世田谷城の南東端の郭を中心とした一帯を占める公園で、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てる堀をはじめ、一段高くそびえる郭が現在も残されています。
タモリ倶楽部では「日本有数の住宅地にある幻の城!?世田谷城を徹底攻略」として放送されました。
『世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。14世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄3年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御の為、大改築がなされたことが窺える。』
『世田ヶ谷城は室町時代足利管領の麾下にて権勢関東に響きし吉良冶部大輔冶家の居城なり。世田ヶ谷吉良氏は三河吉良氏より岐し奥州に居りしか治家に至り上州飽間に移り次て戰功に依り世田ヶ谷の地を賜はり世稱して世田ヶ谷御所と唱へしと傳ふ後天正18年小田原の後に吉良氏朝は北条氏に與せし爲の其所を除かれ世田ヶ谷城も亦廃せらる。此の公園地は世田ヶ谷城址の一部にして往古の遺構尚存し史蹟として保存宣揚さるべきものなるを以て昭和15年1月東京横濱電鉄株式会社より1069坪余の提供を受け史蹟保存の公園を開設することとせり茲に由来を記し併せて土地提供者の芳情を後世に傳ふ。東京市』
郭跡へ。
堀跡がはっきりとわかります。
堀跡は途中から立入禁止。
豪徳寺方面まで続いています。
ってことで、豪徳寺方面へ。
豪徳寺付近から見た土塁と堀跡。