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Channel: くぐる鳥居は鬼ばかり
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中山大権現 ・ 権現様の清水 (五所川原市野里山ノ越)

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かつての野里村です。神山の分村であり、長橋溜池が築造された正保年間頃の開村。野里の松倉神社遥拝所から中山大権現に至る道の途中には松倉神社の社号標が残っており、松倉観音堂への参道の途中に中山大権現が位置します。
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場所的に十和田信仰に係る社かと思っていたのですが、どうやらこの権現は元々霊地であり、八大竜王を祀っているそうです。津軽三千坊の高野梵珠千坊に属する中山山脈-梵珠連山であり、何ら不思議なことではありません。
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余談になりますが、『青森の伝説』には「梵珠山をまた中山とよび、山の大人が住むという伝えがある。昔、鶴田町六郷のある農家に、毎年旧暦九月二十八日の刈り上げの節供の夜に、タキギを背負って大人が訪れ、主と語らいながらこの日についた秋餅をふるまわれて帰るしきたりがあったという。」とあります。また、森山泰太郎氏の「陸奥の伝説」によりますと、大むかし、この国に住む大蛇が津軽から遠く大陸に渡ろうとして海上の波が静まるのを待ちましたが荒波はおさまらず、10年、100年と待つうちに大蛇がとうとう息絶えて石の様に固い山脈のうねりに化してしまったとあります。これは梵珠山脈(中山山脈)のことで、大陸を望んでいる大蛇の頭は津軽半島権現崎であり尾崎権現を祀り、胴が梵珠山で中山権現を祀り、尾は尾林で尾林権現を祀っており、これを津軽の三権現というそうです。
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社殿へ。
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社殿内。
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泉…『恵の泉中山は幾万年もの大古より幾万人の旅人達の旅の疲れを癒してきた。これからも幾万年もの先を恵の泉中山は、湧き続けて幾万人もの人々の疲れを癒し、潤をもたらし続けてゆくであろう。ああヒマラヤ山の頂きのような大古自然の中山大権現。ガンジス川の流れのように湧き出て尽きない中山の恵の泉。これこそ真の恵の泉。無畏施のおかげさま。平成8年5月吉日。』
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岩手県九戸郡山形村戸呂町の方が書いたようです。かつては津軽最古の松倉観音堂への参道の一つ。梵珠山登り口には茶屋場も多く存在しました。松倉観音堂は最大の難所であると同時に御利益は絶大であり、祭りの年には登り口の茶屋場は大賑わいであったといいますから、上記の幾万人という表現にも頷けます。
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中山大権現県名水指定之碑。
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名水としてとても人気のスポットです。
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権現様の清水として、青森県の「私たちの名水」にも認定されています。
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水量も多いですね。この獅子だけは比較的新しいもののように感じました。
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こちらは大権現恵の泉と書かれているのかな…よく見えません。
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横の石碑はまったく読み取れませんでした。
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中山権現水神塔というものがありました。こちらも先ほどと同じく岩手県九戸郡山形村戸呂町の久保定蔵さん(元山形村議会議員)という方によるもの。
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松倉神社の御神体は拝殿裏の断崖(磐座)ですが、ここにも磐座的な大石が祭られています。
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憩いの家と名付けられた休憩所がありました。
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こちらは末社の稲荷宮のようです。
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こちらも稲荷宮かな。
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狐の足だけが見えます。「八大龍神 岩手県久慈市信者一同」と書かれた幟もあり、その辺の方々の信仰が篤いようです。
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中山大権現のちょっと手前にある保安林拂下記念碑。この保安林は旧藩政時代より津軽穀倉地帯と伝えられ、津軽平野水田に対して水源滋養の目的を以って設定され、田山・水源山と称していたそう。その保安林の現代に至るまでの歴史について刻まれていました。
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隣には野里林道竣工記念碑(昭和8年9月2日建立)。
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こちらは中山大権現より更に手前の林の中にあった竣工記念碑。
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「天水疏和楽」と刻まれていました。
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僅かに下った場所から湧水が勢いよく流れていました。
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柵で囲まれており、こちらについては飲用できるか不明です。
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