境内案内板(平成26年7月建立)の説明が非常に丁寧だったので自分では何も調べていません。以下案内板より。
御祭神:『稲荷大神。伏見稲荷大社の御祭神、宇迦之御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神・田中大神・四大神の総称。五穀豊穣・商売繁昌・産業興産・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神です。』
由緒:『鶴屋家代々の徳行に加え、6代目原庄右衛門基札は、凶作への備えと農民救済事業として私財を擲って7町歩の沼地を開墾。さらに長大な鶴屋堰を造って40町歩余の田を潤し、広大な新田を開きました。領民は「鶴屋様のお蔭」と感謝し、その屋敷の前を通るたびに手を合わせたということです。基札はその思いを受け、故郷の豊作満作と人々の幸せを願って、弘化4(1847)年、京都伏見稲荷本宮より御分霊をいただき、社殿を築造してお祀りしたのが当社の創始です。その後、明治初年に遷座。昭和19年の大火で焼失し、昭和29年、11代目原秀雄が再び伏見稲荷大社が御分霊を勧請して有志と共に神社を復興しました。平成24年、12代目原良造は大町2丁目地区土地区画整理事業による移転に際し、先人の魂を受け継ぎ新しい街づくりの心の拠り所たらんと華麗な朱塗り銅板葺きの現社殿を造営しました。宵宮祭7月9日。例祭7月10日。』
「鶴屋」原家:『原家は、平重盛に連なる平家の流れを汲む。その子孫は越前の原村に住し原姓を名乗った。祖先原隼人貞胤は、武田信玄に仕え、一方の旗頭となり武功多かったが、天正10(1582)年武田勝頼が織田信長に滅ぼされて浪人となり、後に越前中納言秀康に召し抱えられた。その末男次郎兵衛は町奉行を務めたが主家の失態により浪人となった。その嫡男正頼は越前敦賀で町人となり糸家と称した。その子正直の三男基吉が鶴屋原家の始祖となる。』
初代原庄右衛門基吉:『元禄年間に9歳にして越前敦賀より西津軽郡鯵ヶ沢に移る。18歳で五所川原に独立して商才を発揮し酒造業を営み、田畑を買い入れ、やがて地主となって一代で資産家となった。屋号を「鶴屋」と称し、原庄右衛門と名乗る。玄光寺を新築した。』
二代目原庄右衛門基幸:『代々郷士に取り立てられ、赤田・広田・俵元・新田の大庄屋を務めた。明和飢饉救済。御用金千二百両、千俵以上の御用米に応ずること数度。
三代目原庄右衛門基文:『鶴屋家中興の祖。天明の大飢饉(1782-1788)の際、五所川原・喰川(現本町付近)・柏原(柏原町付近)・平井(上平井町付近)の四ヶ村のほぼ全ての住人1700人に本家別家共々蔵を開き、初代からの蓄財を解放して8ヶ月間救済して餓死者を出さなかった。その篤志により名字帯刀御免の上、郷士に取り立てられる。』
四代目原庄右衛門基珍:『寛政年間、菅江真澄来訪。開拓、治水に尽力。岩木川普請に人夫1万人を提供し、鶴屋土手を築く。』
五代目原庄右衛門基徳:『天保の大飢饉(1833-1839)にも蔵を解放前述の四ヶ村から餓死者を出さなかった。頼山陽と親交が深かった。奉公人の利助が江戸相撲で大関柏戸に出世。吉原での豪遊の記がある。錦町久須志神社(旧偉人堂)境内の「伊勢海利助」の碑は基徳の筆である。』
六代目原庄右衛門基礼『度重なる凶作を再び招かないためと、農民の救済事業として頭無の沼地(現一ツ谷)に私財を投じて田を開き、さらには湊から2800間の長さにわたる鶴屋堰を完成させた。はるばる伏見に詣で鶴屋稲荷神社を創始。安政元(1854)年時、10万石の津軽藩領内で、鶴屋家の財産は4万8千石、馬100頭、大船40艘、小作数千人の奥州の大長者だった。』
以下、七代目原モト・八代目原八太郎・九代目原庄右衛門基信・十代目原貞次郎・十一代目原秀雄・十二代目原良造・十三代目原裕貴(市内松島町在住)。