(1212)8月15日夢の中で大神から宝珠のような鏡を授かったので源氏の守り神である鶴岡八幡宮の分霊をまつり、小祠を営んだのが代々木八幡宮の創建といわれています。この絵馬は、その経過を表現したもので、このような作例は少なく筆致も優美なものです。天保12(1841)年に奉納された縦139×横186センチメートルの大絵馬です。』
絵馬伝「神功皇后之図」…『神功皇后に関する神話の絵馬で、神功皇后とその乳飲み子(後の応神天皇)、従臣の武内宿禰が描かれています。一般に見られる作例と異なり背景の表現は少なく、人物を主体とした構成と雄渾な作風は、その彩色とともに明らかに芝居絵と共通している点で注目されます。天保11(1840)年に奉納されたものですが、このような大絵馬(縦139×横194センチメートル)が、芝居関係者の参詣が多かった江戸下町の有名社寺の場合とは異なり、江戸の郊外であった代々木に存在していたのは珍しいことです。』
石燈籠一対。
代々木八幡遺跡出土品陳列館。
宮神輿庫。
代々木八幡宮宮神輿の由来…『此の宮神輿は、大正12年(1923)8月、渋谷区新町町会(現代々木3、4丁目)の有志により、千葉県行徳の神輿師の許で造られ、祭礼のたびごとに賑々しく町内を巡行していたが、人口の減少にともない、永久保存を願って昭和37年(1962)9月、代々木八幡宮の宮神輿として奉納された。関東大震災、東京大空襲の2度の大災害を無事くぐり抜けてきたが、傷みがひどくなったため、平成3年(1991)12月、平成御大典並びに御鎮座780年祭を記念して、氏子崇敬者770名の奉賛(2000万円)により、板橋の東京神輿センターで約70年ぶりに全面的な解体修理が行なわれ、面目を一新して今日にいたっている。』
神楽殿。
代々木囃子…『区指定無形民俗文化財平成18年3月9日指定。代々木囃子は、江戸末期に代々木八幡宮の中で行われていた「目黒流囃子」を、時の神官が地域の農民に教えたことに始まるといいます。現在、保存会が使用している囃子鉦に「天保二年辛卯二月代々木若」という記銘があり、言い伝えは信憑性が高いと思われます。その後、明治・大正期と盛んに行われましたが、関東大震災の時に一時中断しました。昭和に入っても継続されますが、第二次世界大戦が始まってからは低迷し、ついに中断を余儀なくされてしまいました。戦後、氏子らが先頭に立って復興させ、昭和21年に「代々木囃子保存会」を結成し、その保存活動を続け、現在に至っています。「代々木囃子保存会」は、代々木八幡宮の祭礼を中心に活動を続けています。2月の初午祭、5月の五社宮祭、9月の例大祭に町内を廻り、最後は神社に奉納します。このほか、正月には保存会の会員や依頼のあった家などの門口で獅子舞と一緒に演奏して廻り、最後は代々木八幡宮に奉納しています。』
代々木もちつき唄…『区指定無形民俗文化財平成18年3月9日指定。代々木の餅つきは、現渋谷区の初台、代々木、西原、上原一帯で、農家が5、6軒を一単位として共同で行われていました。歳末の早朝から一単位あたり2時間ぐらいでつきあげ、夕刻までかかったといいます。「もちつき唄」は、餅をつく前段のこねる作業の時に唄われていました。しかし、昭和30年を過ぎる頃から、農家の減少や農地の宅地化、商店からの餅の購入等の理由で、次第に行われなくなりました。その餅つきや「もちつき唄」が忘れられてしまうのを惜しんだ有志が集まり、昭和43年に「代々木もちつき唄保存会」を結成しました。毎年、代々木八幡宮において行われる節分会では、参詣者に餅が配られますが、その餅をついているのが「代々木もちつき唄保存会」です。「(一)目出たな 目出た目出たの 若松さまよ 枝も栄えて 葉も茂る(二)庭にゃな 庭にゃ鶴亀 五葉の松 松の下にゃ おじじとおばば(三)お前な お前な 百まで わしゃ 九十九まで 共に 白髪の 生えるまで』
八幡宮紀念の碑。
『明治34年、拝殿の改築が成った際、建立された。顕額は府知事・千家尊福、撰文は神田明神祠官・平田盛胤、執筆は子爵・福羽美静(ただし、福羽翁は高齢で病気がちであったため、門弟の野村伝四郎が代筆、裏面は義弟の福羽良曠)による。以下全文。「これの處の底つ岩根に宮柱太しき建て 天津御空に千木高知り鎮り座します村社若宮八幡宮はしも順徳天皇の御宇建暦二年九月二十三日といふに この地に往せし荒井宗友の霊夢により勧請し奉りし大神なり そもこの宗友は頼家将軍に仕へし者の家人なりしかばそのかみ鎌倉に在りて鶴岡八幡宮は産土の神におはしまししより ここに退隠したる後も朝夕の拝禮懈怠なかりき 然るに建暦二年八月十五日の夜 大神の御さとしによりて 寶珠の如き鏡を感得しければ 宗友の喜び限りなく 此の地の荊棘を披きて小祠を営み 同年九月二十三日始めて御祭を行ひにきこれぞこの御社の起原にして毎年大祭を九月二十三日に行ふもこの故なりけり 後 徳川幕府の頃となりては神仏混淆の風なりしかば別当を寶珠山福泉寺智明院と称し 社地六千坪ばかりなりしが 明治維新の後は五段五畝二十四歩と改定せられぬ」』
社殿。
回廊。
参集殿。
本殿。
本殿裏手にも社号標や石燈籠。
社殿前狛犬。
狛犬台座の石彫竜虎。
菅公一千年歌碑。
『「千とせ経て ますます高しつくしがた みけし(御衣)あふぎし神のみいつは」正三位勲二等子爵福羽美静。文化学園の西側、甲州街道から入ったところに銀杏天神社があった。元和3年勧請、大正院持、社地は127坪あったという。そこには箒銀杏と呼ばれる大樹があり、御祭神の菅原道真公没後1000年を記念して歌碑がつくられた。天神社は明治33年5月、代々木八幡宮の末社に合祀され、歌碑も移転された。現在も天神社の跡地には小祠があり、この歌にも詠まれた箒銀杏がしげっている。』
表忠碑。
『明治37年日露戦争が勃発すると、当時代々幡村と呼ばれたこの地区からも多くの人々が出征した。こうした出征兵士の家族・遺族の援護を目的に設立された奨兵会によって、明治49年9月、小笠原長生子爵の筆による表忠碑が幡代小学校に建立された。碑の裏側には日露戦争の戦没者9名、出征者56名の名前が刻まれている。第二次大戦後、表忠碑は軍国主義の象徴の一つとして多くが取り壊されたが、代々幡村の表忠碑は遺族や地域の方々の尽力によって、代々木八幡宮の境内に移転された。現在では、毎年3月23日、この碑に名前を刻まれている方々をはじめ、この郷土を守るために尊い命を捧げられた先人に対しての感謝と、世界の平和を祈る表忠碑慰霊祭が齋行されている。』
これは…
達筆な石碑(笑)
臼田亜浪の句碑。
『「そのむかし 代々木の月の ほととぎす」。臼田亜浪(1879-1951)俳人。長野県出身。法政大学卒。大須賀乙字と俳誌「石楠(シャクナゲ)」を創刊して、高浜虚子らの俳誌「ホトトギス」に対抗した。この碑は、その創刊20周年を記念して昭和9年(1934)に建てられたものである。明治・大正の頃までは、まだ、このあたりは東京近郊ののどかな田園地帯であった。』
威徳大業碑…『当社は建暦2年の創祀暦算して本年760歳且又寛文11年中興治山この地に移りしより参百春秋加ふるに現存本殿の造立は明治5年それより實に壹百星霜奇しき神縁と謂ふへし依て深く期する所あり曩に社有地処分によりて得たる代償を以て多年の懸案たりし覆殿造営並に廻廊社務所等の建築に附して社殿神域内外の改修を以て記念の挙となさんとす茲に敬神諸家協賛関係各位の盡痒その至誠凝り聚るところ其工期歳餘に亘り其資辨壹億を超えたり斯くて所期当社の大要を成就し畢りぬ 噫乎神慮深遠民心亦壮なるかな 敬白 昭和46年9月吉日』
稲荷社・天神社・榛名社へ。
稲荷社(御祭神:豊受大神)・天神社(御祭神:菅原道真公)・榛名社(御祭神:日本武尊)。
『祭礼日:五社宮祭5月23日。稲荷社と天神社については、江戸時代、大和国岩掛城主・山田政秀の第6女、紀州家側室延寿院殿が守護神として祀っていたものが奉祀されたと伝えられている。その後、明治33年、神社合併政策により、山谷301番地(現在の参宮橋駅の西)にあった掘出し稲荷と、新町3番地(現在の文化学園の西)にあった銀杏天神社がそれぞれ合祀された。榛名社については、この地域で雨乞い豊作の祈願のために上州の榛名山まで参詣するという習慣があったことから、おそらく各村や家に祀られていた榛名社が、やがて氏神様である八幡宮の境内に移されたものと思われる。また、本田の八幡宮の相殿として、やはり明治33年、山谷365番地(現在の代々木公園駐車場あたり)にあった天祖社と、同じく山谷139番地(現在の南新宿駅の北)にあった白山社が合祀された。このため稲荷・天神・榛名社と両社を合せて祭礼を五社宮祭と称することになった。』
出世稲荷社へ。
出世稲荷社。
富士塚のような場所に狐がいっぱい。この狐さんたちは戦後の焼野原から集められたもの。
『祭礼日…旧暦初午の日。第二次大戦末期の昭和20年(1945)5月25日夜、このあたりは米軍の空襲により大きな被害を受けた。幸い神社は焼け残ったが、周辺は一面焼野原となり、その焼跡には家々で祀っていた稲荷社の祠や神使の狐などが無惨な姿をさらしていた。それらを放置しておくのはもったいないと、有志の人々らが拾い集め、合祀したのがこの稲荷社の最初で戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすがともなっている。なお、祭礼日の旧暦初午の日には、さまざまな祈願をこめた紅白の幟の奉納が行われる。』
顕彰費。
っていうか富士塚だったんだ。
丸谷代々木講「登山四拾七度」。明治39年建立。
福泉寺に向かいます。
代々木八幡宮の境内から行けます。
途中に庚申塔等があります。
なかなか面白い庚申塔です。
庚申塔…『庚申の信仰は中国の道教思想に基づくもので、江戸時代盛んになり、村の辻などに庚申供養塔が建てられました。庚申信仰は、60日ごとにめぐり来る庚申の夜、眠り込んだ人の体内から三尸と呼ばれる虫が出て天帝にその人の罪過を報告し、罰が下されるというもので、寝てはいけないと信じられていました。庚申堂や当番の人の家に集まった村人たちは、一晩中勤行をして夜明けを待ちました。その仲間を庚申講と呼んだのです。この人びとによって庚申塔は建立されました。庚申塔の多くは青面金剛像が刻まれ、その下に三猿が彫られています。ここにある庚申塔の年記をみると、宝永6年(1790)、宝暦5年(1755)、寛政6年(1794)などと刻まれてます。』
宝珠山智妙院福泉寺。本尊薬師瑠璃光如来。
元々は浄土宗でしたが正保元年(1644)に天台宗として中興。幕末の剣術家斎藤弥九郎の墓があります。