光台寺末寺。本尊は阿弥陀如来。
お出迎えとお見送りのお地蔵さまと…
お出迎えとお見送りのお猫さま。
寺伝によりますと寛文年中(1661-1672)の開基で、開山は生蓮社良往。
元禄年中(1688-1703)八世良観の代に本堂・山門・庫裏等を再建中興。盛岡三十三観音第11番札所。
元禄16年(1703)慈恩院(艶・通称お蓮、蓮子・南部信恩の母)が御願の際に切米25駄を寄進。
延宝3年(1696)のこと、慈恩院の父は切支丹信者であったため、向中野の村の小鷹刑場で斬首されましたが、慈恩院は夜半に梟首を盗み出して当寺に首塚(現存)として葬るように依頼します。時の住職は第八世良観和尚であり、快く引き受け密かに読経して埋葬。
慈恩院は感泣し夜明けを待って自首。それを聞いた南部行信はその親孝行を愛で妾としたという伝えがあります。寺領50石の寄進はこれによるともいいます。
慈恩院は岩井佐左衛門の娘でしたが、岩井家がキリシタンであったため、伯父菊池又右衛門の妹として本丸へ奉公して信恩の生母となり、義兄又右衛門にも新知100石が下賜されたといいます。
観音堂です。平景清の墓所日向国延岡に在った観音像を遷座。
眼病に霊験あらたかであり生目観音と呼ばれます。
観音堂前には一対の鯱鉾。
中々真正面からは見れないですね。
撞鐘は慈恩院の建立で、「此鐘鋳立の節奥女中多く来り、沸湯の内へ小判多く投入たりと云、此鐘の音細く長くして諸寺の鐘に異なり其音声甚よし」と記されますが、安政3年(1856)の大砲鋳造の際に失われたそう。
山門は宝永4年(1707)建立。
屋根には立派な金の鯱鉾。
第二次世界大戦中に組閣した38代内閣総理大臣米内光政の墓所。
連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣(昭和15年)を歴任。
旅立ちの法然さま。
創建時に植えたと推定される夫婦カツラ(樹齢約300年)。
本堂。
元禄年間(1688-1703)再建。
寺院本堂としては珍しく妻側に正面向拝を持ちます。浄土諸宗の外陣重視の慣例から前後に長い平面となる関係で妻入となったと考えられています。
平入形式に比べて大屋根の威圧感がなく、正面左右の夫婦かつらと相まって優れた正面性を有しています。
山門と本堂主要部構造は、江戸時代の地方寺院建築らしい統一感を持つ建物。