南西に兼平山(159.3m)を負い、東は二本木村、北は五代村と築館村、南は如来瀬村に接します。兼平山の尾根は岩木おろしを防ぎ、また南東から北へ平野が広がり、古くから開けました。五代・築館・如来瀬・鳥井野などの村々は兼平を親村として開発されたと考えられています。
弘前市の蘭庭院の山号は金平山で、発祥の地は種里城主大浦光信の次男伊豆守盛純を始祖とする兼平氏の領地(弘前寺院縁起誌)。寛永17年(1640)の津軽百助宛の津軽信義黒印知行宛行状に「兼平村之内」とあり、村内に津軽百助の知行地があったことがわかります。
そんな兼平にあります天満宮について2回に分けて紹介します。一の鳥居から拝殿までは距離があります。まず一の鳥居を潜ると次のような案内看板があります。
案内通りに左の農道を歩いていきます。
田んぼの真ん中に天満神跡地の碑があります。
昭和42年11月20日区画整理とありました。
裏には「天満神・大石神・神明神」「柴田武次郎」などとあります。
天満神跡地から見た一の鳥居。
さて、本来の参道へと戻ります。しばらく進むと天神橋が見えてきました。
天神橋を渡ると左手には池があります。
池には鯉。
そして池の畔にはかわいいウサギが2匹。
池の畔の鳥居を潜って橋を渡ると神明宮があります。
御祭神は天照皇大神。
兼平天満宮境内には市指定有形文化財の板碑が7基あります。
鎌倉時代から南北朝期までの紀年銘を持つ4基を含む板碑群があります。阿弥陀如来の種子キリークと永仁4年(1296)のものが1基。同じく永仁4年の年号を持ちますが上部を切断され種子が不明なもの1基。康永3年(1344)のもの1基。観応2年(1351)の年号を持つもの1基。種子のみのもの2基。種子不明のもの1基。7基の板碑の岩質はすべて安山岩。
ちなみに産物である兼平石は新法師高館山(約150m)の東縁部丘陵地から産出する紫蘚輝石普通輝石安山岩で、津軽地方にある鎌倉時代以降の石塔婆の多くはこの石を使用。大森勝山遺跡や十腰内遺跡から加工されたものも出土しており、原始時代から知られていたと言われます。藩政期に造られた石橋のほとんどにこの石が用いられ、安政2年(1855)弘前報恩寺に埋葬された11代藩主津軽順承の世子承祐の棺の蓋石は同大のものを2枚合せて使用していました。明治32年(1899)以後は生産を休止していますが、兼平石を用いた代表的な建造物に長勝寺脇の仏舎利塔があります。弘前市土手町の商店街歩道の敷石に利用されていたこともあるそう。
これらの板碑によって当地における当時の豪族の存在、集落の生い立ちの古さ、この地に如来信仰・菩薩信仰等が入ってきていたことなどを窺い知ることができます。
康永3年の板碑。この板碑の種子ヂーリは現在のところ本県で唯一のもの。
「兼平天満宮 ~ 其之弐 (津軽一代様卯年 / 弘前市兼平)」へ続く。
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