祭神は天照皇大神。
創建年代は不祥、薄市山弘法寺2世性雲院日性抱えで寛文3年(1663)再建。
その後崩壊するも弘化4年(1847)現在地に移転し再建。
明治6年に一時的に深郷田村八幡宮へ合祀。
中里町誌によれば、元々現在地の北側、甲子塚のある高台(弘法寺東方山頂)にあったと伝えられますが、弘化4年(1847)加藤庸制(代々郷士・金木組大庄屋を務めた加藤家8代加藤九八郎)ほかが、現在の場所に復興したとされます。
社殿内には平尾魯仙・百川学庵など往事の著名な絵師が描いた絵馬などがあります。
施錠はなく自由に拝観できました。
場所的に城跡の形状を感じさせます。
拝殿横には忠魂碑があり、そこに工藤他山頌徳日(他山工藤先生宅址碑)もありました。
遯世无悶。
説明板はほとんど読めない状態でした。
工藤他山は文政元年(1818)弘前古堀町生まれ。藩校稽古館助教を経て、嘉永5年(1852)中里村に寺子屋を開き、以来文久3年(1863)まで11年間にわたり子弟を教授しました。この間中里村敦賀源次郎の娘磯子と結婚し、長男隼太、次男覚蔵(後の外崎覚。漢学者・史家。森鴎外の「澁江抽齋」に実名で登場)が誕生しました。他山工藤先生宅址碑は、明治33年(1900)中里時代の教え子宮越要三郎・井沼益太郎らが、外崎覚と相談して神明宮境内に建立。
更にこれらの石碑群の横から中里城跡史跡公園へ抜ける歩道が続いていました。