地名としても駅名としても存在しているのでかなり知名度が高いお寺ですよね。
一対の狛犬がお出迎え。
松並木が美しい参道。
ちなみに壁の向こうは世田谷城の堀跡。タモリ倶楽部でやっていました。
山門。
不許葷酒入山門。
大谿山豪徳寺(曹洞宗)…『豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院を前身とする。天正12年(1584)中興開山門菴宗関(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。寛永10年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修理菩薩像、及び石灯籠2基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道、近代三大書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。また同寺の草創を物語る、洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝篋印塔が残されている。』
忠正公神道碑。※忠正公…井伊直弼の次男井伊直憲。近江国彦根藩最後の藩主。
豪徳寺三重塔。
この三重塔には猫がいっぱい隠れています。
私は視力が悪いのであまりわかりませんでした。
訪れた際には何匹いるか探してみてください。
豪徳寺仏殿…『豪徳寺仏殿は、寛文から延宝年間にかけて行われた大造営事業の中心的建造物である。この事業を進めたのは、井伊直孝の妻春光院とその娘掃雲院のふたりである。仏殿は、掃雲院が藩主直澄の菩提を弔うために延宝4年(1676)、建設に着手し、翌延宝5年(1677)に完成した。豪徳寺四世天極秀道の代で工匠星野市左衛門尉積則らが造営に当たった。当時流行した黄檗様式の影響が随所に見られるとともに絵様肘木など特異な様式が使われており、建築史学上、また技術的にも価値の高いものである。』
扁額には「弐世佛」とありますが、弐という字の「二」が「三」になっており、釈迦如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の三世佛が祀られています。
豪徳寺仏殿像五躯。
木造大権修利菩薩倚像…総高101cm
木造弥勒菩薩坐像…像高80cm
木造釈迦如来坐像…像高72cm
木造阿弥陀如来坐像…像高72cm
木造達磨大師坐像…像高64.8cm
『本像五躯は、仏殿に右記の順に安置されている。胎内銘札によると、延宝5年(1677)、井伊直孝の娘掃雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲」に、五躯一具として造らせたものであることがわかる。祥雲は黄檗宗の鉄眼の弟子で、のちに本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫造した松雲元慶(1648-1710)のことである。当寺仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄檗僧に深く帰依し、その影響を受けていた。このような関係から仏殿像造立に当たって、祥雲が推挙されたものと考えられる。本像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例として貴重である。』
香炉。
人気スポットの招福殿。
わぉ!!
圧巻です。
中央の半跏思惟像に「如是畜生 発菩提心」を刻みます。
馬頭観世音。
彦根藩主井伊家墓所へ向かいます。
『井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家24世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く2代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。
寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。
墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。直孝が没したのは万治2年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。
また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は300基余になる。彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定された。』
六地蔵。
鳴鶴先生碑銘。
遠城謙道師遺蹟碑と高橋瑞子彰功之碑。
戦没者慰霊紀念碑…「いくさの旅にさまよい果てたるはらからよ ここにかえりてやすらいたまえ」 日本大学教授山田孝雄。
「燕が一羽とんできたからといって春がきたのではない。この紀念碑が人々の情で生れたからといって永遠の平和がきたのだともいえない。けれども深い憂と悲しみの中にたをれた不幸な同胞の御霊の冥福と、祖国が再び過ちを犯さないことを私どもは祈りつづけたい。区内戦没者5300余柱の御霊並びに93柱の御遺骨の供養のために有志相はかり、区民多数の心からなる浄財を集めて慰霊紀念碑を建立した次第である。昭和29年5月3日」
石がたくさん積み上げられている大仏。石を置いて願掛けをするそうです。
鐘楼。
豪徳寺の梵鐘…『本梵鐘は、延宝7年に完成の後、今日まで移動なく当寺に伝えられてきた。形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座の意匠も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。制作者の藤原正次は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。本梵鐘は、この時期の梵鐘の一典型として、さらには、著名な鋳物師の力量を窺う作品として、美術工芸的に貴重である。また、区内に伝わる梵鐘としては現存最古であり、世田谷に縁ある人物がその制作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。』
本堂。本堂横には納骨堂、本堂裏に開祖堂(非公開)があります。
八角燈籠。
豪徳寺選佛場。
豪徳寺書院。旧佐倉藩堀田家江戸屋敷内から移築・再建したもの。
井伊直弼の遺愛の茶屋、種月園(非公開)の門。
井伊家の江戸屋敷から移築したと伝わる武家屋敷門。
寺務所。