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Channel: くぐる鳥居は鬼ばかり
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三ッ目内板碑群 (大鰐町三ツ目内富岡)

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空白さんの記事に影響されて、三ッ目内板碑群を見に行ってきました。
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以下案内板より。
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『板碑について…板碑は板石の塔婆で逆修と追善、亡き人と生存する身内の者が極楽往生を遂げて成仏することをお祈りした石塔です。
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種子は仏像そのものを表わし、それを礼拝信仰することによって、み仏の加護に救われるという石仏を意味しています。昭和10年8月貴重な文化遺産の散逸を憂えた郷土史家木田繁太郎先生がここ阿弥陀堂付近一帯の田の畦や堰の中に埋没していたり、畑のあちこちに散在しているものを1ヶ所に集めて供養祭を行いました。
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当時の古老の云い伝えによれば、ここ富岡一帯にはまだまだ沢山の板碑が残されてあったそうで動かせば祟りがあると云って誰も触る人などなかったそうです。
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種子はバンとアの大日如来即ち阿弥陀如来を表わしたものが最も多く、今から697年前の正應2年己丑3月2日に建てたものが一番古い年号になっています。年号はありませんが地蔵菩薩を表わしたカーの石仏が珍らしく1基だけあります。
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偈文や刻まれた銘文の中に正應2年2年(4年の意味)辛卯7月15日為西心敬白という石塔があります。西心は鎌倉幕府より陸奥地頭職に任ぜられた曽我広忠の法名が沙弥次郎西心であったことから、当時の津軽と鎌倉幕府の関係が相当深いものであったと考えられます。地頭代職は其の後、女房の岩楯尼に移譲され更に岩楯の曽我光広に移りました。光広は岩楯曽我と称して南朝方に味方し、大光寺の曽我助光は大光寺曽我と称して北朝方に味方をしたため、津軽の地にも南北朝の争乱が続くことになりました。
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当時大きな勢力を有していた比叡山及び熊野山の天台宗信仰が幕府の中心地鎌倉の政治と文化とに大きな影響を与え、その信仰仏教が約700年前の昔、陸奥国の一角三ッ目内の地に仏教文化の華を咲かせていた時代があったことを、この板碑群は物語っています。
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大鰐町では昨年町文化財保護条例を制定し、町教育委員会では、条例第1号にこの板碑群を指定しました。貴重な板碑を風雪から守るため、昨年6月にお堂が新築されました。
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我々の先祖達が700年に亘って脈々と守り続けてきた阿弥陀信仰の精神と心を受継ぎ、この貴重な文化遺産を大切に保存し、後世に伝えられるよう思い新たな願いを込め、先祖達の供養とします。昭和61年4月3日大鰐町郷土史研究員木田貞夫敬白』
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